尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 「民話 西国寺の仁王さん」では、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんを、船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運んだと。

潔癖性は理想主義に通ずる!

 劣等感は他人と比較するところから始まります。あるいは、何かしらから手に入れた理想との比較で、自分が劣っていると感じたところから始まります。
 この比較はなぜ起こるのでしょうか、自分の向上心が原点にあるのでしょう。
 日本は劣等感の強い国だといわれています。しかし、その劣等感を生かして、「追いつけ、追い越せ」で発達してきました。
 他人(他国)など気にしないで、のんびりと生活する人(風土)と、他人(他国)を気にし、なんとか「追いつけ、追い越せ」精神で努力することと、どちらが自分(自国)に適しているのか、冷静に判断ができると良いのですが!

鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」

 光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
 ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売りの供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。

「ダメだ」と言いそうになったら、「タメだ」と!

 「失敗」=「やりそこなうこと。目的を果たせないこと。予期した効果をあげられないこと。」なのですが、「このやり方ではダメだ」という実績でもあるのです。
 ということは、別のやり方を見つけるための準備でもあります。
 「失敗=終わり」ではないのです。失敗の事実をしっかり調査・分析し、また同じような機会が訪れたとき、前回失敗の分析結果を反映すれば、成功の確率が上がります。その繰り返しが人生です。この体験が大事ですね。

福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。

 1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

選択は、いつも自力で行うのが基本!

 「選択」を行う場合、自分ではあまり考えないで、NETなどで検索し、結論を出す場面が増えているのでは、と心配です。
 これに、生成AIが普及すると、余計に自分で考える場面が少なくなるのでは、と心配です。
 やはり、いろいろな体験をし、その上で、多彩な知識・情報を集め、それらを比較し、取捨選択をし、そして結論を出す、という過程が必要なようです。
 いろいろな情報が手に入らない国もあります。また、を宗教的な理由で、判断が制約されている国もあります。
 思考は、やはり多様なほうが良いのでしょうね!

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
 一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

 徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

古代の人類は太陽信仰みを持っていた!

 自然信仰や先祖を敬う信仰が少なくなってきています。もちろん国によってかなり違いはあるのでしょうが、自然に学び、自然を大切にすることは、人類の生き残りの期間を延ばすことにつながっているのでしょう。
 ただ日常では、ついついエアコンを使い、蓄電池つきの電化製品を使ってしまいます。どうしてなのか、コード付きの電化製品ですむ場合でも、蓄電池つきの電化製品になっています。
 この無意識が温暖化につながり、人類の生存期間減少に影響を与えるのでしょうね。これを救うのは、太陽信仰や自然信仰なのでしょうが、これを取り戻すことは出来るのでしょうか?

尾道 蓮花坂(れんが坂)入口 → 大山寺へ

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 尾道には、確かに坂道がたくさんあります。しかし、ほとんどの坂道の途中に石段があります。
 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?

ビジネスにお客からのクレームはつきもの!

 商人の町として歴史のあるところで、ビジネスの基本を学べると良いのですが、いまでは歴史のある商人の町ですら、商人としての風土を少なからず失ってしまったようです。
 しかし、商人の歴史はまだ学べます。もう一度、百年・二百年と、商売を続けていくことが出来るノウハウを学んでほしいですね、
 ビッグモーターは極端ですが、多くのビジネスは、むかし豪商と言われた人達と比べると、社会への貢献という発想が、消えてしまっていますね!

厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」

 豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(1591)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
(明治維新の廃仏毀釈令は、寺院から撞鐘、半鐘、鰐口などを提出させ大砲の材料とした一面もあったのでしょう。)
 明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六(5.28m)の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花燗漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。

「破壊された石仏」たち

 地蔵菩薩などで、首が欠けたり顔や腕が削られたりした傷ましい石仏を見ます。それらは自然の劣化によって起きたものではなく、明らかに人為的な破壊行為によるものです。 このような石仏に対する破壊行為が起こった背景には、明治維新後に新政府が公市した「神仏判然令」とそれによって影響を受けた「廃仏毀釈」と呼ばれた仏教の排斥運動がありました。 この六地蔵のうち四体は顔の部分が壊されています。厚木地区ではこのほかにも壊された石仏が各地にあります。

まずはほめてから、問題点を指摘!

 ビッグモーターの事件で、改めて「まずはほめてから、問題点を指摘」という原則の大事さを考えました。
 「ほめてから、問題点を指摘する」には、冷静さと、解決の方向性が分かっていないとできません。
 まずは自己研鑽が必要なのですが、生成AIが助けてくれるようになると良いのですが、はやくできるようになってほしいですね!

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

「稲荷の神霊と頼朝」
 頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑になっていたとき、ある夜、翁が枕元に現れ、「兵を起こし、平氏を滅ぼし、天下を統一せよ」と激励したと言う。
 さっそく、頼朝は鎌倉に入るやいなや、稲荷の神霊に感謝して、佐助山の隠れ里を選び、社殿を造らせ、佐助稲荷神社とうしたと伝えられている。
 このためか、鎌倉には稲荷を祀るところが多い。

思春期は、見た目に最も関心を払う時期!

 若者は多様性を持っています。と同時に、その多様性を絞り込もうとしています。ただ、その絞り込みは「見た目」が中心になっているようです。
 芸術家で、若くして命をなくした人達は、行き過ぎた見た目の絞り込みが原因だ、と思える人もいます。
 生成AIのしくみが、若者の深みのある思考に、つながっていくと良いのですが!
 

尾道 のどかな海岸広場が 「尾道駅前海岸」

 駅前にこんなに広い空間を公園にするという発想が、どこから生まれて来るのでしょうか。古くから尾道に住んでいる人にとっては違和感がないのでしょう。
 しかし、他の都市はバスやタクシー乗り場以外は商業スペースになっています。

 古くからの商業都市の尾道、駅前にしては広大とも言っていい公園スペースを許す文化があるのですね。

「あるがままの自分」を生きている!

 人間、あるがままに生きている人は、どのくらいおられるのでしょうか?
 多くの人は気づかないまま、なにかしらガンバって、ガマンして、生きているような気もします。
 縄文時代の人々は、もっとゆるやかに生きていたのでは、と思ったりします。それは、縄文土器を見たときです。細やかな模様を、自由に、楽しみながら、時間など考えずに、造っていたように思われます。
 縄文時代の人は、何千年かあとに、学歴社会になるとは、思ってもいなかったのでしょうね!

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

子どもが一番したいことは「ダメ」と言われたこと!

 子育てでは「個性を大事に」と言われます。
 「子育てしているあなたの個性はどうですか」と問われると、ちょっと直ぐには返事が出来ないですね。
 個性など気にしないで、好きなことを自由にやっていると(人に対し危険なことは注意が必要ですが)子供は育っていくものでしょう。
 ただ、何でも出来るようにすることは、個性は育たないようですね!

鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。
 桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。
 忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

時間をどうしたら生み出せるか!

 「忙しい」という中にも、二種類あります。決断が早く、行動も早い人で忙しい人は、本当に忙しい人。決断に手間取り、結果としてやることが溜まる人は、忙しそうに見える人。
 現状把握が洩れなく出来ている人は、決断が早く、すぐ行動に移れます。現状把握の一部に洩れがあると、決断が遅くなってしまい、その結果忙しくなります。
 現状把握といっても、できるたけ“現場”の状況を洩れなく把握すると、誰でもほぼ同じ判断になります。
 関係者の判断内容が異なる場合の多くは、現場の状況把握が不十分な場合が多いのでしょうね!