旬のモノを意識的に食べる!

 「旬(味のよい食べ頃の時期)」を大切にしたいものです。1950年代の後半に三種の神器といわれた家電の中に冷蔵庫がありました。この冷蔵庫が普及する前までは、旬のものを大切にしてきました。ということは、日本人のからだは、この旬のものを食べてきた結果でつくられたものでしょう。
 旬のものと地産地消が、日本人のからだづくりの原点にあるのでしょう。
 新コロナが世界中に蔓延し、物流が滞って、改めて「地産地消」の大切さに気がつきました。「旬のもの」の大切さにも、改めて気づく必要があるのでしょう!

鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ!

 途中の法華堂跡は、三浦市一族が宝治合戦(1247年)で、自害、討ち死にしたところ。毛利氏や島津氏は三浦氏に加わり、多くが死んだ。
 一族の最後の場面では、「自害した人の顔を削いで、誰の死体か分からなくしよう」という提案もあったとか(そうはしなかったが)。
 当時の武士の、過激な生き様がしのばれますね。
 また、「頼朝の墓」まで登った後、大江広元の墓に行く別のルートもあります。山道を昇って行くことができます。道が濡れている場合は危険ですので、注意してください。

傷つくことを恐れている人!

 こだわりやすい人は、ガンになりやすい印象があるとのこと。
 仕事に携わっている時代は、どうしても視野が狭くなります。深くはなるのですが、広くはなりません。そして、狭いままリタイヤすると、そこから外れている分野については、まったく興味が湧いてきません。その結果、こだわりがますます強くなっていきやすいですね。
 自然に接している人は、何故かいろいろと興味を持ちやすいようです。自然は多彩ですからね。特に日本では!

尾道 不動岩~奥の院「不動岩の上は絶景」

 不動岩から奥の院に至る道です。途中に聖観音、子宝観音があります。
・聖観音……観音菩薩は聖観音が基本の姿ですが、6世紀頃の中国で密教の教義により様々な変化観音が生まれました。法華経の中の「観世音菩薩普門品第ニ十五(観音経)では、聖観音を含めた六観音が六道輪廻(世の中のあらゆる生命は六種類の世界に生まれ変わりを繰り返すという教え)  の思想に基づいて六道に迷って苦しむ衆生を救うと説いています。
  日本では、真言宗が六観音として聖観音(地獄道)・十一面観音(修羅道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)・如意輪観音(人道)・准胝観音(天道)を定め、天台宗は准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としていました。

自分に失望すると、とにかく非難する!

 「知識」を覚えることは大事ですが、それは「智慧」とは言えないようです。
 「智慧」に至るには、その場の状況を洩れなく把握した上で、関係しそうな知識を寄せ集め、それらを組み合わせ、場合によっては、自分で考え出したものと組み合わせ、実行できるようにした状態までもって行かないと、智慧にはならないのでしょう。大変ですね!

福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の浦」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

卵がコレステロール値を上げるは間違い!

 健康志向が高くなってきているため、どんどん健康食品が増えてきています。どうするか、どれを選ぶか迷いますね。
 病気の治療方法はどんどん進歩したほうが良いのですが、アレルギーの増加を見ていると、日常はむかしながらの食生活のほうが良いような気もします。
 いまテレワークが増えているので、運動不足解消のため「家庭菜園」で野菜を栽培したらどうでしょう。
 そこで、からだに良い肥料を使い、無農薬野菜をつくり、収穫した野菜を水で洗い、料理する、といった食生活はどうでしょうか。
 地中細菌はある程度残っているかも知れませんが、ヒトの体はそのような環境の中で進化したのでしょうから、大丈夫でしょう!

鎌倉 八幡太郎義家をこの地で産む「甘縄神明宮」

 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。

「今どきの若い者は」とこぼしたくなる!

 年齢を重ねるにしたがって、知識や経験は深くなります。ただし、問題があります。年齢を重ねた結果として思考の視野が狭くなることです。興味の範囲が狭くなることです。その結果、範囲外のことについては、興味が持てなくなり、情報があったとしても、それを生かすことが出来なくなってきます。
 情報の更新ができないまま、古くなった経験値の視点で世の中を見ていますので、現代の変化の激しい時代には、なかなかついて行けないことが多くなってきます。
 産業革命、そして、昨今の情報革命についていくのは、今までの発想ではついていけないのです!

尾道 天神さまの霊験碑「御袖天満宮」へ

【天神さまの霊験碑】

 明治の初めころ、長江に生玉茂七さんという人がいました。
 一日の仕事をすませ、ゆっくりとくつろいでいたときです。茂七さんが日ごろお世話になっている畳問屋からお使いの人が来ました。ちょっと店まで来てほしいということです。茂七さんは、さっそく出かけて行きました。
「何かご用でも」
いぶかしげに尋ねる茂七さんに、
「いやいや、親類から珍しいものを送ってきましてね。いっしょに一杯やろうと思って」
と、問屋の主人の言葉が返ってきました。………

無菌に近いものを口にする機会が多い!

 人類の歴史において、米とか麦を食べ始めたのは最近のわずか1%の期間です。それまでは、動物の肉、果実、根菜などを食べていたのでしょう。
 農耕が始まる前の99%の期間でヒトの体の基本ができてきました。それまでは、多くの人が一箇所に定住することはなく、食料や水がなくなれば、分散して移動して食料や水を入手していたのでしょう。
 しかし、人が定住するようになり、農耕が始まり、多くの人が一箇所で暮らすようになり、病気も増えてきました。
 それが150年ほど前に産業革命がはじまり、厖大な人達が狭い地域に暮らすようになり、その結果、病気の種類も増え、危険度もより高まってきています。薬があるものは乗り越えられるようになっていますが、薬がなければ危険度は高まっているのでしょう!

鎌倉 島津氏によって建てられた「源頼朝の墓」

 1779年、薩摩藩主・島津重豪(頼朝の隠し子の子孫?)が、石段を設けてその上に建てたのが、この墓。
 1198年12月27日源頼朝御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬した。その落馬が原因で、1199翌年1月13日に53歳で亡くなった。大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられた。
 現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔である。
 1196年から頼朝が亡くなった1199年までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)。頼朝の死は謎に包まれていると言われている。

冷え性の人血流が悪い!

 寒い季節です。新コロナ対策のため換気を十分にしなければなりません。暖房で部屋が暖まるのですが、温暖化を考えるとそんなに温度を上げるわけにはいきません。やはり着るもので寒さ対策をすることがベターなのでしょうね。
 また、からだが暖まる食品を食べたほうがいいですね。からだを冷やす食べ物だけは避けましょう。年中手に入る食品が多くなっているので、注意が必要ですね!

厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人、大江広元の四男、毛利季光が流罪になった隆寛律師をこの近くにをかくまった。
 季光は、戦国時代に中国地方で勢力を誇った毛利氏の祖で、大江広元の四男。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚呵と号した。
 隆寛の住んだ草庵・阿弥陀堂は辻(飯山の小字・飯山小学校付近)の「隆寛堂」としてあったが、現在は残されてない。
 以前は、光福寺前の小川に「西行法師戻り橋」という橋が架かり、“嫁入りのときはここを通ってはいけない”と伝えられていた。

お小遣いがたった1000円なんて!

 子供の小遣いを幾らにするか、やっかいな問題です。置かれている状況によりそれぞれなのでしょうが、具体的に決めるのは難しいですね。子供が我慢できる程度、ということなのでしょうが。
 家庭菜園があり、トマトやキュウリ、それに果物などがあると、それらがおやつ代わりになり、小遣い(お金)にあまりこだわらない状況ができます。
 それに家庭菜園で獲れたものは、多少見てくれが悪くても、「もったいない」という気持ちが湧き、食べてしまいます。これも地球環境を保つには良いこと、子供に環境保護を引き継ぐことが出来ますね!

鎌倉 由比若宮、由比八幡宮ともいう「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

あなたには自由な道を歩んでほしい!

 「自由」というものは、住んでいる土地によって違いがあるようです。思いがけない災害がよく起きる地域では、災害が起きたときの助け合いが必要で、当然のこととして周囲の人達に気を使っています。そして、その気遣いを配慮した範囲で「自由」を考えてしまいます。
 自然環境が安定している地域、あるいは、都会のように人工的に環境を制御している地域においての「自由」は、周囲からの助けがそれほど必要ないためか(行政に助けを頼れば良いのか)、自由の幅が広いようです。
 ただ、行政の援助の範囲を超えたときは、どうなるのでしょうか!

尾道 こんなところが蔵王権現「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。
 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りにしています。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負っています。細部まで丁寧に彫られた明王像です。大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。

午後2時ごろ強い睡魔に襲われることが!

 快適な環境でデスクワークをしていると、午後二時頃に眠くなることがあります。これは人には24時間のリズムと、12時間のリズムがあり、午前2時の熟睡のリズムが12時間後に現れるためだとか。
 ただし、人の体内時計は24時間より少し長い周期のようです。それを修正するため、朝は太陽の光を浴びて体内時計をリセットしたほうが良いと言われています。
 NHKの「ためしてガッテン」で、子供の歯磨きや徒競走でメトロノームなどのリズムマシンでリズムを聴きながら動作をすると、無駄な動きやバランスが崩れた筋肉の動きが是正され、スムーズな動きになると放送されていました。
 体内時計とともに筋肉にもリズムが大事なのですね!

鎌倉 平政子(後世に北条政子と呼ばれた)の墓がある「寿福寺」

 北条政子のお墓があります。ただし、北条政子と呼ばれるようになったのは後世のこと。
 「平政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名したもので、それ以前は何という名であったかは不明であるとされています。
 政子の死後、遺体は源氏の菩提寺であった勝長寿院に埋葬されました。しかし、政子の墓として伝えられているのは 壽福寺のやぐら内にある五輪塔と、政子の法名から寺名を採った安養院に宝篋印塔が残っています。しかし、後に建てられた供養塔のようです。
 北条政子というのも後世(近世以降)になってそう呼ぶようになったようです。