鎌倉 石段の登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺

 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。

 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。
 また、1月、5月、9月の13日には「護摩焚き供養」が行われている。

核戦争後の地球、地中深くに逃れ生き延びるより他ない!

 アメリカは、イランの核施設を破壊したと、報じています。しかし、核のゴミは残るでしょう。
 核戦争は、爆弾での被害だけでまく、核の雨や核のゴミ(放射性廃棄物)を生み出します。
 核のゴミをドローンでばらまかれたら、ドローンを打ち落としたところで核のゴミはばら撒かれてしまうでしょう。
 すると、人に被害を与え、作物などの食べ物に核物質が含まれてしまいます。
 核戦争は、爆弾によるその場の被害だけでなく、雨や風による放射性廃棄物の被害、そして食べ物によるじわじわとした被害、爆弾を落とした側も、防ぎようがないですね!

相模原南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。

 青面金剛尊霊場(札所)

 青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。
 この会合を「庚申講」と呼びます。庚申講は平安時代から貴族に広まり、やがて民間でも盛んとなり、夜通しの酒宴へと変化していきました。仏教では、青面金剛は帝釈天の使者で、悪霊を払い除く力があるとされています。

社会全体が「ハウツー」重点主義になっていったが!

 ハウツーものがはやすようになって随分立っています。
 体験より知識優位の時代が続いています。
 パソコンのソフトの使い方でも、ハウツーものに頼ってしまいます。
 どうにかソフト開発者の思考スタイルになれれば、ほとんどハウツーものに頼ることなく、「このソフトを作った人はどう考えたのだろうか}と推測できれば、ハウツーものは必要がなくなります。
 やっかいですね!

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。

 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。

 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

自分らしく生きていますか?

 自分がいい気持ちでいられ、そして、自分が行きたいところに行く、そんな人生が送れたら最高なのでしょうね。
 でもせめて、自分らしく生きていける、そう感じられたら、充実した人生になるのでしょう。
 がんばらなくても、そうなれたら良いですね!

 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
 この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
 後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
 1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
 日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
 日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。

肌のハリと艶の悩み!

 日光の強さが気になる季節ですね。日焼け止めは、良い面と悪い面があり、選ぶのが大変ですね。
 肌は、年齢と共に体調も関係しており、肌の色や質感を良い状態に保つには、日常の生活すべてが関係しているのでしょうね。
 運動、食事、精神状態、睡眠などすべてに気をつけないといけないようです。大変ですね!

厚木 相模観音霊場27番札所だった「聖眼寺」

 寺院の由来と歴史

 聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
 江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。

 『新編相模国風土記稿』の古文書によると、開山は円珍(えんちん)といわれる智証大師(814~891)で、観音堂には千手観音長二尺智証作を置くと記されています。円珍は14歳で比叡山に登って修行。天台教学・密教を学び、第五世天台座主となり、法門の発展に尽くした高僧です。

暑さ対策、どうしようか!

 暑さ対策は「エアコン」ですね。ただ心配なのは、汗腺の数がどうなっているのか?
 人間の体表には200万個から500万個もの汗腺があると言われています。汗腺の数の差が2.5倍も差があります。これは暑さに対する適応力の差なのでしょうか?
 もしそうだとすると、赤ちゃんのときからエアコンの部屋で育っていると、汗腺の数が少なくなり、暑さに対する対応力が小さくなってしまうのでしょうか?

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。
 寺宝の「官人使馬之図」(市重文)の額は、当地橋本氏の祖次郎右衛門が海上で難風に遭ったとき、この寺の聖観音に祈願して海難をのがれたので報恩のために異国からこの絵を持ち帰って本納したと伝えられている。

これからの時代、注目すべきは「エコ」と「環境型」の産業!

 環境問題は、これから世界全体の最重要テーマ。
 だが、アメリカは自らを「石油中毒」と認めていたが、大腸量が変わると石油中毒を続けてしまう国になってしまう。
 当面の利益を優先した方が、民衆に指示されるのでしょうか?
 アメリカには、温暖化に対する「現場感」はないのでしょうか?
 「移民国家」というのは、歴史の積み上げがそれほどないため、発想が単純になってしまう野でしょうか?

鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」

 鎌倉時代の執権北条時頼(ほうじょうときより)の夫人が建てたと伝えられています。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)で、浄土宗の高僧の一人です。公開されていませんが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、本堂の正面にまつられ、右側に観音像(かんのんぞう)や阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、左側に地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。こここにまつられている地蔵像は「身代(みがわ)り地蔵」といい、時頼夫人が日頃信仰していたと伝えられる仏様です。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

外交では、「柔軟さ」や「寛容」を失ってはいけない!

 外交で大事なことは「柔軟さ」「寛容さ」だそうですが、野党の人はもちろん、多くの政治家からは感じることはありませんね。
 「主張」が中心になると、柔軟さや寛容はなくなってしまいます。
 これはヨーロッパ文化なのでしょうか?
 日本語データベースでの単語検索では、同じ単語で検索しても多彩場面で使われていることが分かります。
 日本語には「柔軟さ」「寛容」があることを感じます。
 政治家も、日本では「柔軟さ」「寛容さ」を大事にしてほしいですね。現在の選挙では不利なのでしょうが。民主主義にも弱点はありますから!

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 創建700年の歴史ある臨済宗の禅寺です。本山は鎌倉の建長寺で、山号は本鏡山(ほんきょうざん)です。学問の神様として知られる菅原道真に縁のある菅原長員(ながかず)が、祖父菅原長貞の菩提を弔うために建立し、本覚了堂禅師により開山されました。御本尊は釈迦如来です。江戸時代には寺子屋(主に、読み・書き・算盤(そろばん)の初歩学習を行なった。)、後に「新戸学校」が開かれました。現在も寺子屋として、「写経」「茶道」の文化講座に繋がっています。

富士山の噴火に備えた防災!

 富士山の噴火に備える準備がされ始まっていますが、万全の対策は無理なのでしょうね。
 溶岩流は時速10km位なのでなんとかなるのでしょうが、火砕流はときに時速300kmにも達するとのこと、噴火が始まってからでは対策は無理ですね。
 昔と違って電子機器が増え、その動力は電気、発電設備の災害と当時に、雨が降るとショートして壊れてしまいます。
 昔の生活スタイルは、現代人も経験しておく必要があります。
 洗濯板を使って、洗濯をしたことはありますか? でも、洗濯板を持っている人はほとんどいませんね!

尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」

 未来心(みらいしん)の丘。

 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

日本人の「人間観」、欧米流の影響を受けているように見えるが?

 日本人の人間観は、「哀しい存在」だという根本認識があるそうです。
 確かに、プーチンさんやトランプさんを見ていると、どこかに哀しさを感じます。
 これは国民全員に「好かれたい」という意識があるように感じてしまいます。
 戦国武将の毛利元就は、「100人中100人に褒められるような人間に、ろくな奴はいない」と、言っています。
 日本人の人間観どこかに、悲しさ、侘しさ、どうしようもない何か、を感じているのでしょうね!

鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」

 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

「利き腕・足」に頼らないことも重要!

 「利き腕」というものがありますね。ふと縄文土器の模様を見ていたとき、これを作った人は「右利き」・「左利き」と思ってしまいました。
 展示物には、「右利き」・「左利き」の人が作ったとの表示は見たことがありません。これは時代が変わっても見ませんね!