福山 鞆 初代藩主水野勝成がこの地区を開発「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 福島正則の改易に伴い、水野勝成が1619(元和5)年、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備した。
 勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。

広く、深くという「体験」が必要だ!

 インターネットの普及で、情報の収集が手軽に出来るようになった今、いろいろな体験で、五感を使った情報収集力が、育たなくなったのではないかと、心配です。
 自然の中での体験は、ある面、危険な部分もありますが、一瞬で危険かどうかを判断するため、五感からの情報収集が敏感になり、しかも、即時に安全な行動を選択しなければなりません。
 インターネットでの情報収集は、そこまでの多才な器官から得た情報をもとにした、一瞬の判断を必要としません。
 ただ、いまは、自然の中といえども、あまりにま安全対策がされてしまい、五感からの情報をもとにした一瞬の判断は、必要がないようですね!

鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」

 龍口寺の五重の塔は明治四十三年(1910)竣工、棒造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師、永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。

 五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である
「地」、「水」、「火」「風」、「空」の五大を意味する。

少ないもので八面六臂に活躍させる!

 最近の電化製品や道具類は便利、というより、便利さや多機能を追求しすぎのように感じます。その結果、手の器用さを失ってしまいました。
 手からの信号を脳に伝え、その信号を元に、器用に体を動かし、その状況に対応する、というしくみが身についていません。
 足も同様のようです。足の指を使わなくなり、足の指でバランスを取るのではなく、手でバランスを撮っているように見えます。足の指は、親指側で足の内側の筋肉に力が入り、足の小指側で足の外側の筋肉に力が入ります。足の指からの情報で、足の筋肉でもバランスを取っているようです!

尾道 柔術不遷流の開祖不遷がいた「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。

 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。

 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

日本古来の「恥の文化」は!

 日本は「恥の文化」と言われています。自分の価値観より、周りの価値観の方が重要です。これは災害が多い社会で生きるための知恵なのでしょう。
 しかし、災害がここ数十年は少なかったので、平和ボケしてしまい、恥の文化の説得力は少なくなりつつあるようです。
 ただ、これからは災害が増えてくる雰囲気があります。電気が止まり、水道が止まったとしたら、水はどのようにしかすか?
 たとえ給水車が来たとしても、運ばなければなりません。お年寄りや病気の人、女性の人、二階や三階ならともかく、それより高い階にお住まいの方は、男性でも大変です。飲み水くらいならなんとかなりそうですが、それ以外は助け合いがなければ難しいですね。
 やはり、周りのある程度配慮しtた生活スタイtるは必要なのでしょうね!

厚木 親鸞聖人が御巡錫の場「弘徳寺」

 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。

"魂がよろこぶほう"を選ぶ!

 お金を稼ぐため、特定の知識や技術を身につけ、専門家を目指す時代になっています。専門家を目指すと、多くの人はその分野だけに努力するようになります。
 企業も得意の専門領域のみ技術を開発しようとします。その結果、集中して生産してしまいます。これを製造業や農業、漁業などが行った結果、運送距離が長くなり、燃料消費量が上がり、結果的に温暖化につながっているのでしょう。
 また、家庭で使ういろいろな製品も専門化し、種類が増えていきました。と同時に、一つの道具を多様に使う器用さを失ってしまいました。
 少ない道具を、いろいろ工夫し、練習し、多様な使い方ができる能力も身につけることができなくなってしまいました!

鎌倉 比企能本夫妻の像が「妙本寺祖師堂」

 妙本寺の祖師堂の建立は、その棟札から1838年と推定されている。
 桁行 (正面約18.7m) 五間、梁間 (奥行約19.7m) 六間、瓦葺き入母屋造り。

 日蓮、日朗、日輪が祀られている。

 現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。

物をたくさん持つよりも体験を重視!

 人間が生きていくにはお金が必要です。それも、100%お金に頼る生活になっています。
 できることなら、食べ物の60%位は、自分で生産できれば、もっと安心できる生活ができる気もするのですが。
 生きていくために、自分のものは自分で作ることで、心がもっと豊かになるのでは? と思っても、今の社会のしくみは、お金がなければ生きていけないですね!

尾道 昔の船着き場が「福本渡船 ⇔ 駅前海岸」

 昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。
 このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。
 いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。

雑談をしながら互いの関係を築く!

 知識教育が進み、五感からの情報をもとにして、自分で考えることが少なくなっているようです。
 「自分で気づく」そして、「どうしてだろう」と考える。この能力が劣化しているようです。
 自分が、自分で気づき、自分で考えることが増えてくれば、いつの間にか、自分を好きになってきます(嫌いではなくなってきます)。
 自分で気づいたこと・考えが、他人に感謝されれば、自分をもっと好きになることができますね!

海老名 大型の一間社流造「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。

相槌は、話を好意的に聞いてくれている!

 「聞く技術」の練習も必要ですね。「話す技術」はある程度の意識は向くのですが、聞く方は、どちらかというと疎かにしています。テレビで、聞く方の画像が画面の一部に表示されますが、私たちも見習う必要がありますね。
 聞く技術が上がれば、聞くことができる内容も豊かになるのでしょうね!

鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。

まず、心を解きほぐす!

 どうして人は、個々人のそれぞれの違いを大切にしないのでしょうか?
 「みんな同じ方が居心地がいい」と感じているようですね。
 最近は「自分で考える」ということが苦手になっているようです。そのため同類の人達と付き合うのでしょう。
 その原因の1つは、情報を早送りで収集する。また、講義なども早口になっています。歌もそうですね。早口は、考える時間を阻害するため、受け取った情報を、そのまま受け入れてしまいます。
 そのためか、自分自身で考えることが少ないため、「同じような人が意思疎通がしやすい」ということになるのでしょうか!

尾道 生口島 奈良・平安時代を参考「耕三寺」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

「もっと、もっと」と!

 なぜ、自分より下の人や子供に、「もっとガンバレ」と言ってしまうのでしょうか?
 取り組み方を、具体的に「こう考えれば……」と方向を示す言葉が必要なのでしょうね。
 知識教育が進んだ結果、自分でいろいろな情報を五感で収集し、それをもとに対応策を考える人が少なくなってしまいました。むかしのように「やって見せて、見て盗め」が成立しにくくなっています。
 知識は、基本的には過去のもの、そして、何かしらの資料、あるいは測定が出来るもので成り立っています。
 最近、研究者の方のラジオ番組を文字化しました。それと、その研究者の方の本を読んでみると、ラジオの方が参考になりました。
 本は、既に確定したものを修飾した表現になっています。しかし、ラジオでは「……かもしれないですね」という情報も含まれています。多少曖昧でも、それで良いのでは、と思います!

座間 鈴鹿郷神社の神輿が海上を渡御し漂着「鈴鹿明神社」

 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。

  伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
 みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。

悪いのはわかっているけれども!

 「自分が悪い」と気づきながら、「悪いのは自分ではない」フリをしてしまうと、それを正当化しようとしなければならなくなります。そして、ますます状況が悪くなっていきます。
 ロシアのプーチンさんもそうなのでしょうか。
 このような資質は、子供時代の親子関係が元にあるのでしょうか?
 子供時代、できれば自然の中で自由に暮らすと、大人になっても自由なこころが育つのでしょうか。
 もしそうなら、地方での8サラ・2農(8割はサラリーマン・2割は農業)生活で、自由な心を持つ人がどんどん増えていくと良いですね!