元鶴岡八幡宮
鎌倉市材木座1-7 標高 6.6m
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 由比若宮、由比八幡宮ともいう。

 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。

 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。


 八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。
 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

 元八幡は、源氏と鎌倉のつながりのできた初めです。この神社は、由比ヶ浜の八幡宮とも呼ばれていたようです。由比ケ浜の湾が、このあたりまで入り込んでいたといわれる当時の地形からみて、神社は海に面した海岸近くに建てられたと思われます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 朱塗りの社殿は「流造(ながれづくり)」という、鎌倉宮の本殿のような「神明造(しんめいづくり)」の屋根に、そりをつけて、前の流れを長くした造りになっています。
この神社の敷地は、鶴岡八幡宮とともに国の史跡となっています。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より



元八幡横の芥川龍之介旧居跡

 東側のバス通りから、この元八幡に来る道の北側の一画は、大正時代には小山別荘と呼ばれ、敷地内には別棟の広い家があり、ここを借り、て、小説家芥川龍之介が住んだ。
 芥川(1892~1927)は、明治二十五年東京に生まれ、大正五年七月に東京帝国大学英文科を卒業した。同年横須賀の海軍機関学校の嘱託英語教官となり、十一月に鎌倉由比ガ浜に下宿し、横須賀へ通うかたわら創作に励んだ。
 同六年に横須賀へ移ったが、翌七年二月に
塚本文子と結婚し、三月にこの小山別荘内に新世帯を持った。間数は八畳二間その他三部屋に湯殿と台所という独立家屋で、庭に池があり、大きな芭蕉が五六本生えていた。大正八年に大阪毎日新聞社社員となり、創作に専念することになったので、四月に田端の実家に帰ったが、芥川はこの頃のことを、絶筆となった
「或阿呆の一生」の中で、次のように書いている。

【十五 彼等】
 彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がっだかげに。ー彼等の家は東京から汽車でもたっぷり一時間かかる或海岸の町にあったから。






 境内の社殿の前に枯れていますが、そばに義家の「旗立ての松」といわれるものがあり、境内を出た左の先に石清水の井戸があって、石清水八幡宮とのつながりを伝えています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 ところで、源氏は八幡神の使いのハトである伝書鳩を使うことが出来たという。鳩は時速60~100kmで飛ぶ。この通信手段は古代からあるが、日本の歴史上は「言い伝え」しかない。本当の極秘事項で、家康が鷹狩りの没頭したのは、鷹のエサでもあるハト(伝書鳩)を使わせないためだったのでしょうか?
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