人間は、サルから進化した動物!

 生物の進化についての解明が進んでいます。ウイルスもDNAに影響を与え、その進化に大きく影響しているようです。環境の変化への適応能力が「進化」というものなのでしょうか。皮膚が進化し、味が分かるようになり、目ができ、耳ができ、ニオイもわかり、自分が生存していく上での情報が入手できるようになり、ときには移動して生存できる場所を見つけて生き延びてきたのでしょう。人間は、環境を作り変える力さえも持ち、自分たちに有害なものを駆逐するまでできるようになったもの(人間)もいます。生物は、いつまで環境の変化に対応できるのでしょうか!

鎌倉 お茶屋の奥のお堂「岩窟不動尊」

 ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。
 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。

カンブリア紀(約5億年前)に生物が大発生!

 古代期の生物が情報を収集する方法は、皮膚からしか情報収集ができなかったそうです。それがカンブリア紀に皮膚が変化し「目」ができ、その目から情報収集ができるようになり大進化をしました。耳や鼻も皮膚が進化してできたのでしょう。その結果、情報の量が圧倒的に増え、脳ができ進化していったのでしょう。私たち人類は、進化の過程で木から下り、食料を得るために長時間の運動が必要となり、放熱のため体毛がなくなりました。その結果、古代に持っていた皮膚からの情報収集力が復活したのでしょう。「殺気」とか「第六感」とかいわれる感覚は、皮膚からの情報収集なのでしょうか? 

福山 かつては海辺に寄った所に「本願寺」

 時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみだそうです。

はつらつとして生きていること!

 「笑い」は、人とのつながりにおいては必須のもの。イラク戦争のときか、米軍の部隊がイスラムの牧師を訪ねるため町に入ったとき、その町の人々に囲まれ険悪な状態になった時、米軍の隊長が「笑え」と命令し、隊員が笑顔になると、険悪な状況が一変したという。その隊長は世界中を一人旅した経験があり、「笑い効果」を実感していたのだそうです、笑いは大事ですね。また、笑いは健康にも良いのですね。白血球が元気になり、免疫力アップにもよい影響があるようですね!

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷神社の下社の横に小さなお堂があります。そこに「縁結び観音」として信仰されている十一面観音が安置されています。
 良縁に恵まれず、諦めて出家した赤松幸運が、この世の若い男女に良縁があらんことを祈って彫った像と伝えられています。
 この像は、徳川時代に足柄郡の尼寺から移されたのだそうです。
 十一面観音は、十一の小面(菩薩面、忿怒面、笑面など)をつけた観音様で、十一の面はすべての人々を救うために、四方八方を見つめており、救済の働きが多面的であることを象徴しています。

定住生活が始まると富が不平等に!

 「定住生活」という生活スタイルが、社会風土というものをつくり出すことに大きく関係しているのでしょう。同じ場所で水と食べ物がが手に入るか、そして、そこで何人が安定して暮らせるか、ということが、集落の大きさを決めていったのでしょう。縄文時代、東日本は比較的大きな集落があり、西日本、特に中国地方にはあまりない、ということは、東日本は水が安定して手に入るが、中国地方は夏には水を確保しにくいことが一因なのでしょうか? そう いえば、井戸に石仏があるのは瀬戸内に多く、東日本では灌漑など田園に水を引く事業に石碑が建てられていますね!

厚木 安産願いに火伏のご利益も付く「春日神社」

 祭神の武甕槌命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬り落としたときに、流れ出した血から生まれた剣の神とされています。
 とりわけ、武甕槌命の活躍のハイライトは、国譲りの場面。
 武甕槌命は、高天原(たかまがはら)の天照大神の命令で、地上の支配者の大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りの交渉をする最後の切り札として派遣されました。
 いよいよ大国主命と対峙したとき、十柄剣(とつかのつるぎ)(長い立派な剣)を、切っ先を上にして波頭に立て、その上にあぐらをかいて威嚇しました。
 そうして交渉を進め、大国主命に地上統治権の譲渡を承諾させる功績をあげたとされています。

見えるものしか見ない人が増えてきている!

 「見えるものしか見ない」人が増えている。しかも自己中心。このような社会的な危機状態のときはやっかいですね。これも核家族で、しかも兄弟姉妹も少ない中で育った人が多くなってきたため、自己中心になってしまうのでしょう。社会的な危機を乗り越えるには、多彩な価値観を受け入れられる人が有利です。シェアハウスで育った子供は、いろいろな価値観の人達と、子供時代から接するため「生き上手」になるのでしょう。働き方改革が叫ばれていますが、育ち方改革も必要なのでしょうね!

尾道 大草鞋の大男がいるよ、悪いことはダメ「西国寺山門」

 西国一の大寺。徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す”調伏”がこの大寺で行われた、とある。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だった、と。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか? と考えてみるのも面白いですね。
 信長の暗殺された「本能寺の変」についての計画が、この辺り(備後)で行われたという妄想もできます。

太っている人が増えています!

 糖質には「糖」という字がついているので「糖質=甘い」と思われているかもしれませんが、甘い糖質と甘くない糖質があります。デンプンは甘くない糖質の代表です。デンプンは米や小麦粉、いもなどの主成分です。ご飯やパンなどはさほど甘いと感じませんが、これらの食品はたくさんの糖質を含んでいます。デンプンはブドウ糖が多数つながったもので、最終的に小腸でたくさんのブドウ糖にまで分解されて吸収されます。稲作が始まったのは、考古学的な調査では約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられています。人類の歴史から考えれば最近のことです。そのためか、体質がその変化に充分に対応できていないのではないでしょうか。しかし、縄文時代に15歳まで生きた人の平均寿命は、男性が31.1歳、女性が31.3歳と言われています。その後の米や麦などの生産が寿命へのプラス面は多く、寿命が延び満60歳(数え年61歳)の還暦からを「長寿」としたのは室町時代頃で、この頃からの長寿の祝いが定着していますので、やはり米などの炭水化物のメリットを選んだということなのでしょう!

鎌倉 下関赤間ヶ淵で網に掛かった釈迦如来像が「薬王寺」

 山口県下関のあたりの海で、魚がとれなくなった時期がありました。漁師達が、赤間ヶ淵(あかまがふち)と呼ばれるとても深いところに網を入れてみると、高さが17cmほどの小さな釈迦如来像が網にかかりました。その像は、背中に刻まれた文字から、中国の唐の時代の645年に作られた金銅製の珍しいものだったので、領主の原田氏は、どこへ行くにも持ち歩くほど大切にしていたということです。 原田氏は、薬王寺を再興した日達を崇拝していましたので、日達が薬王寺に入ったときにこの像を寄進したということです。その後、この像は2回も盗難にあったので、寺では代わりの釈迦如来像を造って釈迦堂にまつり、砂金で造られた釈迦像は本堂にまつるようにしたのだそうです。

皮膚は脳と同じ外肺葉由来です!

 粘菌(原生生物の一群)は、脳を持たない単細胞生物であるにもかかわらず、環境に応じて集合体になったり、役割分担したりする。集合体になる時に仲間をどのようにして見分けているのかというと、人間でいう皮膚感覚なのでしょう。人間も受精し成長する過程では、外胚葉が、脊髄、末梢神経および脳 、歯のエナメル質、皮膚を形成するために分化していく。そう考えれば、皮膚にも外からの情報を感じると、何らかの判断をしている可能性はあるのでしょうか? 「皮膚感覚」は、実際に皮膚に接した情報と考えています。しかし、音などの波長も皮膚は感じています。耳では聞くことのできない高周波や低周波の音も感じています。高性能のイヤホンで聴くより、生演奏のほうが感動するのは、皮膚感覚も影響しているのでしょう。カメレオンは、日陰の部分だけ皮膚の色を変えることができるという。頭で判断しているのではないのでしょう。人間でも危険を察知する「第六感」があります。これも皮膚感覚をもとにしているのではないのでしょうか?

福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていました。
 江戸時代の鞆の家並みは、平入りの2階建てが一般的で、屋根は寺院で用いられるような本瓦葺き、そして全体に骨太で重厚なつくりとなっていました。2階の高さは様々ですが、近隣の倉敷や竹原のように漆喰(しっくい)で塗り上げた仕上げはあまり見られず、窓には木格子を入れていました。1階の店舗は、出格子や蔀戸(しとみど)(跳ね上げ式の大戸)になっていました。澤村船具唐では、今日では珍しくなってしまった蔀戸の構えを見ることができます。

売れない企業に限って気づかない!

 関西の商人が大事にしていた考え方に「三方良し」というものがありました。「三方良し」とは、「売り手」「買い手」「世間」の皆が喜んでくれることで、近江商人が大切にしていた考えです。「売り手と買い手がともに満足し、さらに社会貢献もできるのが良い商売である」と考えていました。彼らは、自分たちの利益ばかりを考えるのではなく、ただ人のためになることを行っていました。そうして蓄積していった信頼は、やがて彼らに大きな利益をもたらすことになります。そこで貯まった利益を、学校の建設や橋の建設に提供し、また、その他の社会貢献にも大きく貢献したのだそうです。神社やお寺へ、また、飲み水は確保のためのダム建設などの資金援助も行っていました。今では、国や県・市町村が行うことが普通になっている公共事業の資金の多くを提供していました。基金のときにも米を提供していた豪商もいました。しかし、今は株主が強くなったためか、企業が寄付することは難しくなりましたね!

尾道 鉱毒事件の調査に来たのか?「志賀直哉旧居」

 志賀直哉は、足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説を聞いて衝撃を受け、足尾銅山の公害事件に興味を持った。
 祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突した。父親と対立から1912年尾道転居した。
 「なぜ、志賀直哉は尾道に来たのか?」(推論)尾道は、別子銅山(四国)の公害事件(日本での最初の公害対策)が行われた場所であった。そのため鉱毒事件に関する対策を探りに尾道に来たのでしょうか?

行きずりの人からも情報を得よう!

 日本の風土もいろいろあります。西日本では隣町でもかなり違っています。関西の大阪、京都、奈良、神戸などと、関東の東京、神奈川、千葉、埼玉などと比べると、関西のほうが風土の違いが大きいです。そのためか「行きずりの人」への対応も、地域によってかなり違うようです。その地域の写真を撮りながら歩いていると、大きな川を隔てて、西と東でも違っているな、と感じることも多いです!

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

専門家と呼ばれる人はそこでしか生きられない人!

 「定住を基本とした社会」か、「移動を基本とした社会か」で、その地域の風土がかなり異なるようです。移動を基本としている社会は「能力主義」が基本になります。しかし、定住を基本とする社会では、個々人の能力が平準化した方が、その社会がより協力的になり、不満も少なくなると思います。現在の日本は、欧米の考え方の比重が高くなっており、能力主義がよいとされているようです。しかし、日本では「少しばかりの能力の差」が、過大に評価されないように注意する必要があるのでしょう!

鎌倉 源氏の旗、白旗に因(ちな)む「白旗神社」

 小田原を平定した秀吉は天正十八年七月十七日、奥州へおもむく途中、鶴岡八幡宮に参詣した。
 そして、白旗社の扉を開けさせ、源頼朝の木像にむかって話しかけたという。
「およそ微少の身で天下を取ったのは、わが国では御身(頼朝)と自分だけである。しかし御身は多田(源)満仲の後胤という名門の出で、しかも頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に威を張った。だから流人となっても、兵を挙げると関東のものがみな従ったので、天下を統一するのにたやすかった。自分はもともと氏も系図もない身であるのにこのように天下を取ったのだから、その功績は自分の方が勝っている。しかしながら御身と自分とは天下友達である」と、ひとりしゃべりおえると、頼朝の木像の背中をポンポンと叩いた、というエピソードがあります。