厚木 樹齢約600年の御神木イチョウ「荻野神社」

荻野神社のイチョウ(市指定天然記念物)
 荻野神社の社殿の西側約5mのところにあり、樹齢約600年推定され、高さ約30mもある大木です。古くから御神木として扱われ、多くの天災に遭遇しながらも生き続けています。
 イチョウを中心として、杉・欅其の他負けず劣らず大古木で一大高森を構成している。御神木の大公孫樹は、周囲二丈もある大木で、根本より十何本の小幹を並立させて、此の森の中央に突立って居るが、中間は十間位の所で折れて中は大なる空洞で、蛇や梟(ふくろう)の唯ーの陰れ家となっています。

日本の大学の多くはムラ社会!

 有力者を頂点とした序列構造を持ち、古くからの秩序を保った排他的な社会を「ムラ社会」というのですが、この制度はなかなか崩れないようです。
 ネット社会で、もっと横のつながりが広がるかと思っていたのですが、同じような考え方をする人がつながっているようで、組織の枠を越えたという面では広がっている面もあるのでしょうが、思考という面では、広がりが少ないようです。
 もちろん、日本の中でも地域の風土差があるのでしょうが、もっとゆるいつながりが思考の面でも広がると、独裁的な指導者の防止に効果的なのでしょうが!

鎌倉 鎌倉にある唯一の尼寺「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。
 お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。

いかなる心境で選ぶか!

 柔軟に外からの刺激・情報を受け取ることが出来るか、そして、自分のエゴ、意地、思い込みの影響を受けないで、無心の心境で判断が出来るかどうか、これができるようになった人が、悟った人なのでしょう。
 現在のように、知識・情報が飛び交っており、そのなかには、個々人の思い込み情報やフェイク情報もあり、またそれにAIまで絡んできているので、それらの情報が、プラスになっているのか、マイナスになっているのか。判断することは大変ですね。
 むかしから、悟る方法はいろいろ開発してきたのですが、新たな悟りの方法も開発されなければならないのでしょうね!

尾道 お茶子娘供養のかんざし燈籠「八阪神社」

「かんざし灯籠」の伝説
……ある日、だんなが息子を呼んで言うた。
「おまえ、お茶子ふぜいと付き合うとるそうじゃが、立場を考えにゃいけん。うちは浜問屋じゃけえのう」
「浜問屋とお茶子がどうして結婚してはいけんの」そんな親と子のやりとりが何日も続いた。……息子がつれてきた娘を父親はじろじろと見まわした。
 べっぴんさんじゃし、言葉づかいもていねいじゃし、気立てもよさそうじゃ。……「あんたべっぴんさんじゃし、言うことはないけどのう、今時の娘がかんざし一つ差しとらん。かんざし一つ差しとらんような者を、うちの嫁にするわけにはいかんのじゃ。すまんがうちの息子との結婚はあきらめてくれ」……そう言われて娘は悲しかった。
 この日のために親が無理して買うてくれた着物と履物。じゃが、かんざしまでは手が届かんかった。娘は親の気持ちを考えると、ただただ、せつなかった。 両親の顔が浮かんでは消える。
 気持ちのやさしい娘は心の中で両親にわびながら、その夜、明神さんの近くの井戸に身を投げて死んだんじゃ。
 それから間もなく、雨の日に女の幽霊が出るという噂がたつようになった。

心の養成には、ぜいたくをしろ!

 「虚栄の心」「偽善の心」「嫉妬の心」、これらの自分の内にある心には、なかなか気がつかないもの。これに「小心」が加わると「自己保全の心」がどんどん強くなっていきます。
 歴史を見ると、独裁的なリーダーには、小心者が多いようです。というより、優秀な小心者でないと独裁者にはなれないようです。世間の評価は、このような人を高く評価するようですね。
 「曖昧な人」「いいかげんな人」は、世の中を平和に保っているのですが、世間の評価は低いようですね。
 人の基本には、「自分達が争いに勝つ」を高評価する、という性質があるのでしょうね。戦争だけでなく、競技もそうですね!

鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」

 モンゴル襲来の後に、その撃退を祈願して、北条貞時か心慧智海(しんえちかい)を開山として建てたものです。開山塔や大燈塔(だいとうろう)は国重文で、裏山には、鎌倉特有の死者を弔う形として発展した「やぐら」が多数あり、「百八やぐら群」と呼ばれています。
 1218年(建保6年)に北条義時(よしとき)はこの地に大倉薬師堂を建立しました。北条氏の信仰を集めたこの薬師堂をもとに、1296年(永仁4年)北条貞時(さだとき)が、再び元寇が起こらぬことを祈って心慧(しんえ)を開山として改めて建立したのが覚園寺です。

すぐに「キレる」人が増えている、と!

 すぐキレる人が増えているようです。社会全体が、正解を求めすぎているのでは、と感じることが多いようです。それも「一つの正解しかない」と思い、その一つの正解から外れると阻害されることになり、その阻害された人はキレることになります。
 「正解はほんとうにひとつしかないのですか?」、視点が変われば、「正解も変わるのでは」と思うのですが。
 もっと「曖昧」を許容する世の中であってほしいですね。曖昧が許容される社会は、極端な独裁者が現れることもなく、ある意味、いいかげんな政治も許容され、ゆるやかな社会になると思うのですが!

福山 江戸時代末に建築された建物「鞆の津の商家」

 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています。外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。
 町家の多くは合併や増築によって造られており、一時期に一気に新築されたものは珍しい。
 これは、特に繁華な港町における町家の浮沈の激しさを反映していると思われます。
 もちろん、町家を新築する際には古材を再利用するのが当たり前で、そのことが建築年代の判定を著しく困難にしています。

一目惚れとは免疫力の見抜き!

 さまざまな状況に応じて、からだの内部状況を一定に保つからだのしくみ、適正に機能していますか?
 先進国の多くは、人工的なしくみが発達し、エアコンや予防注射などを利用するようになっています。
 SDGsで「持続可能な未来を築く」ことが叫ばれています。できるだけ人工的なしくみに頼らず、生命体としてのヒトのからだの対応力の向上も必要です。しかし、この部分に関しては、どんな取り組みをしているのか、わからないですね!

日蓮が佐渡国に流刑になるとき立ち寄った「圓教寺」

 文永八年(1271年)九月十二日、日蓮上人が龍のロの難を逃れ佐渡国に流刑になるとき、座間の対岸の依智(知)郷(厚木市)にあった佐渡国の領主本間六郎左衛門重連の館へ預かりとなりました。このとき警護の役人として龍のロから依智まで付き添って行ったのが鈴木家先祖の弥太郎貞勝でした。
 貞勝は昨夜の出来事に大変に感服し、依智に向かう道中で、日蓮上人に是非途中で座間の私の家へ立ち寄ってご休息をされるよう請い願いました。熱心な貞勝の勧めに日蓮上はお立ち寄りになり、心のこもったもてなしを受けました。

相手や状況に合わせてコントロールする能力!

 牛丼チェーンの吉野家の常務が、大学の社会人向け講座で「生娘シャブ漬けの戦略」の話をし、「人権・ジェンダー問題の観点から到底許容することのできない職務上著しく不適任な言動があったため」との理由で解任されました。
 相談gotoの場面を除くと、あまり相手のことを考えて、発言していないことがありますね。自分が言いたいことを、ただ言って終わり、ということが多いですね。無意識に、国会での野党の質問をまねしているのでしょうか?
 まず、きちんと聞く、という習慣ができている人は、話すときも、ワンテンポ置き、相手のことを気にかけながら話しているのでしょうね!

鎌倉 日蓮が一時、この夷堂に滞在「本覚寺」

 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

人間は手を使ったから進化した!

 現在「知識」というもののほとんどが、経験を伴っていないものになってしまいました。いろいろな知識を、発達した頭脳で処理し、解ったつもりで生活するようになりました。
 そのためか、感覚が鈍くなっているようです。食べ物でも、ニオイで食べることが出来るのか、出来ないのかは、ある程度は判断できました。また、腐っているかも?、と思うと、口に少しだけ入れ、おかしいと感じると吐き出ていました。
 これが出来なくなってきているのは、ヒトの生物としての劣化なのでしょうね!

尾道 手水に石造の神亀が「艮神社」

「石造の神亀(しんき)」
  神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 「幸運」を自分のもとに引き寄せるための努力は、焦ってはいけません。慌てる必要はないのです。亀のように遅い歩み方でもかまいませんから、休まずに、少しずつ続けていくのがいいのです、よ。

穀物を主食にしたのが1万年くらい前!

 糖質制限など、健康志向で食べ物に気を使うことも多くなってきています。健康食品も増えており、「からだにいいですよ」というものが目につきます。
 しかし、気になることもあります。「健康に良い食べ物」、「快適な環境」など、ヒトが快適に暮らすことが、生物としてのヒトの進化に貢献するのかどうか、言われることはないですね。
 地球環境の悪化、新たに生まれるウイルスなどへの、ヒトの対応力は、ヒトの生物としての対応力を変化させなくても、乗り切れるものなのでしょうか。細胞の対応力より、きっと意識の変化で乗り切れる、と信じましょう!

厚木 源頼朝側室後の局、祭神小町姫に祈願「小町神社」

 平安初期の歌人として、また美人として有名な小野小町の出生地と言われています。これが小町姫を祭る小町神社です。毎年四月二十一日が祭日になっていて、かつては近在からの人出で大いににぎわったようです。
 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局は頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせた、と。

歴史の陰には謎の死が後を絶ちません!

 歴史の景には、謎の死を遂げた例がたくさんあるそうです。また、古代中国では、自ら不老不死の薬として水銀を含む薬を飲んでおり、秦の始皇帝や漢の武帝が丹薬の副作用で死んでおり、唐の時代には皇帝21人の内6人は水銀中毒だったそうです。
 「この薬はは効果がありますよ」と言って、毒薬を進める医者(専門家)がいると、やはり、それを飲んでしまいますね。
 「これはパーキンソン業に良く聞きますよ」と、だれか?に勧める人が出てくるかも知れませんね!

鎌倉 桟敷尼が日蓮にぼた餅を差し上げた「常栄寺」

 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮が馬で龍ノ口の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。

いざこざは、相手のせいだ、と!

 いざこざが起きると、「相手が悪い」と考えるのが普通です。なかなか「自分が悪かった」と思えないものです。これは、現在起きているロシアのウクライナ侵略戦争においても同様ですね。ロシアは「相手が悪い」と言い続けています。
 どうしたら、「自分が悪い」と思うようになるのでしょうか? 難しい問題です。
 自分の思い込みのからつくり上げた正義、これは、論理的な思考をする人には、改めることが難しいのでしょう。もっと「いい加減」・「曖昧」を許容し、穏やかな社会であってほしいですね!