鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

尾道 生口島 奈良・平安時代を参考「耕三寺」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

座間 鈴鹿郷神社の神輿が海上を渡御し漂着「鈴鹿明神社」

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。

  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
 みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。

福山 古くからの航路、航海安全を祈願「阿武兎観音」

 磐台寺観音堂(臨済宗)

 1570~73年(元亀年間)に、毛利輝元によって再建された観音堂で、国の重要文化財に指定されています。急峻な岩肌に、青々と飛沫をぶつける瀬戸内の海。その荒々しい自然の中にあって、この異国情緒漂う朱塗りの観音堂が、妙に調和して見えるから不思議です。
 その美しさは古くから名高く、安藤広重の浮世絵や、志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほど。一度は訪れてみたい名所です。

鎌倉 このあたり源義朝の屋敷のあった「寿福寺」

 源氏山を後ろにしたこの寺は、朱塗りの総門をくぐると、木立に囲まれた石だたみの参道がまっすぐに続き、山門のむこうに大きなビャクシンが枝を広げ禅寺(ぜんでら)の雰囲気をただよわせています。
 残念ながら、境内には入れません。 山門前から脇の小道を上がると墓地に出ます。そこには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。

尾道 行基菩薩創建と伝えられる「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。

 西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。

 備後守護の山名氏一統の手によって再興されました。山名氏は明との交易を盛んに行っていたため、瀬戸内海交易の中心地の尾道は非常に重要な拠点でした。港町尾道を円滑に管理下に治めるため、西国寺に多くの寄進を行っていました。

座間 日蓮が立ち寄り休息をされた「圓教寺」

円教寺に伝わる話
 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知の本間屋敷に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

厚木 飯山の観音さん・縁結びの観音さま「長谷寺」

【観音堂】 (重要文化財)

 建久年間(1109~1198)源頼朝公が秋田城介義景に命じ造営を加えしめられた。
 だが、嘉吉二年(一四四二)春一山炎上する処となり、ついで六間半四面の堂宇を再建されたのが堂宇であります。宝形堂で斗棋の組み物や、十二支を素朴な彫りに飾った墓又等によった格調高い建築様式です。内陣には寛文十二年(1672)に旧飯山村の大工西海氏によって造られた厨子が安置され観音堂と共に重要文化財に指定されており、その中に本尊十一面観世音菩薩立像が納められている。

尾道 806年空海によって創建「千光寺」

千光寺本堂からの景色


 冬至の朝、本堂に行くと、本堂を照らす朝日が本堂正面から登り、本堂舞台に、欄干の細長い影を落し、その長い影は舞台に敷かれた板と、美しく平行線を絵描き、本堂本尊に真直ぐ向かっているそうです。
 本堂の本尊が祭られているのはこの後側です。そのためか、最もお参りが少ない本堂と言われているとのこと。
 遠くに「しまなみ海道」の最初の橋が見えます。ただし、サイクリングをする人は、この橋は渡りません。渡船で向島まで行き、因島大橋を目指します。

尾道 大火で焼失、海岸から1928年に移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

神功皇后の妹君の「淀媛命」
 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

鎌倉 若狭の局の霊をまつる「蛇苫止堂」

 蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)
 比企ヶ谷(ひきがやつ)で能員(よしかず)が滅ぼされたとき、能員の娘で、若狭(わかさ)の局(つぼね)と呼ばれた一幡の母が家宝を抱いて井戸に身を投げ、蛇(へび)に化けて今も家宝を守っていると、言い伝えられています。
 その後、執権北条政村(まさむら)の娘が、もだえ苦しむ不思議な病気にかかりました。うわごとをロぱしり、蛇のようにのたうちまわるのです。そのうわごとから、若狭の局の亡霊が、北条一族にとりついて、うらみを晴らそうとたたりをしていることがわかりました。政村はえらい僧に祈祷をたのみ、若狭の局の霊をまつる祠(ほこら)を建てて供養したところ、娘の病気が治ったということす。その祠が蛇苦止堂だと伝えられています。

尾道 瀬戸田 80数年前に建立が始った「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。

厚木 かって養蚕は生活を支えた「蚕影神社」

 かつて市内には 1,500 軒を超える養蚕農家があったそうです。 かっては養蚕はこの地域の生活を支えてきたのでしょう。
 現在はたったの数軒、隆盛を極めたかつての面影はないですね。
 1182年、飯山の金剛寺が起こした訴訟文書に「蚕養」の記事(『吾妻鏡』に載る)があるそうです。その内容は「金剛寺の僧侶等の申し出は、古庄の郷司近藤太が不当な行為をし、由緒のある山寺に雑務を課したり、山狩りや養蚕に使うこと等、みっともないことです。速やかに止める様に」といった内容で、頼朝様が花押を書いて認め、速やかに止める様に命令が出た、とのことです。

鎌倉 法華堂跡「大江広元の墓」

法華堂跡、大江広元の墓
 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。
 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。

尾道 時宗寺院が六ヶ寺、その1つ「海福寺」

 尾道には時宗の寺院が六ヶ寺あり、全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。
 時宗は一遍上人が開祖で一踊り念仏」で知られています。念仏を唱えながら、鉦(かね)や太鼓を叩いて踊るというのが踊り念仏で、民衆のなかに融けこみ布敵しました。鎌倉時代に盛んになりました。
 時宗寺院は、人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなっていたようです。

鎌倉 坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの「巽神社」

 「荒神さま」というとかまどの神・火の神として尊敬されてきました。平安時代のはじめ、坂の上坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東国をしずめるためこのあたりにきたとき、葛原岡(くずはらおか)に荒神を迎えたという伝説があります。その後、1049年(永承4年)に源頼義(みなもとのよりよし)が社殿を改築したといわれ、さらに、今の場所に移ったそうです。

福山 鞆の浦 十三仏が極楽浄土へ「地蔵院」

 十三の仏とは、亡くなった人が極楽浄土へと進めるように導いてくれる閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏達です。
 十三の仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩、です。

鎌倉 円覚寺、石段を上がると国宝の梵鐘「鐘楼弁天堂」

 1301年の刻銘のあるもので、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれている。
 総高259.4cm、口径142cmで、鎌倉時代の代表的な形態を表している(鎌倉で最大の梵鐘)。
 鋳造を頼まれた物部国光は、大きな鐘のため二度の失敗を繰り返すが、北条貞時が七日七夜江ノ島弁財天に参籠し、その加護によって三回目の鋳造で成功したのだという。

尾道 応神天皇休息の地「亀山(久保)八幡神社」

 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。
 神社としての創建は貞観年間(859年~877年)と伝わる。当地は京都から宇佐八幡に勅使を派遣する際のご参詣及び宿泊の地となり、当地を亀山八幡宮として祀ったという。
 境内には一対の灯篭「軍配灯篭」や手水の水盤の牡丹の彫刻が見事とされている。