東光山 英勝寺(浄土宗)
鎌倉市扇ガ谷1-16-3 標高:16.6m
ウォーキング地図へ
 裏山には、公開されていませんが、代々の住職の大きな卵塔(らんとう)(無縫塔(むほうとう))の墓があり、そこから山道を登ったところにある墓地には「北向地蔵(きたむきじぞう)」がまつられています。また、その裏の寿福寺(じゅふくじ)から上がってきた道には太田道漢(どうかん)の墓と伝えられる塔などもあります。

 太田道潅については次のような伝説が残っています。

 あるとき狩に出て、にわか雨に会い、農家に「みの」という



















 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 崖に掘られた洞窟は「三霊社権現」。

 10mほどの洞窟内には石仏が安置されているそうです。
かやで編んだ雨具を借りにいきました。ところがその家の少女は、ただだまってヤマブキの花を差し出すだけで、その意昧がわかりません。後に、古い歌に

 七重人重 花は咲けども やまぶきの実の 実の一つだに なきぞ悲しきとあるのを知り、
ヤマブキが実をつけないように「みの」が無いので残念だが貸せないという意味をこめた返事だったことがわかったといわれています。道灌は戦国時代の関東では珍しい歌人で、文武両道にすぐれていたのでこのような伝説が生まれたのだと思われます。また、道灌は江戸城を築いたことでも有名です。






「乱橋喧嘩一件始末」記をご紹介します。

 寛政元年立七八九)三月三日夕方。

 英勝寺の召使いの利八、長五郎、久八の三人が飯島・小坪へ潮干狩か何かの帰りに乱橋村の太郎吉酒屋で先客の八名とつまらぬことから大喧嘩となり、長五郎はナマクラ刀を抜く、それを仲間が後ろから抱き止める、その間にもう一人が刀をもぎとって、それでもって八人を相手に大立ちまわりを演ずるという騒ぎでありました。
八人の中には大町の神官、
森戸の神官、大町の名主、材木座の名主が混っていたし、百姓も大工もお医者も居ます。
 材木座の名主と森戸の神主がカスリ傷をうけ、この野郎とばかり興奮した一同は三人をとり押えて縄をうち、独断で一晩抑留してしまいました。---
 寺ではカンカンに怒って江戸表へ訴えると
おどかします。なにしろ水戸様のお寺といわれる格式の高い英勝寺のことだから、八名の者は平ぐものように謝るばかりでした。けがをさせられた上に念書始末書をとられ、高徳院(大仏様)の住職のとりなしによって一週間目にようやく内済にしてもらうこととなり、事件は落着しました。




護国寺へ:  岩窟不動尊へ:  岩舟地蔵へ:  寿福寺へ:  海蔵寺へ:
1頁へ  2頁へ  3頁へ