人間はガン細胞や認知症、うつ病など、自分の体でつくり出しているもので、自分の命を落としたり、機能が低下しています。
しかし、勝手に変化する細胞が、もしかしてら、自然環境の変化に対応でき、人類の生き残りに貢献したのでしょうか?
石器時代から縄文時代と、自然環境は大きく変化を繰り返しています。この変化にホモサピエンスが対応できたのは、遺伝子などの体の変化が、生き残りに貢献したのでしょうか?
鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」
人間は、耕せば実り豊かな畑になる荒れ地!
尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」
強者の「共生論」はかなりいかがわしい!
厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」
現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
明治以後7月14日から16日まで祭礼が行われ、「厚木の天王様」を楽しみに近郷近在の人があつまり、町中に各町内会の山車と神輿が繰り出し、祭りばやしが響きにぎわいました。その後、交通事情の悪化により山車と神輿は中止されましたが、昭和49年より、又、復活しました。
「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)
世の中には絶滅する動物と生き残っている動物がいる!
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
1日約2%の細胞が死に、新しい細胞と入れ替わる!
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」
江戸時代には「恩送り」という言葉があった!
尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」
少なくとも江戸時代からいるハトたち。
江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使い、大阪の米相場の情報を入手していました。このお寺の言い伝えに「平家は伝書鳩を使うことが出来なかったが、源氏は伝書鳩を使うことができた」と伝えられています。そのためか源氏はピンポイントで平家の大将を攻撃できたのでしょうか?
また、こんな話もあります。【伝説 ハトの道案内】
南北朝のむかし、京での戦に敗れた足利尊氏が、兵力を立て直すために九州へ下る準備を進めていたときのことです。どこからともなくまっ白いハトが飛んできて、尊氏の御座船の上を何度もゆっくりと旋回し、帆柱に止まりました。
「おお、あれを見よ。源氏の流れをくむわれらの船出を白バトが祝ってくれてお…………白バトの水先案内で尊氏の大船団は、途中敵もなく瀬戸内海を西へ西へと進みました。数日の後、島に囲まれた景色の美しい港に船が着きました。
「これはまたにぎやかな町じゃが、どういうところじや」
「はい、尾道というところです」「はい、十一面観世音菩薩を御本尊にいだく浄土寺と申す寺でございます」…………石段を上っていくと大勢の僧侶たちが尊氏一行を「美しいところじやのう。今宵はここに船を泊めることにいたそう」………
鎌倉幕府の成立年を1185年と唱える歴史研究者が登場!
相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」
低酸素の状態にあるとき、がん細胞は活性化する!
鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」
鎌倉にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土
七福神のなかで唯一の女性、弁天(弁財天、弁才天)!
尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」
「潮汐現象は」、月の引力によって起きている!
厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
子安神社(こやすじんじゃ)は、主に安産・子育ての神が祀られている神社です。
木花咲耶姫命=コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記されています。ひ孫が神武天皇になるのでしょうか。
神話では、地上に降った天孫・迩迩芸命は、桜の花のように美しい女性と出会う。山の神・大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売です。一目惚れして迩迩芸命(ににぎのみこと)が結婚の許しを乞うと、大山津見神は喜び、もう1人の娘・石長比売(いわながひめ)まで添えて送ってきました。
ところがこの石長比売は目を背けるほど醜い。天孫は妹の木花之佐久夜毘売とだけ結婚し、姉のほうは返してしまう。実は大山津見神が2人の娘を送ったのには理由がありました。石長比売には「天孫の命が石のように永遠であるように」と、木花之佐久夜毘売には「天孫が花のように美しく栄えるように」と願いを込めていたので、石を返し花を選んだため、こののち天孫たちは栄えるものの、命は人間と同じようにはかないものになってしまいました。神の子孫であるはずの天皇が人間と同じ寿命であることを説明するための神話です。



















