鎌倉 明治時代に小学校が建てられた「啓運寺」

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 1876年(明治9年)頃、ここに桑楊学校という小学校が建てられ、乱橋・材木座・大町の三ケ村の子ども達が通いました。その後1882年に、光明寺の千手院境内に移り、乱橋・材木座の子ども達だけが通い、大町村の子ども達は、別願等に建てられた大町学校に通いました。
 また、明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法」の名画を描いたということです。


カジノの恩恵は報道されない!

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 日本での「カジノ解禁問題」について、マスコミは「悪い面」を中心に報道しております。しかし、既にある多額の財政赤字、これからも赤字が増加しかねない財政に加え、過去に経験がない自然災害への対応は、考えられないほどの資金が必要でしょう。昔、商売に成功した人たちは、多額の寄付をし、ダムを造ったり、文化財を修理・保護などをしてきました。それがほとんどない現代、「いい顔」が大事なマスコミの姿勢に、ついていって大丈夫なのでしょうか?


尾道 江戸時代の豪商橋本家の「爽籟軒庭園」

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 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

上手な記憶方法!

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 最初に接した情報が定着してしまい、その情報と異なった情報が入ってきても、なかなか見方を変えることができないという。また、同じ組織や業界に長期間属していると、見方を変えることが困難になってくる。「思考の老化」なのでしょう。健康寿命が叫ばれていますが、「からだのウォーキング」と共に、「あたまのウォーキング」も重要ですね!


鎌倉 行基が行脚の途中修行した「虚空蔵堂」

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 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。ここは道の向い側の山の上にある成就院が管理している所です。
 本尊の虚空像菩薩は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。
 源頼朝もこれを敬い、ご本尊は秘仏として35年に一度だけ拝めるようにしました。けれども今は、毎年1月13日に御開帳して拝めるので、受験の時期でもあり、たくさんのお参りがあります。


猛暑の夜はどうするか?

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 「自分で」判断する、ということが難しくなってきているのでしょうか。「知識優先」、そして「専門」を目指すことが一般的になってくると、体験が軽んじられてきます。人類の歴史の99%以上の期間は、体験で学んできました。「言葉」が生まれ、「文字」が生まれ、紙が生まれ、教育が定着した結果、「体験」することが軽んじられるようになってきました。体験して、その後に教育を受けると、智慧につながっていきます。日本の職人の伝統だった「技術は見て盗む」は、本来の姿に近いものがあったのでしょう!


鎌倉 中世の状況を残す「浄光明寺」

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 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。


基礎学力は「読み書き計算」!

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 想定外の災害が日常化する時代に入り、「点数には表れない学力」が大事な時代になったようです。「点数に表れる学力」は”今までの事実”であり、想定外の事態には対応できません。これからは、「今までの事実+今までの体験+今現在の情報⇨想像する力=これから想定される事態」を考えることができる力が必要ですね!

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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祭神菅原道真公。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。父祖以来の私塾である「藤原廊下(東大と京大を一緒にしたようなもの)」を引き継ぎ、そこの学長になった。
 57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。


「○○をしてはいけない」!

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 きびしい親に育てられ、自立が遅れた子供は、「してはいけない」ことを忠実に守ろうとします。その反動が大きくなって出てくるようです。「守ろうとする」ことが定着した人は、働き過ぎになりやすく、「守ることに反発」した人は、異常な行動を起こしたりするようです。「してはいけない」ことに、ある程度の(やっていいのか、そうでないのか、疑問を持ちながら)興味を持つ方が健全なのでしょう!


尾道を代表する観光の寺「千光寺」

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 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。


非戦闘員を殺す戦争!

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 第二次世界大戦の当時、米国航空軍の航空機の数は、ドイツ、日本、米国は6位、開戦当時は米国はたったの14機しか保有していなかった。太平洋戦争が始まったとき、米国陸軍の下部組織だった航空軍は、空軍独立のチャンスが来たと考え、航空機をどんどん開発、製造、空軍力だけで日本を降伏させようと考えた。どんどん過激な作戦(全国人口密集都市への毒ガス計画まで)を考え、ついに、非戦闘員の大量虐殺を実行した。ウォルト・ディズニーは、日本への爆撃が始まる2年前の1943年、日本への徹底した空爆の映画を作成していた!


鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願した「小動神社」

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 小動(こゆるぎ)の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
 縁起によれば、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱(もりつな)が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。


古都京都の風土!

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 日本国内の風土はどこも同じようなもの、と無意識に思っている人が多いようです。しかし、よく見るとかなり異なっています。大地震後の対応でも、支援の食べ物を貰ったとき、東北では「どうもありがとうございます」という人が多いのに対し、神戸では「冷たいままなのか!……」と不満顔。ストレスの強度から見ると、神戸の方が“ストレス度が低い”ように感じます。災害から数年後をみても、東北の方が”引きずっている”ような感じを受けます。歴史的に災害が多い西日本の方が、ストレスからの回復が早いのでしょうか。今回の豪雨による災害も、気持ちの早い回復ができるとよいのですが!


福山 鞆 シーボルトも訪れた「医王寺」

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 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の皐朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

熱中症で体内発電機が機能不全に!

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 猛暑の季節になりました。災害の後片付けは過激な作業になります。一生懸命に作業しているため、気がつくと熱中症の場合もあります。周囲の人が声をかけ、休憩と水分の補充を行うことが大事です。また、断水の地域があります。これが一番大変です。普通の生活ですと一人1日290リットル、たとえ二階に住んでいたとしても運べないですね!


鎌倉 通称“銭洗い弁天”の「銭洗弁天宇賀福神社」

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 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。


エレベーターのドアが!

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 災害が多発する時期に入ったようです。そんな時期だからこそ、エレベータでの「人付き合い」のあり方を、考えてみてはどうでしょうか。いくら「大都会だから」といっても、積極的に助け合う下地をつくっていく努力を始める時期にきたようです!

尾道 旅人の喉を潤してきた”延命井”の「正念寺」

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 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。

「良い恋愛」をしているとき!

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 「失敗してはいけない」、あるいは、「よく思われたい」を前提にした人づきあいは、ストレスが溜まります。それを避けるために、人づきあいがなくなっているのでしょう。地域によっては、「感じがいい人」だとか、「感じが悪い人」などと考えることなく、どんな人でも、そのまま受け入れてくれる地方もあるようです。教育やマスコミは、特定の「あるべき姿」を前提にして、教育なり報道をするため、その「あるべき姿」しか受け入れてはならない、といった考え方になるのでしょうか?