この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年)
9月12日、捕われの身となった日蓮(にちれん)が馬で龍ノ口(たつのくち)の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。
常栄寺は、こうしたいわれのある場所に、1606年(慶長11年)、比企ヶ谷妙本寺(ひきがやつみょうほんじ)・池上本門寺(いけがみほんもんじ)両山の14代の住職日詔(にっしょう)が寺を建て、桟敷尼の妙常日栄(みょうじょうにちえい)という法名をとって「常栄寺」と名付け、格式の高い僧侶の学問所としたことからはじまります。その後、その学問所が池上に移されたため、そのあとに、紀州徳川家の家臣水野淡路守重良(みずのあわじのかみしげよし)の娘で、若いとき尼になった日祐(にちゆう)が、いまの僧侶養成のための講堂や学寮を再建したということです。
以後この寺は、大風でこわれたこともあったといいますが、ぼたもち供養の徳をたたえて、「ぼたもち寺」と呼ぱれ、現在まで続いているということです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
日蓮は修行中に法華経に帰依するようになり、法華経の信仰を広めるべく、日蓮が32歳の時鎌倉に向かった。鎌倉に入った日蓮は、はじめは庵を持たすに“辻説法”と呼ばれた独特の市教活動を行い、大衆に法華経を説いた。
その頃の鎌倉は大地震や洪水などの天災が続き、また疫病流行するなど深刻な社会不安に陥っていた。日蓮はこのような社会の状態を仏教的に解釈し、法華経の功徳が人々を救うとして文応1年(1262)に「立正安国論」を著して、幕府の第5代執権の北条時頼に差し出したのであった。
日蓮は、その中で国内に内乱と外寇が起こることを予言し、それらに対処するためには法華経に頼ることしかないことを説いたが、時頼は相手にせず無視した。また、日蓮は立正安国論の中で浄土宗を激しく非難したため、浄土教徒の攻撃をうけて草庵を焼かれたりした。
さらに鎌中の浄土宗寺院が幕府に訴えて出たため、日蓮は捕えられ、一時は伊豆に流されたのであった。 立正安国論を著してから4年後の文永5年(1268)に、元(蒙古)の国書が鎌倉に届き、元の襲来が現実のものとなった。日蓮は「元寇」の予言が的中したとして、再び幇府の要人に立正安国論を呈上し、また諸方の有力者にその趣旨を書いて送り、日蓮の持論による国難の回避を主張した。
文永8年には北条時宗が第8代の執権となったが、時宗はこのような日蓮の言動は世を惑わすものとして日蓮を捕え、龍の口の刑場で斬罪に処すことにした。その年の8月12日、日蓮は刑場に引かれて斬られることになったが、刑吏の武士が刀を振りかさした時、江の島の方角から満月のように光り輝くものが刑場に近づいた。刑吏は目が眩んで地に伏し警備の武士たちも恐れて逃げ散ったという。