天照山 光明寺(浄土宗)
鎌倉市材木座六丁目 標高:7.6m
天照山(てんしょうざん)という山号をもつ浄土宗の寺で、建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)などとならぶ鎌倉の大きな寺の一つです。
良忠は石見(いわみ)の国(今の島根県)三隅(みすみ)の人で、浄土宗を始めた法然(ほうねん)の弟子の聖光(しょうこう)から教えをうけました。良忠は諸国をまわって鎌倉に来ましたが、良忠が当時の政治の中心であった鎌倉に住んだことで、浄士宗が関東から東北地方にかけて広まったといわれています。
良忠は大変徳が高く学問の深い人で、たくさんの書物を著したので、1287年(弘安10年) 7月6日、89歳で世を去ると伏見天皇(ふしみてんのう)から「記主禅師(きしゅぜんじ)」の名を賜(たまわ)ったということです。
その後、光明寺第9代住職の観譽祐崇(かんよゆうそう)が、後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の命令で、宮中で人々の安らかな暮らしや作物の豊作を祈る「十夜法要(じゅうやほうよう)」を行いました。観譽祐崇が高徳なのに感心した天皇は、1495年(明応4年)、光明寺を勅願寺(ちょくがんじ)とし、十夜法要を許したということです。勅願寺とは、天皇から許しを得て、天皇のために祈願する寺のことです。
光明寺はその後一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす)が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林(じゅうはちだんりん)という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺(ぞうじょうじ)に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家(ないとうけ)からも寄進を受け、内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となってからは大名寺(だいみょうじ)としても栄えました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
1630年頃に再建された総門。
参道入口の近くに石の門柱があり、「天照山(てんしょうざん)鍛錬所(たんれんじょ)」」と書かれていました。第二次世界大戦中に海軍の軍刀を作った鍛冶場である「天照山鍛錬所」がこのあたりにありました。
総門の右手前には「関東総本山(かんとうそうほんざん)」と刻まれた太い石の角柱が立ち、
目をひきます。また、総門の右手には「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っています。
総門には欄間(らんま)に竜の彫刻がほどこされ、「勅願所(ちょくがんしょ)」の額が掲げられています。総門を入ると白い塀をめぐらせた
広い境内があり、左手の塀越しに千手院(せんじゅいん)、右手に蓮乗院(れんじょういん)があり、正面に光明寺の山門(三門)がどっしりとそびえ立っています。
この山門は鎌倉最大といわれる屋根が二重の門で、江戸時代のものは、鶴岡八幡営の表門を移したものだといわれ、現在のものは、1847年(弘化4年)に光明寺が再建したものです。
山門にかかる「天照山」の額の字は、後花園天皇(ごはなぞのてんのう)が書かれたものといわれ「永享八年(1436年)と裏に書かれています。
建物がならび、大寺院にふさわしいたたずまいをみせています。
天井・欄間・柱などが美しく極楽浄土(ごくらくじょうど)を思わせる大本堂には、中央に本尊(ほんぞん)阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)がまつられ、その脇左奥に法然上人像(ほうねんしょうにんぞう)や如意輪観音(にょいりんかんのん)がまつられていますが、以前は木造内藤忠興像(ないとうただおきぞう)も安置されていました。忠興は、江戸の霊巌寺(ていがんじ)から内藤家墓地をこの光明寺に移し、寺領や貴重な絵巻物など寄進した大名です。
昔は湊があり、湊に船が着くと、眼の前に宏壮な山門がそびえ立っていたのでしょう。
立派な二重門(一階と二階の両方に屋根を持つ)ですね。二階に仏像が安置されています。
額は畳(たたみ)一畳(いちじょう)分あるという大きなものです。山門の2階には、釈迦如来(しゃかにょらい)・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・四天王(してんのう)・十六羅漢木造(じゅうろくらかんもくぞう)が安置されていて、お十夜(じゅうや)のときなどに公開されます。
山門をくぐると、正面に屋根の美しい大本堂(国重文)がありい本堂内部の装飾はすばらしいものです。本堂に向かって左手に開山堂(かいざんどう)、右手に装飾が多い大きな鐘楼(しょうろう)があります。開山堂の裏手には客殿(きゃくでん)・庫裏(くり)・本坊(ほんぼう)・書院(しょいん)の
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間口約16m、奥行約7m、高さ約20mで鎌倉の寺院の門では最大の格式を備えた山門。
五間三戸二階二重門といわれる門で一階が和風、二階が中国風に造られています。
山門に「天照山」という大額が掲げられている。この額は旧門に1436年、後花園天皇より下賜されたご宸筆です。今の山門は1847年の再築のものです。
光明寺さんは山門ではなく、三門(三門解脱門)と呼ぶのでしょうか。煩悩(苦しみを生む迷い)である三毒(欲望・怒り・愚かさ)から抜け出すための“門”なのでしょう。
また、阿弥陀三尊像の脇右奥には、弁財天(べんざいてん)と善導大師(ぜんどうたいし)の木像が安置されています。中国の高僧の善導大師は、日本の浄土宗のもとを作った人で、法然が厚く信仰していました。
この木像にっいては次のような話が伝えられています。
良忠は師の聖光(しょうこう)から善導大師の木像を譲られましたが、諸国を廻るのには持ちにくいので「ゆかりの地にこの像をまつりなさい」と九州で筑後川に流したところ、それが海を漂流して由比ヶ浜に打ち上げられたので、光明寺を開き、まつったという伝説があります。
また、善導大師とならんでまつってある弁財天にも同じような話が伝わっています。
この弁財天は、もとは江の島の奥の院にまつられていましたが、天文年間(1532~1555年)に大嵐があって海に流され、光明寺に近い浜辺に打ち上げられました。
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