志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
志賀直哉は、夕方になると
八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか?
そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。
この長屋の縁側に座り、スピーカーから流れてくる説明を聞きながら、景色をながめ、疲れを癒やしていると、気持ちも穏やかになってきます。
志賀直哉は、足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説を聞いて衝撃を受けた。足尾銅山の公害事件に興味を持った。祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突した。父親と対立から1912年尾道転居した。
「なぜ、志賀直哉は尾道に来たのか?」(推論)
尾道は、別子銅山(四国)の公害事件(日本での最初の公害対策)が行われた場所であった。
1894 年被害農民が操業停止を求めて住友の新居浜分店を襲撃するに到り、会社は被害農地を買い上げ、1895 年農民代表は住友大阪本店と補償交渉をするこ
とになった。その交渉の場所は、交通的に見て大阪の住友と別子銅山周辺との中間の尾道が選ばれた。そこで時の鉱業所支配人、伊庭貞剛は「住友家の家名を汚すようなことがあ
ってはならない」と足尾の二の舞を避けるべく、“尾道会議”を開き、公害対策に取り組んだ。住友家と別子銅山周辺の村長たちが一ヶ月ほどの激論を交わし、瀬戸内海の無人島への精錬所移転を計画した。1896年着工、総費用は当時銅山年収の1.5
倍以上に相当する170 余万 円を要した。大洪水で大被害が あり四阪島への移転は1904年となった。移転してみると期待に反して被 害は減らず、むしろ汚染地域が拡大、その後高い
煙突を建てたり電気集塵機を導入し排ガス浄化に努めたが、1939年 SO2 中和工場(脱硫) 完成によりよやく賠償金を大幅に減らすことができた。
このような日本初の公害交渉の場所であった尾道に、志賀直哉は興味を持ったのかも知れない。