休息山遠光院 圓教寺(日蓮宗)
座間市入谷一丁目  標高:32.3m
ウォーキング地図へ
 1275年 刀工鈴木弥太郎貞勝が日蓮に帰依し、自邸を寺に改め、日範を開山、自身を開基として円教寺を建立しました。

 1271年、日蓮が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬の龍口寺)で斬首の刀が折れ処刑を免れたという龍ノ口法難後、依知(現在の厚木市)の本間重連の館に向かう日蓮を、折れた刀の刀工鈴木弥太郎貞勝が自邸に招き日蓮に帰依して円教坊と名を改めました。

円教寺に伝わる話

 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知の本間屋敷に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。
 円教寺の縁起を紹介しますと、文永八年(1271年)九月十二日、日蓮上人が龍のロの難を逃れ佐渡国に流刑になるとき、座間の対岸の依智(知)郷(厚木市)にあった佐渡国の領主本間六郎左衛門重連の館へ預かりとなりました。このとき警護の役人として龍のロから依智まで付き添って行ったのが鈴木家先祖の弥太郎貞勝でした。
 貞勝は昨夜の出来事に大変に感服し、依智に向かう道中で、日蓮上人に是非途中で座間の私の家へ立ち寄ってご休息をされるよう請い願いました。熱心な貞勝の勧めに日蓮上はお立ち寄りになり、心のこもったもてなしを受けました。
 日蓮は貞勝の志を深くお感じになり、円教坊の法号と本尊を授与いたしました。貞勝はさらに、私の家は代々鍛冶を業としていますが、この地は水が悪くて鉄を鍛えるにも良いものが打てません。どうか上人のおカにより鉄を鍛えるに相応しい水にしていただけないかとお願いいたしました。
 上人は傍らの石に首題を書き、三十番神を勧請し、お経を唱えながら地を穿つと不思議なことに清水が湧き出てきました。この清水を番神水と呼んでいます。
 こののち貞勝は身延山へ上り、髪を下ろします。そして自分の屋敷を献じて道場を開くことを申し出で、この志に日蓮は日範を座間につかわして円教寺を開きました。……

(座間むかしむかし 第十九集 座間市教育委員会 1997/3/28 発行より)
 本間屋敷に滞在中に幕府が日蓮の佐渡への流罪を決め、10月10日に日蓮は遠く佐渡へと護送されていった。28日に佐渡に着き、それから2年半もの流人生活が始まったのです。日蓮は冬の厳しい寒さに苦しみ、また地元の浄土宗の僧からの迫害があったりしたのですが、法華経への信仰は益々深まっていきました。本間重連は、日蓮を庇護し接しているうちにその教えを受けるようになり、ついには法華経に帰依して法名を「蓮生房日永」と名乗りました。
 




 三十番神についてはこんな話があります。

 京都では、伏見(ふしみ)の稲荷は、北野の天神と仲が悪く、北野にまいったと同じ日に、稲荷の社に参詣(さんけい)してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたいは、今聞くと
おかしいような昔話でありました。むかしは三十番神(さんじゅうばんしん)といって京の周囲の神々が、毎月日を決めて禁中の守護をしておられた。菅原道真の墓が雷になって、御所の近くに来て暴れた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力をふるわせなかった。
それゆえに神にまつられて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいいはじめたことに相違ありません。




龍源院へ:
1頁へ  2頁へ