梅雨に雨の日が多いのは!

“ 近年、天候が不順になっています。温暖化のためだと言われています。
 歴史的には地球は暑くなったり、寒くなったりしてきたようです。そのあたりの原因は明らかではないようです。
 そろそろ梅雨が始まりますが、今年はどうなのでしょうか。
 雪が少なかった地域では、水不足が心配ですが、梅雨でカバーできるのでしょうか?
 田植えのシーズンが始まり、水路に水が多く流れ始めました。休耕田も増えていますが、水の量は見た目では変わっていないようです。実際はどうなのでしょうか?
 休耕田に水を貯め、地下水にすることもあるようですが、効果はどうなのでしょうか!”

厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」

“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
 古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
 随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
 今ではまったくありませんが。 ”

文字文化の伝達方法がそろそろ終駕に!

“ ネットで写真や動画で情報発信することが増えています。言葉での情報発信に限界があることをを感じたのでしょうか?
 しかし一方で、テレビよりラジオを好む人も増えているようです。
 文字情報の中にも、日本語のように発音は同じでも、異なる漢字を使う言葉もあります。
 また、現地でその場所の歴史や伝説・民話を、言葉や文字で情報を伝える場合もあります。
 日本では、漢字そのものの語源を意識しながら、言葉によるコミュニケーションも情報が深くなるので、大事にして行きたいですね!、”

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」

“ 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。
 開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌の曾孫、太田資宗の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。家康が没すると、出家して名を英勝院とあらためた。そして、先祖の供養とみずからの後生のため、寺を開くことを幕府に申し入れ、1636年11月に仏殿が完成した。その後、代々、水戸家の娘が住持となった。
 お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。”

学校教育は知識を詰め込むだけの場所!

“ 太平洋戦争に後、アメリカが日本の教育制度を改革し、日本をアメリカの属国のようにした。これは日本にとっては、メリットもデメリットもあったのでしょう。
 その後、日本的な修正が加わり、現在に至っていますが、まだ改善が必要のようです。
 いま、詰め込み教育が見直されつつあるが、その効果は???
 また、子供の安全な環境も整備されたが、行き過ぎたためか、安全に対する思考能力が落ちたためか、何も考えないで指示役の支持通りに、犯罪を犯す人を生み出しています。
 子供時代から、自分の安全に対する思考の訓練が、もっと必要なのでしょうね。
 ところで、ロシアが征服したウクライナの一部での教育は、どんな占領教育をしているのでしょうか。その面での教育は、ロシアは歴史的にベテランですから心配です!”

尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちている(残っている)シーズンは、滑りやすいので注意してください。

ボランティアは自分のためでもある!

“ 「人助けは、自分助け」と言われています。
 大阪の商人文化には、「儲けた金は、社会に戻す」という風土がありました。松下幸之助さんも、神社やお寺に多く寄付をしたとか。そう言えば浅草の雷門も幸之助さんの寄付ですね。
 尾道にも、ダムを造るとき国と県の補助金以外は、商売で成功した1人の商人の寄付だったとか。
 その背景には、親の責任は、子供を一人前にするまでで、遺産を子供に残すという考えはあまりなかったようです。
 一方明治維新の頃、生糸とお茶が輸出のメインだったのですが、静岡のお茶は、お茶に土を混ぜ儲けようとしたとのことです。お茶の生産者は、もと徳川の武士だったようです。商人文化を知らなかったのでしょう。
 なんだか、静岡県のリニア中央新幹線問題がふと頭に浮かんできました。”

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

“ 浄土宗の寺で、建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)などとならぶ鎌倉の大きな寺の一つです。
 一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす)が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林(じゅうはちだんりん)という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺(ぞうじょうじ)に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家(ないとうけ)からも寄進を受け、内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となってからは大名寺(だいみょうじ)としても栄えました。
 広々とした境内の正面には、大殿(本堂)が建っています。1698年(元禄十一年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏が祀られています。”

厚木 曹洞宗天巽派の修行道場「清源院」

“ 厚木市三田に曹洞宗の巨利、東福山清源院があります。三田地域のほぽ中央、西方丘陵、緑したたる森の中に所在し、禅宗としての巨刹です。この地は、昔北条氏の家臣、越智弾正忠の館跡とも伝えられ、清源院の本尊薬師如来像は、天正年間、越智出雲守の寄進によると伝えられます。
 中世末期、天台宗を曹洞宗の名僧、慶順和尚の同時再興によって改宗されたもので、近世においては曹洞宗のこの地方における中心として権威をもっていました。
 同寺の縁起によると平安時代、伊豆天城山麓の伊東家の香華院(こうげいん=菩提寺のこと)として建立されたと伝えられ、江戸時代に入って旗本、伊東氏の菩提寺となりました。”

離職後は諸見、旅行する……?

“ 定年後の生活は、年代を超えて考える必要があるようです。それは、老後の生活を健康に過ごし、費用のかからない生活が維持できれば、若者達にいろいろな費用負担が軽減でき、自分達や子供達にその恩恵がまわってきます。
 子どもや若者が年配者と共に、いろいろな活動が始まると、年配者も元気よく過ごすことが出来、若者の費用負担が少なくなるように工夫したいですね!”

尾道 1935年より建立した瀬戸田「耕三寺」

“ 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。”

どんな状況にあっても「原因自分論」に!

 どんな苦しい状況に合っても、「その原因は自分にある」と思えば、次からは事前に対策を立てておくことができます。いわゆる「失敗は財産である」ということになります。たとえそれが災害であってもです。
 どんなにうまくいってても、うまくいかなくなるときに対処ができるようになるには、やはり失敗経験なのでしょう。
 現代は、子供時代から安全な環境で育っています。ケガをする回数も激減しています。交通事故以外では、子どもが命をなくすることも減っています。親も、子どもに対する注意が、安全な環境下での注意になっています。
 子供時代から失敗経験が少ないため、「失敗財産」があまりありません。自分で考える力が弱っているのでしょう。ネット情報に頼り、ますます生成AIに頼る時代になっていくのでしょうね!

海老名 高野山真言宗の寺院「総持院」

「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
 また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。

ほめられたら、すぐお礼&ほめ返し!

“ 「誉め上手」になるといいですね。報道番組やネットでは批判があふれています。せめて、実際に顔を合わせた場合は、せめて「誉め上手」でありたいですね。
 ただ、誉めるのは難しいことです。上っ面の誉めになったり、お世辞と受け取られたり、時には、さげすまされていると感じさせたりしてしまいます。
 かなり、誉めることを練習・訓練しなければなりませんね!”

福山 鞆 箏曲家宮城道雄の先祖墓がある「南禅坊」

“ 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
  なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。”

何気なく暮らして見つける小さな幸せ!

 幸福な生活をしていると、それほど幸せを感じなくなるようです。
 少し辛い生活の中では、「小さな幸せ」を見つけられるようです。環境に敏感になっているのでしょうか?
 日本の歴史の中で、小さな幸せを感じていた時代はどの時代なのでしょうか?
 俳句が盛んな時代は、日常の小さな自然に目を向けることが多かったのでしょうね。
 そう言えば、比較的農業が安定し、江戸に近い街の方が、俳句を刻んだ碑を見掛けることが多いですね!

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

“ 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。
 本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。”

「お金、お金」の歪んだ価値観!

“ 「お金、お金」の時代が続いています。しかし、働き過ぎが問題になっています。
 一方で、家庭菜園をする人が増えています。都市に人が集中しなければ、もっと家庭菜園が増えるのでしょう。
 田舎暮らしなら、家で消費する野菜を、家庭菜園で自給(近所との物々交換も含めて)できます。すると、物価上昇も和らぎます。
 野菜ゴミも肥料に使えます。野菜に付く虫も、手間はかかりますが取り除き、綺麗に洗って食べます。
 私達の多くは、農薬を使った野菜を食べています。見方を変えれば、虫も食べないような野菜を食べています。
 現在は、ネットで仕事が出来る環境があります。「お金、お金」の時代も、少しは和らいでほしいですね!”