「正しさ」とは「自分の都合」にすぎない!

 自分が正しいと子供のときから主張しながら育ちます。しかし、なかなかそれが「自分の都合からくる主張」だとは気がつきません。なぜなのでしょうか?
 これは大人になっても変わりません。ただ、主張の頑固さの程度は風土によって違っているようです。
 日本は自分の主張にそれほど強くこだわっていないようです。それは、災害の多い自然環境から学んで来たのでしょうか。
 台風、地震、津波、火山噴火、干ばつなど、予測がつかない自然災害が多く、なかなか論理的には対応できなかった環境の中で、なんとか対応していかなければいけなかった。その結果、自己主張より、今置かれている環境の中で、何をしなければならないか、という命題の中で生き続けてきた結果なのでしょう。
 ただ、日本でも都会暮らしの人達は、どちらかというと自己主張が強いようです。これも自然環境の違いなのでしょうね!

福山 石仏を網で引き上げ岬に安置「阿武兎観音」

 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人びとの信仰を多く集めてきた。
 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が、このあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基と伝える。
後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。
 磐台寺観音堂と客殿は、室町時代の建築様式で知られている。
 本尊の十一面観音は、子授け・安産.航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られています。
 朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、観音堂の眼下に広がる燧灘の展望もすばらしい。

休眠から目覚める仕組みは?

 植物は、条件さえ揃えば芽を出すと思っていましたが、そうでもないようです。多少条件が異なった環境で発芽することで、色々な場所で生き残こってきたのですね。 ただし、人間が植えている植物は、人間の都合で、同じ条件で発芽するように改良しています。このため環境の変化が起きてしまうと、今までの植物は植えることが出来なくなってしまいます。環境変化に対応できるまでは、食糧危機になってしまいますね。
 環境の変化が激しい時代に対応するには、大量生産・大量消費は大変危険な考え方になる可能性があるようです。
 近いうちに、秘境で暮らす人達から、多くの学びを得なければならない時が来るのでしょうか。単に暮らし方だけでなく、何代も続く体質づくりも学ばなければならない時が来てしまうのでしょうか。産業革命以降の資産を捨てて!

鎌倉 鎌倉最古の厄除開運の神社「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

防寒の準備は大事!

 ヒマラヤに登っている人達で、指を失ったなどの報道を目にします。しかし、防寒対策はつい簡単な対応で済ましてしまいます。自分はヒマラヤには行かないので安心しているのでしょうか? それとも、極度の寒さを体験しないと考えないのでしょうか?
 ヒトが数十万年生き残ってきたのは、生命に関わる危険な環境でも、それほど怖さを感じないようにすることが、生き残り作戦としてより有効な結果を出しているようです。というより、危険をあまり感じないヒトが生き残ってきたのでしょう。
 いま蔓延しているコロナウイルスも、感染力の増加や重症化へのウイルス変異の可能性がある中で、「感染の恐れに対する不安の強弱」は、ヒトの生き残りにどのような結果をもたらすのでしょうか?

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、1336年に浄土宗に改宗されました。室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
 またこの寺には尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎の墓があり、彼を顕彰した手形付きの記念碑があります。
 むかし尾道でも相撲の興業があり、その関係で横綱陣幕久五郎の碑があるのでしょう。陣幕久五郎の出身は東出雲(現松江市)出身ですが、出雲と尾道は出雲街道で結ばれており、石見銀山の銀も尾道まで陸路で運ばれ、尾道から船に乗せ替えて運んでいたものもあり、つながりが強かったそうです。

座間 悪疫流行の折に飯綱権を祀る「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
 また、仏教が日本に伝わったときでもあります。仏教はインドにうまれて中国や朝鮮半島から日本に伝わった。最初の仏教公伝は欽明天皇十三年(552)でした。百済の聖明王が日本に仏教を伝え、そして「仏教を受け入れなさい」ということを手紙に書いて送ってきた時のことです。このとき欽明天皇は、側近の人たちに「どうしようか」と相談をしました。この時、この問題に対して賛成をしたのが蘇我氏です。そして反対をしたのは、物部氏と中臣氏だそうです。

落ち込んだときに立ち直るコツ!

 どうしても苦手な人がおられます。どうしていますか? 攻撃的になっていませんか?
 むかしは「おべんちゃら」といって、口先だけで御機嫌をとろうとすることをいいました。あまり印象が良いとは言えない言葉ですが、これも人付き合いの智慧ですね。
 よく「気持ちが落ち込んだとき、表情だけで良いので笑い顔をつくりなさい」と言われています。表情が笑顔になると、気持ちをリラックスさせる物質が分泌されるようです。これと同じで、イヤな相手と会うとき「楽しみにしていました」と言ってみると、イヤな気分が薄れてくることもあるのでしょう。
 相手が喜ぶ演技を、どんどんレベルアップして、最高のシナリオをつくり続けましょう。そして、どんな人でにあっても、自然に気分良く接することができるようになると良いですね!

尾道 境内地全域が国宝の「浄土寺」

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 また、三体もの聖徳太子像を所蔵しています。しかも全てが国の重要文化財に指定されています。これだけの重要な聖徳太子像を三体も所蔵している寺は法隆寺以外にはありません。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。

強く穏やかに生きていこう!

 強く穏やかに生きていくことを目指すこと。出来ると良いのですが、これを自分の論理だけで実現することは大変なことです。
 日本の風土は、出来損ないを認め、曖昧に生きることを認める風土があります。この風土を無視し、自分の考え方しか認めない時代は、日本においては戦いに明け暮れた時代ですね。 
 現存する日本最古の国が編集した「日本書紀」ですら、朝廷の成立はAが正統だが、Bもある、Cもある,Dもある,というように、国家が、曖昧さを許容しています。そんな国は世界中どこにもないようです。
 日本書紀より古い聖徳太子の十七条憲法の最後の17条目には「物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。とくに重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。」と、もとになった中国のものにつけ加えています。
 自分の論理では補えない世界があることを、大昔から感じていたのですね!