鷲峰山 覚園寺(真言宗)
鎌倉市二階堂421  標高 36.8m
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 古義真言宗京都泉涌寺派。もとは真言・律・禅・浄土の四宗兼学であったが、明治初年に兼学が禁止されて本山泉涌寺が古義真言宗を標榜したのに伴って古義真言宗となった。開山は智海心慧、開基北条貞時。鷲峰山真言院覚園寺と号す。

 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈ってのことであうった。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となった。建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されている。その中で、この寺は鎌倉における北京律の拠点として教学活動は大いにふるった。初期の伽藍は火災によって失われたが、文長三年(1354)には足利尊氏の援助で仏殿が復興され梁牌銘には尊氏が自署している。彼のこの寺に対すなみなみならぬカの入れ方がよくわかる。この仏殿は元禄年間に鎌倉を襲った震災によって破損したが、古材を使って規模を縮小しながらも再建しのが現在の薬師堂で、尊氏の梁牌を天井に残す。この仏殿の他、地蔵堂・愛染堂があり、庫裡も近年建てられて寺容が整った。境内は国史跡となりており、鎌倉時代以来守り続けられてきた森厳な雰囲気は中世のを鎌倉を彷彿とさせる。

(「鎌倉事典」 白井永二編 東京堂出版より)
 モンゴル襲来の後に、その撃退を祈願して、北条貞時か心慧智海(しんえちかい)を開山として建てたものです。開山塔や大燈塔(だいとうろう)は国重文で、裏山には、鎌倉特有の死者を弔う形として発展した「やぐら」が多数あり、「百八やぐら群」と呼ばれています。

 1218年(建保6年)に北条義時(よしとき)はこの地に大倉薬師堂を建立しました。北条氏の信仰を集めたこの薬師堂をもとに、1296年(永仁四年)北条貞時(さだとき)が、再び元寇が起こらぬことを祈って心慧(しんえ)を開山として改めて建立したのが覚園寺です。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 鎌倉の中でも、とくに鎌倉らしさを色濃く漂わせる名刹として知られ、境内には、かつて胡桃ケ谷にあった旧大楽寺の本堂を移築した愛染堂、室町時代の禅の簡素なたずまいを見せる本堂の薬師堂、火焚き地蔵を収める地蔵堂などがあります。
文化財
 本尊の木造薬師如来坐像及び両脇侍の木造日光・月光両菩薩像をはじめ仏像彫刻の多さは鎌倉でも有数である。以上の三躯の他、薬師堂には木造十二神将立像やもと理智光寺(廃寺)の本尊で、胎内に小さな仏像を納めてあったことから鞘阿弥陀の名でよばれる木造阿弥陀如来坐像があり、旧大楽寺の建物を移した愛染堂には、仏殿像高1m余の木造愛染明王坐像、願行上人が大山寺不動明王造立に先立って雛型として鋳たので試みの不動とよばれる鉄造不動明王坐像、彩色に胡粉の盛り上げが見られる阿悶如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、
ひときわ大きい宝篋印塔が二基ならんでそびえ、これを取り囲むように歴代の無縫塔群が立ち並ぶ。中央の二基は開山智海心慧和尚と二世大燈源智和尚の墓塔である。開山及び二世の塔は共に4m近い見事な関東型式の宝篋印塔で、前者は塔身に金剛界四仏、基礎部には理趣経金剛乎菩薩等の八大菩薩が深い薬研彫の種子を刻む。基礎四方の束には開山塔に「開山大和尚、正慶元年壬申、沙弥禅門口阿、仲秋廿七日造立、営事恵秀、願主尼良阿、大工光広、住山鑒恵」、大燈塔に「正慶元年壬申、大燈大和尚之塔、仲秋廿八日造立、住持比丘鑒慧敬誌、建立尼円観、
木造文殊大士坐像、宋朝様を伝えた旧仏殿土地堂に安置されていたと思われれ木造伽藍神倚像三驅、同じく祖師堂にあった南山・霊芝の律祖、泉涌寺開山俊芿、当寺開山心慧などの木像五驅の諸像が堂内せましと並ぶ。さらに地蔵堂には別名黒地蔵の名で親しまれている木造地蔵菩薩立像を、正面に両脇には信者の寄進
した地蔵の小仏像を安置している。これは余りにも数が多く別堂を設けて、そこにもまつられており、そこの本尊として木造地蔵菩薩坐像がある。薬師堂から奥は立入禁止となりているが、境内最奥部に近いところに歴代住持の墓所がある。墓域は二方を山、二方を土居によって固まれており、その中央に重要文化財の












 愛染堂。

 廃寺となった大楽寺の本堂を移築したもの。
営事比丘恵秀、大工光広」の銘がある。二世塔の塔身及び基礎の種子は金剛界四仏と尊勝曼荼羅の八大仏頂。これら二基の宝篋印塔は昭和四十年一月、解体修理が行われ、その際出土した開山蔵骨器黄釉草葉文壷他の塔内納置品は両塔に追加して重要文化財に指定されている。他に寺主としては覚園寺文書九十四通、
木造護摩壇がある。
 境内は杉や梅、楓などの樹木が多いが、薬師堂前にそびえる槇の古木は目通り4m5cm鎌倉最大の槇。覚園寺創建当時のものである。なお、薬師堂背後の墓地には作家村松稍風の墓、その左山裾に鎌倉十井の一つ棟立の井があるが、いずれも立入一財禁止区域内。
(大三輪)

[文献]『市史』社寺編、井上章『覚園寺』(中央公論美術出版)、『覚園寺』(覚園寺)




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