東光山 英勝寺(浄土宗)
鎌倉市扇ガ谷1-16-3 標高:16.6m
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 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。

 開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌の曾孫、太田資宗の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。家康が没すると、出家して名を英勝院とあらためた。そして、先祖の供養とみずからの後生のため、寺を開くことを幕府に申し入れ、1636年11月に仏殿が完成した。その後、代々、水戸家の娘が住持となった。

 お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。
 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)
 山門は閉まっているので、こちらから入ります。
 ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
 この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と




呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。開山に頼房の娘の小良(さら)姫を迎え、寺領も多く豊かな寺として続き、住職は代々水戸家の姫を迎えてきました。英勝院は1642年(寛永19年)に65歳で世を去り、その墓塔は水戸(徳川)光圀(みつくに)によって立てられました。この時はここに光圀が訪れています。

 通用門からまっすぐ庫裏(くり)の前に進むと、石段の上に書院と裏山に続く竹林や、
林羅山(はやしらざん)の文があるものです。戦争中(太平洋戦争)に国に差し出し、一時は他の場所にありましたが、1957年(昭和32年)、無事に戻ったのです。
 お勝の局の人がらを表わす話として次のような話が残っています。あるとき家康が家臣に、
 「食物のうち、最もうまいものは何か。」
と問いました。みんながそれぞれに勝手に答えると、お勝の局は
 「やはり塩でございます。」
と答え、一同はその賢さに感心したということです。どんな食物もそれぞれに良さが
カエデがあります。その奥には、公開されていませんが茶室や梅・カエデ・ツツジなどが植えられた庭があり、沢庵和尚(たくあんおしょう)の文字や三葉葵門(みつばあおいもん)のついた水盤などがあります。
 境内にはいろいろな値物があり、四季それぞれの美しさを表わしています。
総門のそばに、袴(はかま)の腰の部分の台形のように下部が広がった「袴腰(はかまごし)」という形の黒い鐘楼(しょうろう)があります。「袴腰」の鐘楼があるのは、鎌倉では英勝寺だけです。英勝寺の鑓は、1643年(寛永20年)、長谷川重次(しげつぐ)の作で、江戸時代の有名な学者の












 1643年建立の鐘楼。

 近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式。
あるけれど、調理の味つけ次第でどのようにもなることを表わし、人の使い方も同じだというのです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
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