鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 1063年 源頼義(よりよし)が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、1180年鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉にはしかるべき大工がいないので、1181年 武蔵国浅草から大工(戦争時の宮大工ら)を呼び、八幡宮の造営が開始されました。
 もとは鶴岡八幡宮寺であり、神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割をになうものでした。
 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。

自分の自由になるお金を、何に使ったのか!

 「お年玉」、最近は学校でお金に関する授業もあるようです。
 お金の楽しみも大事ですが、何かしら、感動につながると良いですね。
 現金の使用が少なくなってきていますが、お年玉で、現金の感覚を覚えなければならない時代がくるのでしょうね。
 しかし、いろいろなお店で現金が使いにくくなってきているので、お年玉もどのようにしていけば、と考えてしまいますね!

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

大晦日に蕎麦を食べるようになった由来!

 日本の伝統的な行事は大切にしたいですね。
 欧米の文化が浸透したため、つい、昔からの行事を忘れてしまいます。日本の行事は、何かしらの災害時でも「つながり」を維持し、災害時に助け合う風土づくりに貢献していると思います。
 「ボランティア」という言葉が使われていなかった時も、日本には助け合う風土が根づいていました。その助け合う気持ちを維持し続けるため、いろいろな行事が生まれたようです。
 行事は、神様や仏さまとのつながりが強いのも、そのためではないのでしょうか!

鎌倉 天神七柱、地神五柱を祀る「十二所神社」

 1278年、鎌倉時代に創建。熊野大社を勧請して創建された。500mほど南側にある光触寺の鎮守社で、熊野信仰が武士や庶民に広まりを見せていた時期であった。

 光触寺の境内にあった熊野十二所権現の社を1838年に現在地に移転し、明治の神仏分離策の推進により社名を十二所神社と改めました。

心理の底に溜まった感情の捌け口が必要!

 何かしらの悩みはありますね。それが、その程度あたまをよぎっているか、よぎっている時間が続くと、かなりつらくなりますね。
 気分転換が必要なのは分かっていても、そう簡単にはできないですね。
 風呂の水を流すように、一気に簡単に流すことができると良いのですが!

大草鞋の大男がいるよ、悪いことはダメ「西国寺山門」

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 京からお連れした仁王さん。尾道がたいそうお気に入りで、夜な夜な町を散歩する。どすんどすんの大音に、町の人々眠れない。和尚に頼んで経あげて、やっと門におさまった。仁王さんの健脚にあやかりたいと、信者が奉納した大草履。
 「この先には、この大きな草鞋サイズの足を持つ大男がいるよ、悪いことして入ったら返り討ちに遭うよ」と。

クリスマス、ふと考えてみるきっかけに!

 日本では行事が少なくなりつつありますが、いろいろな行事があると、それぞれの行事の成り立ちや目的を、ふと考えてみるきっかけになります。
 災害が多かった日本、行事がたくさんありました。
 それも、地域それぞれ風土が違うため、各地に個性のあるいろいろな行事が生まれたようです。
 それらの行事は、災害に遭った人々が、立ち直るきっかけにもなったようです。
 50年前のお年寄りの子供時代の記憶には、生活に根づいた行事は、たくさん残っていたようです。歴史を大切にする日本、残念ですね!

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

叱るときは、一つに的をしぼることが大切!

 しかるとき、その場でのことだけにすること、だそうです。ついつい、記憶に残っていることも並べ立てて、しかっていませんか?
 「しかる」は「育てる」こと。これに徹することが大切なようです。
 そのためには、叱る側が冷静であること、これが前提条件ですね。
 あと、しかる環境や叱る人の表情も大切ですね。そのためか「顔色をうかがう」という言葉があるのでしょうか!

厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」

 弁財天は、七福神のなかで唯一の女性は、美と才能、財宝を生み出す女神です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 弁財天は古代のインドにおける川の神(女神)で、水の神と農耕の神として信仰されていました。
 日本には中国と朝鮮を経由して、初めは仏教の守護神として伝わったといわれています。その当初の姿は守護神らしく宝珠・剣・弓矢などを持つ像でしたが、鎌倉時代になってから琵琶を弾く姿に変わり一般化し、芸能の神とも呼ばれるようになりまた。
 さらに江戸時代に入ると学問・音楽・除災・至福を与える神として、広く一般庶民に信仰されるようになりました。

鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。

心の傷にはふれない!

 失意のとき、相手をはげますか、何もしないか、難しいですね。
 相手が、何かしらの助けを求めているときは、相手が望む方向が判っていれば、その方向の助言が出来そうですが、分からないとき、どうするか、難しいですね。
 小学校時代からのの友人が、中学の二年生のとき失明しました。半年近くときどき尋ねて来ていました。あるとき、小学校時代の先生の家に5~6人で遊びに行きました。
 その帰りに、「このままではどうしようもない。盲学校に行け」と言いました。
 そして、相手は4月から盲学校に行きました。その後も田舎に帰ると尋ねてきました。

尾道 瀬戸田 1936年に建立が始められた「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。

 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

生き方上手は……叱ってからほめる!

 「叱ってから褒める」これが原則のようです。
 ただ、「叱る」と「怒る」は明確に意識していないとダメですね。
 辞書によると、
「叱る」=よくないことであると強く注意し、厳しく言い聞かせる。
「怒る」=不愉快・不満を感じて気持があらだち、その気持を表に出すこと。
 言う側が、「冷静であるかどうか」にあるようです。
 冷静であれば、叱った後に褒めることは、それほど難しくはないのでしょう!

物事をカイゼンする上での基本手法を「五つのWHY」!

 最近はあまり聞かなくなった言葉ですが、トヨタの改善手法で、「カンバン方式」とか、「5W1H」とか、「小集団活動」という言葉がありました。石油ショックの頃の話で、NET社会になるずっと前の話です。
 トヨタの改善手法は、石油ショックから抜け出すため、多くの製造業が取り組みました。
 昨今、災害が増えていますが、電気や通信手段に障碍が発生したとき、このトヨタの改善手法を使うと、少しはより良い状態になるのではないのでしょうか!

鎌倉 竜巻や火災にあったりした「補陀洛寺」

 誰のものかもわからぬ髑髏(どくろ)を頼朝に見せて闘争心をあおり、平家討伐の挙兵を勧めた人物としてその名が語り継がれている文覚上人ゆかりの補陀洛寺。
 その姿は変わってしまったが、現在でも材木座海岸近くに存在している。
 その補陀洛寺の本堂には、かつて平家を呪い殺すために彫られたと伝えられる不動明王像が安置されており、当時の空気を肌で感じさせてくれる。(「古都鎌倉 ミステリー旅」吉田憲右著より)

鎌倉 北条時宗公産湯の井がある「甘縄神明宮」

 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。(「鎌倉事典」白井永二 編より)