なぜ同じ店で!? 「本屋+カフェ」「家具屋+洋服店」……!

 「意外な組み合わせ」、いわゆる異業種の組み合わせでビジネスをすることが、活力を生む時代が定着するのでしょか。
 以前は、専門技術を深めることを追求してきました。異業種への進出と行っても、その専門技術を使ったものでした。
 まったく関係がない業種に進出することは、考えられませんでした。
 しかし、消費者目線で見ると、現在の消費者は、移動距離をできるだけ少なくして買い物をしたい、という状況になっています。
 ガソリン高騰でより移動距離を少なくしたいのです。
 異業種の組み合わせも、変わるのでしょうね!

厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

自然の循環と再生産の流れの中で生きていた縄文人!

 人間を生物として考えた場合、「身の丈に合った暮らし方」は、どんな暮らし方なのでしょうか?
 そのような視点に立つと、現在の社会の動きに疑問が湧いてきます。
 AIに疑問が湧く現在、というより、便利さを求めてきた社会、特に産業革命以降の人間社会、疑問が湧いてきます。
 昔は、歩くこと(1日20~30km)はそれほどのことではなかったのですが、今は、その10分の1位になってしまいました。
 AIも頭の働きを10分の1位にしてしまうのでしょうか?
 人間か「進歩」として考えてきたことは、人類の滅亡を促すことにならないのでしょうか?

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

 土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
 勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
 帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
 その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。

この世でもっとも恐ろしいものは「人間」!

 いつの世でも戦争がありますね。しかも技術の発展と共に深刻化しています。
 現代は、「人間が楽になるため」の技術発展です。
 縄文時代は自然適応のための技術発展だったのでしょう。そのために、からだを使っていました。
 でも、からだを動かさないことを目的(しかもAIは頭も使わないための技術)になっています。
 人類の生存に良いのでしょうか?
 技術発展は、人類飲滅亡のための技術なのでしょうか?

鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」

 「長谷観音」とか、ただ「観音堂」の名で親しまれてきた長谷寺。「アジサイ寺」として知られています。正式には海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)長谷寺と号し、浄土宗系の単立寺院です。
 長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。長谷寺の始まりは、奈良時代の736年(天平8年)であろうと伝えられていますが、はっきりとはわかりません。ただ、長谷寺に伝わっている大きな梵鐘(ぼんしょう)にT文永元年」(1264年)の年号があることから、鎌倉時代には栄えていたといえまず。

ほめられることは最大の癒しだ!

 批判しがちになることは、なかなか抜け出せないようですね。
 ネットなど(国会でも)批判が溢れています。
 でも、ほめることの重要性はそれほど意識されていない場合が多いようです。
 秘本後は、ある意味「曖昧」を許容する言葉です。解釈の幅が広く、たとえ批判であっても、少しは穏やかにしてくれるようです。
 しかし、批判するよりは、ほめるほうがいいですね!

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
 暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・
 大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。
 天正三(1Z75)年、京を追われた15軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
 古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。

長期間、抗生物質の服用を続けていると!

 薬の乱用は、病気でもないのに、薬のある効果のために始まっています。
 麻薬が原因なのでしょうが、麻薬が手に入りにくく高価のためなのでしょうが。
 そういえばヒロポンという薬物が、太平洋戦争の時に、疲労回復や眠気防止による「戦力増強剤(除倦覚醒剤)」として、軍需工場の労働者や特攻隊員を含む兵士に国策として広く投与・配布されまていましたね。
 戦後も、隠れて利用していた方がいましたね!

尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。

 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

諺に「西風と夫婦喧嘩は夜になると止む」と!

 ストレスはどこから生まれるのでしょうか?
 やはり優劣の評価が原因なのでしょうか?
 確かに食事でも、「うまい」とか「まずい」と評価しがちですね。
 でも「これはこうゆう味がするのか」と、優劣をつけない方法もあります。
 事実は事実として把握し、優劣をつけないほうがストレスが少なくなるようです。
 家庭内で、これは「悪い」とか「良い」とか評価が始まると、ストレスが増えてくるのでしょうね!

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。

体を温める、腸をゆっくり動かす食べ物を日常的に!

 歳を取ってくると健康寿命や認知症が心配になってきます。
 健康寿命には、体を温めることが良いようです。毎日湯船につかる、重要なようです。
 温泉ブームが始まる以前は、無料や100円以下で入れる温泉が多くありました。Ⅰヶ月に1回程度、車で温泉巡りをし、宿泊場所を別にして、1日で3回程度温泉巡りをしたいました。からだに良かったのでしょうね。
 また、食べ物も大事なようです。健康志向の人は、食べ物に気をつけている人が多いですね!

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。
 この法界寺は、明治期の県央教育界に大きな足跡を残している。1872年に「学制」が発布され、それまで県央地区に存在した41の寺子屋と4つの郷学校が廃止され、「尋常小学校」が開設された。 この廃止された学校に替わり法界寺では住職・曽我明随により私塾が開設されている。

やたらに人間の寿命を長くするというのも!

 千年以上前の中国では、水銀に摩訶不思議な霊力があると思われていた。
 盛期を過ぎた唐皇帝の多くが、短命に終わったのは、道士の作る長生薬金丹を服用したためであり、何時の時代であっても征服者、権力者が陥おちいる、未み来永劫らいえいごう絶対的権力を持ち続けたいと願う欲望に、取り憑かれた結果だった。
 今は、「水銀は毒」と知られるようになりましたが、不老不死の研究は行われています。
 人間、いつの時代でも、権力者などは不老不死を望むのですね!

福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
 仏教の世界では、東の方には薬師さんの仏国土があり、西の方には阿弥陀さんの仏国土があるといいます。

「自分が完全であること」、他人にとってどれほどの価値?

 「人として完全である」ことを求めている人がどの程度いるか、むかしとは違っているのでしょうね。
 社会が、個人主義駅な傾向が強くなり、まわりをそれほど気にしなくなっているのでしょうか?
 それとも、不登校の人が増えているので、まわりを気にする人が増えているのでしょうか?
 欧米のシステムや情報が増え、交流も増えているので、社会は変化しているのでしょうが、どのようになるのでしょうか?

尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

「普通のビジネスマン」と「悪いビジネスマン」!

 子供時代、自然の中で育ち、親からも、危ないこと以外は注意されず、自由に育つ子供は、どの程度居るのでしょうか?
 自由に育った子供は、大きくなっても周りの環境が、良いとか悪いとかの判断や評価をせず、事実をありのまま受入、対応することができます。
 学校で、テスト点数で評価され、一方向からの評価だけが行われている現在、なにかしら生きにくくなってはなっていないでしょうか?

鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。