天照山光明寺第三十二世傳察上人は、80才の時、当山の鎮護と火防の守護神として秋葉大権現を勧請しようと念じ給じたところ、上人は生身のまま天狗に変じ、光明寺の上空に飛び、「われこそは秋葉大権なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」との声を発して消えたという。
この日以後数百年、当秋葉講は江戸時代、江戸の人々も参詣していた。
かなり荒れてしまった小さな神社です。周囲の木々が邪魔をして、視界もそれほどよくはありません。でも、のんびりするには良いですね。
境内:無料
境内には、天狗がもつ羽団扇(はねうちわ)を刻んだ石鉢(いしばち)と、同じ羽団扇を屋根に付けた社殿があります。社殿には、祭りの日だけ烏天狗(からすてんぐ)の神像がまつられます。
秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社(あきばじんじゃ)で、火事を防ぐ火伏(ひぶ)せや水難除(よ)けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中(あきばこうちゅう)という信者の団体がつくられ、代参(だいさん)という代表者の本山詣で(ほんざんもうで)が盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年)
に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪(こつぼ)をはじめ各地に秋葉講(あきばこう)が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
以前は、秋葉山の祭礼前日の11月17日の晩に、材木座中の家から一本ずつ集めた薪を山上の境内で燃やす「おかがり焚き」が行われていました。材木座の名物行事でしたが明治30年代で取り止めになったそうです。
秋葉山大権現の祭礼は、戦後、5月の第3日曜に行われ、光明寺総門前から稚児行列(ちごぎょうれつ)が出て、秋葉山上に上り、ご神体を安置した社殿前で、お坊さんが火難や水難を取り除くお経をあげています。
現在は行われていませんが、戦後しばらくの間、祭礼の日に光明寺の山門前の広場で、燃えている火の上を裸足(はだ
本山の静岡県の松の方の秋葉神社いえば、火伏の神として全国に約四百社あり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社である。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供だが、明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていた。
古代は秋葉山をご神体山としていたが、社伝によれば、和銅二年(709)に社殿を創建とあり、岐陛保神ノ社(きへのほのかみやしろ)といわれたらしい。「秋葉山縁起」によれば、養老二年(718)に行基に
し)で歩く火渡(ひわた)り神事(しんじ)」が山伏(やまぶし)姿の行者十数人によって行われていました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
手水舎。
よって行基作と伝えられる聖観音像を本尊として大登山霊雲院が開山され、別当寺として一山を支配したとある。弘仁年間(810~823)に嵯峨天皇の勅願によって七堂伽藍が建立されると、秋葉山霊雲院秋葉寺と改称されたが、その後修験道が盛んになると、天狗の住む山といわれるようになった。
秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからである。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成され、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになり、
大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がったのである。
(「謎だらけ日本の神さま仏さま」)山下昌也著より)