活動的火山のランクの富士山、噴火はいつ来てもおかしくない!

 地震や火山の噴火は、今の技術では予測が難しいようです。
 しかし報道では、危険対応が中心に放送されます。その結果、かなりの人は、買い溜めをするようになってしまいます。
 そして、役所関係も災害対応の強化を促します。
 もう少し、近所の人達と安全対策を進めるような対応はできないのでしょうか?
 100年ほど前なら、近所の人達で災害対策を相談していたようですが。

尾道 鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 ここからの景色が、尾道一かも。

 景色を眺めながら時間を過ごすと、無心のなることが出来ます。「しまなみ海道」の本土側の最初の橋から、西側は三原市の南部が見えます。秋から冬にかけて、夕日が沈む景色は最高です。ただし、暗くなる前に下りること。真っ暗な山道になってしまいますから。 

摂取カロリーを60%に抑えると、寿命が延びる!

 食べ過ぎだけでなく、100%でもからだには良くないようです。
 よく「腹八分」といいますが、それでも食べ過ぎのようです。
 人類の歴史には、継続的に満足に食べる、という歴史はなかったのでしょうね。
 そのため、人間のからだは、お腹が空いた状態を普通として、進化してきたのでしょうね。
 継続して安定的に食べられる人は、「腹六分」のようです。難しいですね!

相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」

“ 昭和8年(1933)に造られた鳩川分水路(現、鳩川隧道分水路)は段丘上からの放流の勢いを緩衝するための段差が三段あることから「三段の滝」と呼ばれ、その後、昭和63年(1988)には、その上流に「新三段の滝」が完成しました。この付近は「相模川散策路」の一部として整備され、展望台から見る相模川を望む眺めは風光明媚なスポットとなっています。
 また、この新三段の滝辺りから相模川散策路を歩いてみますと、西側に相模川、その奥に大山、丹沢連峰の雄大な絶景が目に入ります。四季を通じて、季節の様々な移り変わりの表情を見せてくれる、とても良いところです。”

「覚えた事柄はいつでも思い出せる」と潜在意識に!

 何かに取り組むとき、先ず、分析。行き当たりばったりでは運もついてきません。
 取り組む内容を分析する、また、自分を分析することも大切です。この作業を事前にすること、
 「何を」「いつまでに」「どこまで」「どのように」すればよいのか、それができると具体的な取組方法が浮かんできます。
 そのような作業をやっておくと、たとえ失敗しても、その失敗が自分の財産になってきます!

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

 祭神は、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供。

 ここにも三尺坊というお天狗様が現れ、
 「われこそは秋葉大権現なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」
 との声を残して消えたのでしょうか?

 三尺坊の十三の誓願の中でも三大誓願に、
1、失火と延焼と一切火難を逃がす
2、病苦と災難と一切の苦患を救う
3、生業と心願と一切の満足を与う
とあるので、他にも対応できるのでしょう。

聖徳太子が実在の人物ではなかったという説が!

 誰も知っている、日本古代の偉人「聖徳太子」、近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という。
 教科書表記にも影響を及ぼすほどになっています。
 教科書では、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのですが、最近は「厩戸王(聖徳太子)」とカッコつきの表記に変わってきています。
 「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が、後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。

鎌倉 明治時代まで縁切り寺として連綿と寺法を維持「東慶寺」

 東慶寺は、山号を松岡山(しょうこうさん)という臨済宗の寺です。1285年(弘安8年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の夫人の覚山志道尼(かくさんしどうに)を開山として、時宗の子貞時(さだとき)が建てたといわれていますが、源頼朝の叔母の美濃局(みののつぼね)が創建し、山尼が禅宗に改めたともいわれています。
 覚山尼は、時宗が仏門に入ったとき、一緒に尼となって東慶寺に入り、禅の修行に励みました。有名な「縁切寺法(えんきりてらほう)」をつくったといわれていますが、これが確立されたのは江戸時代だといわれます。
 江戸時代、鎌倉では鶴岡八幡宮・円覚寺につぐ寺領を持ち、建長寺よりも多くなりました。

避けて通れぬことは避け無い!

 自然な中で育つと、避けられること、避けられないこと、を体験します。
 避けられないことに出会ったとき、どう対処するか、考えざるをえません。
 その体験を繰り返していると、いろいろな場面に出会っても、冷静に「どうしようか」と考え、対応します。
 昔は「ガキ大将」がいましたので、自分が小さいとき、自然の中でどのように対応するか、学ぶことが出来ました。
 また、自分が大きくなり、ガキ大将になった時、その経験を小さな子に教えていました。
 今は「ガキ大将」がいなくなりましたね!

尾道 江戸時代の豪商橋本家の「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。

 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

 こうした江戸時代の茶園文化を伝える爽籟軒庭園は、尾道を代表する庭園として知られ、年間を通じて茶会が行われ、毎年、10月第2土曜日は夜間特別公開として、尾道灯りまつりにあわせ、優雅な姿を公開しています。また、今年はしまのわ大茶会として、10月19日に爽籟軒でも茶会が行われます。
(尾道市東京事務所便り 平成26年9月号より)

色彩は想像する以上に、行動に大きな影響を及ぼす!

 動画や文字情報は、“見ている”という意識がありますが、色については、見ているという意識はそれほどありません。
 しかし、気持ちや心への影響はかなりあるようです。
 商店など、人を引き込む所では、かなり意識されているようです。
 人は、意識していなくても、色は、人の行動を左右しているようです。
 色彩の認知度は、男女差があるのでしょうか?
 もっと注意して、色彩の影響を意識しなければ行けませんね!

相模原西部 庚申信仰の“青面金剛”が!「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
  厚木にある龍鳳寺の末寺で山号を金澤山(こんたくさん)といい、御本尊は千手観音(千の慈手・慈眼をそなえて、あまねく衆生を済度(さいど)するという変化観音。普通は、合掌手を除き四十手、掌中に各一眼を持ち、一手ごとに二十五有を救うといい、頭上に二七面または十一面がある。)です。本堂の一角には、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が祀られていて、六本庚申、千体庚申などと呼ばれていました。

終戦8月15日(9月2日)戦争報道で「シベリア抑留」は?

 終戦の日に、原爆に関する放送はそれなりにあるのですが、「シベリア抑留」に関する放送は、まずありませんね。
 物理的な情報が残っていないこともあり、また、話す人もそれほど多くないことが影響しているのでしょうか?
 しかし、シベリア抑留の話を聞くと、いまのロシア(当事はソ連)の風土が分かり、現在、ロシアがウクライナをなぜ侵略しているのか、より深く考えるキッカケになります。
 シベリア抑留の情報は、それほど多くはないのですが、機会があれば情報を手に入れましょう!

鎌倉 浄土、真言、華厳、律の兼学の寺「浄光明寺」

 北条時頼と長時により創建され、「浄光明寺敷地絵図」に示されるような中世の状況を残しています。鎌倉歌壇の成立を物語る冷泉為相(れいぜんためすけ)の墓があります。
  冷泉為相(1263~1328年)は異母兄弟の二条為氏と播磨細川荘の相続争いで、訴訟で鎌倉に来ていた。(「十六夜日記」の作者 阿仏尼は冷泉為相の母。京都から16日間歩いて鎌倉に来たとのこと)
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

自分が正しいと信じる生き方、それを他人に押しつけてる?

 「””自分が”正しい」を、他人(部下)に押しつける人。その中には、ロシアのプーチンや今の兵庫県斎藤元彦知事、日本の歴史では織田信長など。
 ””正しい”ためなら、平気で人お命を奪ってしまいます。正しいことをしているという感覚で悪いことをしてしまう人、これが一番タチが悪いのです。頭がいいだけに、手のつけようがありません。
 昔は、その対策としては、暗殺しかなかったのですが、今は対策はあるのですが、充分とは云えないようです。現実に、長く続いていますから!

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

褒められない人間は心が歪む、かも!

 以前は、異常な犯罪と考えられていた犯罪が、日常化しています。そお原因は、子供時代の生活には関係していないのでしょうか?
 むかしは、法律以外に社会のマナーが大事にされていました。
 政治家ですら、昔は異常なことが、通常となっています。
 普通の人達の暮らしの歴史を、こっと明らかにし、学び直すことも必要なのでしょうね!

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像も「阿弥陀寺」

 1748(延享5)年に、宇和島藩の接待によって朝鮮通信使の宿が「阿弥陀寺」に移ったとき、眺めが悪いためか通信使一行は抗議して船に帰ったといいます。
 通常、朝鮮通信使のための迎賓館として使用されていたのは、福禅寺の客殿で1711(正徳元)年、この客殿からの眺望を「日東第一形勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)」と称賛、従事官の李邦彦はその書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開されました。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいました。

どうせ運に見放されているから!

 「運が悪い」と、どうしますか? 神社にでも行きますか? 多くの人は諦めてしまうことでしょう。
 最近は、インターネットでの批判が増えているようで、タチが悪くなってきているようですね。
 以前は週刊誌が中心でしたが、その手法を学んだのでしょうか。
 情報化社会は、便利になったのですが、良い面も、悪い面もあるので、社会のルールは必要ですね!

鎌倉 稲荷明神像もある「本成寺」

“ 本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)”