いつもペンと手帳を持ち歩くと!

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 最近は音声でメモを取る方法もありますが、「書く」という動作が「脳への刺激」と、「考える」ということに、何かしら影響を与えているのでしょう。メモを書くという行為の積み重ねが、何かしらの成功に貢献することでしょう。来年から手帳にメモをしましょう!

厚木 生活様式の変化を見る「古民家 岸邸」

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 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。

ゆっくりした口調は、考える時間も出来る!

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 ネット時代、もう一度「会って話す」ということを、大切にする文化を大事にしたいですね。ネットで会議をする場合、顔以外を見ることはほとんど出来ません。言葉でのコミュニケーションとなってしまいがちです。特に女性は会って話すと、手の動きや体の動きが多彩です。五感を動員したコミュニケーションは、第六感というものさえ生み出してきます。ネットで言葉によるコミュニケーションの限界を、もっと意識する必要があるようです!

鎌倉 増上寺に次ぐ学問所として選ばれた「光明寺」

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 光明寺はその後一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家からも寄進を受け、内藤家の菩提寺となってからは大名寺としても栄えました。

予期せぬ事態が発生すると!

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 言葉による知識教育を受けていると、考えることが「知識優先」になってしまします。「“五感”から得られる事実に基づく思考」をしなくなってしまいます。知識で思考したほうが圧倒的に楽なためでしょう。行き過ぎてしまうと、五感からの情報の取り方さえ出来なくなってしまうようです!

厚木 奈良時代に創建「七沢観音寺」

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 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇7155~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。

冬眠のメカニズムはよくわかっていない!

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 冬の食糧事情は、春よりも良かったようです。木の葉が落ちた森は見通しがよく、冬眠をしない動物もいるので、狩をするには適していました。しかも、秋に収穫した穀物もありました。むかし、食糧事情が悪かった時期は、春のようです。春は動物が活発に動き出し、植物も主食とするにはまだ育っていません。なんとか食べられるものを見つけようとするため、春の七草という行事を根付かせたのでしょうか?

鎌倉 火災を防ぎ盗難を除く「秋葉大権現」

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 天照山光明寺第三十二世傳察上人は、80才の時、当山の鎮護と火防の守護神として秋葉大権現を勧請しようと念じ給じたところ、上人は生身のまま天狗に変じ、光明寺の上空に飛び、「われこそは秋葉大権なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」との声を発して消えたという。
 この日以後数百年、当秋葉講は江戸時代、江戸の人々も参詣していた。

人が初めて貯蔵したものは食料!

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 食べるものを減らしてのダイエットは、やはり間違っているのですね。もちろん食べ過ぎは良くないのでしょうが、少ししか食べないのも良くないのですね。普通に食べて、からだを動かすことが大事なのですね。当然のことですが、これが難しい。便利になりすぎたのですね。移動が楽になり、ネットの発展で、人に会わなくても用事が済み、買い物の自宅まで配達してくれる世の中、そのツケは我々のからだに表れてきますね!

尾道 再三被災し再建された「持善院」

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 西国寺の仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。
 摩尼山塔頭寺院として、西国寺再興の僧慶鑁和尚の開基と伝えられる。文化・文政のころの水害、山津波に再三被災したが、文政12年(1829)、大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建されたことが棟札によって知られる。

黙っている方がまだ親切だ、と!

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 ハンディカップを持っている人を、欧米ではチャレンジャーと呼ぶそうです。日本では、昔ほどではないのでしょうが、いじめや差別の対象になることが残っているようです。この間、テレビで障害者学校で、目の見えない学生の授業を放送していました。いろいろな葉っぱを細かくいろいろと手で触り、ニオイを嗅ぎ、それぞれの葉っぱの特性を探っていました。目が見える人達より、一つ欠けた五感をフルに活用していました。目に依存しすぎ、他の感覚が鈍っている健常者より、感性は豊かなのでしょう!

鎌倉 元は妙法寺だった「啓運寺」

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 開山は啓運日澄(にっちょう)です。日澄は、大町名越の同じ日蓮宗の妙法寺の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経を研究して55巻からなる『啓運抄』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

幽霊をみよう!

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 それぞれの地域の風土に目を向け、歴史を眺めていくと面白いですね。日本でも、東日本は組織の文化があり、西日本は庶民文化があります。よく言われていたのは、テレビ番組にたとえ、東日本は「水戸黄門」、西日本は「必殺仕置人」が好まれるといわれていました。水戸黄門が印籠をかざすと、印籠の権威でみんな言うことを聞いてくれます。必殺仕置人は、庶民が仕置きを、庶民にお金で依頼します。その背景には、歴史の積み重ねがありますね!

福山 鞆 神功皇后の海路安全を願う「沼名前神社」

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 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

五感を働かせれば!

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 あまりにも言葉(文字)で考えるようになり、感覚が鈍くなっているようです。フランスでは、キーボードばかり打っていた若者は、ペンを使って文字が書けなくなり、大人になって文字を練習する学校に通っている、という現象も起きています。日本でも、最近の犯罪を見ていると、「手加減」という事ができなくなっているようです。子どものときに、自然の中でいろいろなものにふれて、五感を磨いてほしいものです!

鎌倉 頼義が勝利の感謝のため勧請「元鶴岡八幡宮」

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 由比若宮、由比八幡宮ともいう。
 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。
 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。

大将的な性格のリーダーは!

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 豊臣秀吉のように「人たらし」の人は、組織を「しくみ」で動かすことが苦手です。これは、現代でも同じですね。大きな成功をしても、その立役者がいなくなると、じわじわと力を失っていきます。「人たらし」という単語の意味は、「他人を騙す人」という意味が正式だそうです。騙しはやはり一時的な成功(?)でしかないのですね!

尾道 港の守護神になった「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

金持ち脳は、より良い場所に移住する!

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 どの時代であれ、税金を逃れるため、軽減するため、人々はあらゆる工夫をしていた。奈良時代は、各個人に対して一律に課する租税もあったため、税金がかからない僧侶になる人が多かった。戦国時代でも太閤検地で田畑への課税が強化され、課税軽減のため関ヶ原の戦いが起き、明治維新でも、西国の藩が行っていた闇貿易による収入が、開国で、その収入が徳川家に集中おそれがあったため、戦いを起こしています。現代でも金持ちは、税金の安い国をさがし、節税対策を行っています!

鎌倉 明治天皇が神社造営の勅令を発した「鎌倉宮」

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 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。
 本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。