鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

“ 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。
 本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。”

「お金、お金」の歪んだ価値観!

“ 「お金、お金」の時代が続いています。しかし、働き過ぎが問題になっています。
 一方で、家庭菜園をする人が増えています。都市に人が集中しなければ、もっと家庭菜園が増えるのでしょう。
 田舎暮らしなら、家で消費する野菜を、家庭菜園で自給(近所との物々交換も含めて)できます。すると、物価上昇も和らぎます。
 野菜ゴミも肥料に使えます。野菜に付く虫も、手間はかかりますが取り除き、綺麗に洗って食べます。
 私達の多くは、農薬を使った野菜を食べています。見方を変えれば、虫も食べないような野菜を食べています。
 現在は、ネットで仕事が出来る環境があります。「お金、お金」の時代も、少しは和らいでほしいですね!”

尾道 尾道で最初にできた神社「艮(うしとら)神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
 艮神社は大宝山(千光寺山)を背にして建てられています。参拝者はちょうど大宝山を拝する格好になります。艮神社と千光寺は何か関連があるのでしょう。

体力が落ちたら自分流の百名山を!

“ 現在の教育は、知識教育が主体でした。生成AIがどんどん進化してくると、今までの知識の蓄積は、価値が低くなってしまいます。
 AIと少し違った知識の組み合わせが必要になってきます。
 その対策として、知識の組み合わせを、五感を通した体験から生み出すしかないのでしょう。
 そのためには、日頃から山遊びなどで、五感を鍛えることでしょう。自然からの情報は、危険も含めて多彩です。その多彩な情報を取り込める五感を鍛え、その上での環境への対応を、鍛える必要があるように思います。
 高い山にこだわる必要などありません。海岸近くでは100~200m位の山でもよく、しかも、頂上にこだわる必要もありません。未整備の登山道でもよいですね。すべて経験です!”

厚木 親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡弘徳寺」

“ 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、     後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。”

調和をたいせつにする日本人の美徳!

“ 日本人は、「和をもって貴しとなす」が社会に根づいています。自己主張し過ぎると敬遠されます。そのためか、日本語の「曖昧さ」が通用しています。
 その背景は、台風や地震、干ばつ、洪水などの自然災害が多く、逃げる場所も無く、助け合いを行わなければ生存できませんでした。
 生物の生き残りの原則は「助け合い」です。それを継続・定着させるのが「風土」です。
 現在、外国との接触が増え、日本の学校では外国語教育が拡大しています。しかし、「和をもって貴しとなす」は、壊さないでほしいですね!”

鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

ペットは働きかければ応えてくれる!

“ ペットは人の健康に役立つといわれています。特に犬は、散歩しなければならないので、からだに良いと、また、散歩で出会う人とのつながりも出来ます。
 ペットは、ストレス社会には気分転換に多いに役立つと。
 ただ、マンションや貸家では、まだペットを飼うには制限があるところが多いようです。そのためかペットロボットが売られています。
 現在ペットを飼っていなくても、むかし、特に子供時代にペットを飼った経験があると、何十年経っても覚えているものです。ペットも時空を越えてつながっているのですね!”

鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

 1334年(建武元年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼(しげかね)が建てたという説もあります。開山は、仏乗禅師(ぶつじょうぜんし)ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏(もちうじ)の子義久(よしひさ)が永享(えいきょう)の乱で自殺したのはこの寺です。
 
【伝説】
 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。

家にものがあふれすぎている!

“ 「片付け」がいろいろと取り上げられています。私の場合、故郷に帰ると散らかさないのですが、自宅だとものが溢れ散らかしてしまいます。災害が多発している現在、ものを買い過ぎしまいます(言い訳ですが)。
 確かにものが多いと、ものを大事にする感覚が鈍くなってしまいます。むかし、トヨタの5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾け)を推進した経験やファイリングシステムの導入に携わった経験もあるのですが、自分の家では、なかなか実行できないですね!”

尾道 幕末芸州藩が派兵し、この寺を本陣にした「妙宣寺」

“ 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。

 慶応三年(1867)十五代将軍徳川慶喜は内外の情勢を察し大政奉還を断行。このとき芸州藩は尾道の重要性を認め、片岡大記を隊長として一箇大隊の兵を海路尾道に送り、また意気たからに長州藩の鉄砲隊もくりこみ寺院に分宿、目と鼻の先の福山に徳川の譜代衆阿部氏と対峙した。尾道には官・幕双方の密使やスパイが入り乱れ一触即発の危機をはらんでいた。そのような緊迫状態のなかで芸州藩の支隊が西国寺にも駐屯した。また、血気はやる地元民などで結成された隊士らが、乱暴をはたらき刑に問われたものもある。

 (尾道は、大半が芸州藩、東の外れ側が福山藩(井伊直弼の一つ前の老中首座が阿部正弘で、福山藩の藩主。)  ”

中高年以降は糖質制限を!

“ 昨今の健康志向で、食べ物に気を使うようになっています。料理番組では、味付けをいろいろ提案されています。しかし、昔の日本では、あまり味付けにはこだわっていなかったようです。 「素材の味をどのように生かすか」が、重要視されていたのでしょうか。
 味付けにこだわると、どんどん味付けが濃くなることもあり、それが続くと、味付けを薄くすると「まずい」ということになってしまいます。
 人間以外の動物や昆虫は、おそらく味付けをしていないのでしょうね!”

座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられる。江戸時代には、坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、1591年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領している。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くある。
 古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。

 仏教の布教が禁止された時代に、階層を問わず困窮者を救うため布教を行った行基。民衆から絶大な支持を得て、日本で初めて大僧正の位を授かった。また、奈良の東大寺造立の際には責任者にも任命されている。
 富山県高岡市に残る伝説によれば、かつて越中国(えっちゅうのくに)で悪王子(あくおうじ)という名の妖怪が民衆に生贄を要求していた時、天皇の命で越中国に赴き、これと対決して封じ込めたという。

老後の生活費をどうするか?

“ 新NISAが始まりました。これは「老後の生活は自分で準備しろ」ということなのでしょう。
 若いうちから、自分のためにお金を貯める、これは、何パーセントの人が実行するでしょうか? 出来ない人は生活保護を受ける生活になるのでしょうか?
 人口減少が始まっている現在、若いうちから老後の準備をする、ということになると、「子供のことなど考えてはいられないので、結婚しない」という人が、増えてこないのでしょうか? 
 年金がある程度充分な戦後の昭和の時代は、子供がある程度いました。これからどんな時代が来るのでしょうか、良いほうに向かうとよいのですが!”

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

“ 荏柄天神社は日本三天神の一つ。他は太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)です。菅原道真が祀られています。
 右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
 このとき、ちょうど天神(雷神)信仰が芽吹きはじめていたこともあって、道真は天神さまと呼ばれるようになったのです。
 こうした、強烈な恨みを抱えながら亡くなり、たたりをなすようになった人びとの霊を「御霊」といいます。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めまています。”

自然界には互いに利益を得る共生がみられる!

“ 私達生物は、地球環境の変化に対応し、現在があります。苛酷な環境で進化してきた基本原則は「助け合い」でした。この助け合いがあったからこそ、現在、地球に生物が生息しているのです。
 この基本原則を忘れた生物は、きっと絶滅していったのでしょう。
 人間同士でも、やはり助け合いが風土として定着している地域は、やはり生き残っていく可能性が高いのでしょうね!”

尾道 「おどり念仏」を今に伝える「正念寺」

“ 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
 また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
 「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
 尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。”

他人と自分を比較する相対的考えを断つ!

 今までの学校教育では「記憶力」中心でした。そのためか他の同級生との比較が簡単に行うことが出来ました。
 優劣の比較が簡単にできるため、他人の目を気にする人が多くなりました。
 最近はNET検索で、簡単に知識・情報を手に入れることが出来るので、変わっていくのでしょうか。
 ただ心配なのは、自分が興味を持つ分野でのNET検索をする人が増えると、思考は深くなりますが、視野はどんどん狭くなって行きます。視野が狭くなると、他人を認める範囲も狭くなってしまいます。
 それに加え、社会に出てからも専門化した方が収入がよくなり、人からも認められるので、ますます視野が狭くなります。
 それが、「良い社会」につながるのでしょうか?

鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」

 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈願してのことでした。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となり、建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されました。初期の伽藍は火災によって失われましたが、文長三年(1354)には足利尊氏の援助で仏殿が復興されました。尊氏のこの寺に対すなみなみならぬ力の入れ方がよくわかります。

改革は改悪になる危険を常にはらんでいる!

 支配者は、人々を支配するとき、いろいろな宗教や思想や儀礼を利用します。その時代の多くの人々を納得させた人が支配者として認められます。
 個々人は、自分の自由を求めていながら、何故、支配者が利用する思想を、人々が認め、不自由をガマンするのでしょうか?
 貨幣経済では、お金が大きな影響をするようになっています。
 ヨーロッパは、16世紀の大航海時代の貿易で儲け、それを維持継続するため、キリスト教を利用しました。
 中東は、人頭税を廃止するとしたイスラム教で、支配を継続するしくみを創りました。
 ただ、生命を維持することに一番影響を与えるのは「自然」です。地球の温暖化対策は、思想を越えて手が打てる時代が出来上がってほしいものです!