
自然にそって生きていくのが生物の基本。
その本の中で、状況に応じて協力しながら生きてきた人間。
しかし、文明が出来、産業革命を行い、いつの間にか自然は制御できると、思ってしまいました。
でも、自然はそう簡単には、人間の思うとおりにはなりませんね!
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自然にそって生きていくのが生物の基本。
その本の中で、状況に応じて協力しながら生きてきた人間。
しかし、文明が出来、産業革命を行い、いつの間にか自然は制御できると、思ってしまいました。
でも、自然はそう簡単には、人間の思うとおりにはなりませんね!
現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守なり延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火の焼きうちの苦難にあうという「古事記」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
(「玉川の歴史と民話を21世紀に」(玉川地区協議会)より)
虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
また、五大虚空蔵菩薩を本尊とした息災・来福の祈願法もあります。五大虚空蔵菩薩とは、金剛界曼荼羅(まんだら)の如来が虚空蔵菩薩に変化したもので、菩薩の法力を五つに分けて五尊で表しています。
基本的なすがたは菩薩形で、蓮台に座しています。右手には智慧を象徴する剣を、左手には福徳を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)を蓮華の上にのせて持っています。ただし、求聞持法の本尊となるときは、右手は与願(よがん)印です。
トリビア:虚空蔵菩薩を本尊とする寺では「十三参り」が行われる。数えで十三歳になると、福徳・智慧・健康を授かるようにとお参りする行事。
(『イラストでわかる「日本の仏さま」』 日本の仏研究会編より)

東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。
定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)

現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。
今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。