今は、自分をさらけ出す時代だ!

 情報化社会になり、「自分をさらけ出す時代」になりました。
 Netで流す情報も、気をつけなければならない時代になっています。
 Netでは、むかしでは「ほら吹き」と言われる情報も流れているので、そのつもりで見なければいけません。
 法律も整備されなければならないのですが、日本の立法府では、政治資金問題で手一杯のため、与党・野党には期待はできないようです。
 「世間体(せけんてい:世間の人々に対する体裁、体面)」で乗り切れると良いのですが!

現在の情況をありのまま見ること!

 「事実をありのままに見る」、先入観を持って見ていませんか?
 最近は、いろいろな情報の入手が、簡単に行えるようになっています。しかも、情報を検索している人の傾向にそった情報が提供されるようになってきました。
 すると、自分の思考がどんどん狭くなってしまいます。そうなると、事実をありのままではなく、狭くなった自分の思考から見てしまいます。
 自分が重苦しい思考状態になってしまうと、その思考をどんどん強めて行ってしまいます。
 自分の思考から事実を見るのではなく。事実は事実として、洩れなくつかみたいものです。そして、その後に考えるようにしたいものです。まず、事実を把握すること!

変化・変調気づくかどうかが大切!

 情報社会になると、何らかの「小さな変化」を、色づけし、情報として発信されることが多い。しかも拡張されて発信される。これらはフェイクニュースとは言われず、つい信用してしまいがちになる。
 最近、「シベリア抑留記」(原田道之助:著)という本を発見した。それは本といっても、原稿用紙に手書きで、それをコピーし製本したものである。素人が書いたもので、編集者も入らず、素直に書かれたものである。
 脚色もなく、ありのまま、何の色づけもなく書かれたものを読んで、最近の情報がいかに脚色されているのか、改めて感じました!

AIはいちばんいい回答を絞り込んでくれる!

 生成AIがどんどん普及する状況になっています。しかし、生成AIがやっていることを、自分自身で体験したことがありますか?
 この原点は、日本では「知的生産の技術」(梅棹忠夫著 1969/7/21)だと思います。当事は紙の情報カードを使って、関連しそうな情報を組み合わせ、新たな知識を生み出すといったものです。
 紙の情報カードが、PCでカード型データベースになり、SQLが利用されるようになり、扱えるデータ量がどんどん増えていきました。ソフトの値段もどんどん下がっていきました。
 いきなり生成AIに頼るのではなく、自分(あるいはグループ)のデータベースを作り、そのデータベースで単語検索をし、見つかったデータを、いろいろ組み合わせ、遊んで見てはどうでしょう。
 日本語の単語は、単に1つの意味ではなく、多用使われ方をしているので、思いがけないデータに出くわすことが普通にあります。
 その経験で、生成AIに対する質問力を上げて、よりよい回答を見つけるようになると良いのですが!

感じる人工知能のほうが!

 生成AIが広まろうとしています。その原点は、情報をカード化するところから始まり、コンピュータで、SQLなどのデータベースソフトが定着し、大量のデータを蓄積できるようになり、それに、編集ソフトが開発され、それらをもとに、AIが作業を行うようになりました。
 しかしまだ、人間の感性は、それぞれの人に合うようには、まだAI化はされていないようです。
 ただ、人々の自然との接触が少なくなり、学校や社会が、文字や画像などの情報への接触が中心になった今、人々の感性も、AI化されないとは、言い切れないのでしょうね!

目標に向かって努力をした人の脳!

 ChatGPT(相談型AI)サービスが開始されました。これは、結果的に「考える」ことが少なくなるようです。これは、認知症につながる心配はないのでのでしょうか?
 半世紀ほど前に「知的生産の技術」という本が発行されています。カードに情報を記入しておき、それをいろいろな視点から組み合わせ、「新たな知的発見」を行う方法です。
 その後、カード型データベースソフトが発売され、そしてSQL型のデータベースソフトになり、多くのデータを蓄積できるようになりました。その結果、多くの情報から「単語検索」が可能となり、いろいろな情報が見つけやすくなり、その見つけた情報を組み合わせ、新たな「気づき」が生まれやすくなりました。
 特に日本語は、同じ単語でも、使い方が多様なので、面白い気づきも生まれやすいですね。
 出来れば、自分でデータベースを作り、そして、単語検索をし、その情報を組み合わせて遊ぶと、歳をとっても、思考遊びを楽しむことが出来ますよ!

そんなにあれこれ本を読むのは?

 「雑読」は、多面的な考え方を手に入れる方法の一つです。考え方が狭くなると、いろいろな考え方の人と接することが出来ません。国家も一つの考え方になってしまうと、危険な国家と見られてしまいがちです。
 「雑読」は、曖昧さ(はっきりしないこと)を許容します。多様な知識を手に入れた曖昧さは、接する人達に心温めることになるのでしょう。いろいろな人達を、そのまま受け入れることが出来るからでしょうね!

学問は大いにやりながら、それにとらわれない!

 学問にとらわれると、なぜか視野が狭くなりやすい。視野が狭いが、深くなっていく。狭く・深くなりがちなのは、社会のしくみとして、出世しやすいからなのでしょうか。
 学問はした上で、その学んだことをいかに捨てていくか。
 いまの社会は、記憶力がよい人が、学問をする傾向があるので、学んだことを捨てることができない。その結果、イライラ社会になっているのでしょう。SNSの情報には、考え方の狭さを感じさせるものが比較的多いようですね。
 イライラを減らすには、「いい加減」が良いのでしょうね!

聞き上手だからこそ耳寄りな情報が入る!

 ネット社会になり、情報発信力が注目されます。しかし「聞く力」にもっと注目したいですね。そのためには、多様な知識を持ち、しかも相手の立場で考える力が必要です。
 自分が情報を発信しているだけでは、多様な情報を、自分のものにする力はつきません。思い込みを助長していくだけです!

いかなる心境で選ぶか!

 柔軟に外からの刺激・情報を受け取ることが出来るか、そして、自分のエゴ、意地、思い込みの影響を受けないで、無心の心境で判断が出来るかどうか、これができるようになった人が、悟った人なのでしょう。
 現在のように、知識・情報が飛び交っており、そのなかには、個々人の思い込み情報やフェイク情報もあり、またそれにAIまで絡んできているので、それらの情報が、プラスになっているのか、マイナスになっているのか。判断することは大変ですね。
 むかしから、悟る方法はいろいろ開発してきたのですが、新たな悟りの方法も開発されなければならないのでしょうね!

固定観念から解放されよう!

 「本は害になる」と言う人もおられます。これは、ある一面を表現しているのでしょう。
 その理由は、自分で本を選ぶ場合、やはり自分が興味がある本を選んでしまいます。これが永年続くと、固定観念が出来上がってしまい、その枠から抜け出すことができなくなる人が出てきます。
 そうなってしまうと、「本は害になる」と言われても仕方ないですね!

「日本にも原人はいた」は捏造だった!

 情報化社会になって、デマ(デマゴギーの略:政治的効果をねらって,意図的に流される虚偽の情報。悪宣伝。根拠・確証のないうわさ話。)が増えています。
 そのなかには、悪意をもたないまま流した情報が、結果としては悪意に満ちていた、という情報も増えているのでしょう。
 最近は、SNSでいかがわしい情報がたくさん流れています。流した本人は、それほどいかがわしいとは思っていないようですが。
 むかしの商業の町の中には、「法律は最低限のマナーだ。商人としてのマナーは、もっと上のレベルでなければならない」とされていました。SNSには、まだマナーといったものが出来てきていないようです。その結果、精神的にダメージを受ける人も少なからずいるのでは、と気になります!

知識を理解し、自分なりに使えて!

 知識を生きて使うには、どうしたらよいのでしょう。
 知識を使う場合、その多くは本などから仕入れた知識を、それが該当する場面で使います。
 しかし、知識の原点は、何かしらの経験がをもとにして造られています。その経験まで学んでいたら、多くの知識は手に入りません。その結果、楽をしてか、経験なしの知識をどんどん貯めてしまいます。
 昨今のOA化・情報革新の時代では、もとになる経験などしている暇はありません。急激な情報革新のため、人間の脳内分泌物も、まだ情報化社会に適した分泌(情報に対する免疫)もまだ出来ていません。それが原因かどうかわかりませんが、異常な犯罪が増えてきていますね!

読書が成長と結びつかない!

 読書は「思い込み」という視点から見ると、「思い込み」をより強くするという一面があるようです。スペシャリストになるには効果的なのですが、その分野以外は見向きもしなくなりやすいようです。
 安定した社会ではそれで良いのですが、変化の時代になると、マイナスになってしまうことも起きてしまいます。
 いろいろなものを見るとき、知識があると見逃さないという面も多くあるのですが、逆に知識がある面しか見ない、という面もあります。いろいろな知識を習得した上で、その知識を状況に応じて忘れてしまうことができると良いのですが!

睡眠がうまく取れない!

 寝ながら「考え事」ができれば、良いアイデアが生まれやすいようです。
 ある時期、起きているとき「どうすれば出来るだろうか?」と考え、夜になり寝てしまいました。その夜の明け方、ふっと解決策が浮かんだことが何回かありました。
 起きているときに考え事をすると、自分の思い込みが邪魔をして、なかなかよいアイディアが浮かびません。そんなときは、寝てしまいましょう。寝ている間に考え事ができ、アイディアが浮かぶようになると、昼間も気楽に過ごせるようになりますね!

人を助けるのが大好きな人がたくさんいます!

 「自由に考える」という習慣を、いつのまにか失っているのでは、と感じています。小学校から「テストで答えは一つ」という習慣がつき、マスコミでは専門家の解説がほとんどになり、専門家達は答えは一つ、と考えがちです。そんな情報ばかりが周りに溢れていると、自分が自由に考えたと想っても、他人の考えに支配されているのでしょう。
 日本以外では、「答えは一つ」しか正解がないのですが、日本では「あれも正しい」、「これも正しい」ということが許されています。一人の人が、お寺に行くのも良い、神社に行くのもいい、「曖昧」が許されているのです。
 だからこそ、いろいろな知識を自由に集め、その情報を組み合わせ、昨日考えていたことと、今日考えることは、違っても良いという自由があります。
 Aさんとは“こう”、Bさんとは“そう”と、それぞれの場面に応じて良い方法が選ぶことがある程度は許されています。
 ただし、その自由な対応の背後には、多くの知識があればあるほど、的確な対応になるのでしょう。いくつになっても、自分の得意分野以外の勉強も大事なのでしょうね!

記憶力アップのテクニック!

 脳は、基本的には「楽をしたい」性質があるのでしょうか?
 頭脳を駆使している専門家ですら、自分の思い込みから、なかなか抜け出しにくいようです。
 例えば、最近問題にされている資源の再利用の考え方も、不要になったものをリサイクルして資源に戻せば良い、という考え方です。
 しかし、昭和30年代までの電化製品は、修理が比較的簡単にできる設計になっており、機能しなくなった部品のみ交換すれば、再利用が出来ました。
 いま行われているWindows11へのバージョンアップに対応できないノートパソコンは、ほとんどは部品交換で対応することができず、液晶も含め使えなくなります。しかし、リサイクル法があるからそれで良いとされています。年配者はそれでも「もったいない」と思います。
 日本の1960年前後の設計思想や生活スタイルの基本は、「もったいない」だったように思います。近未来、単に部品交換だけでなく、性能アップの部品交換ができるようになるとよいのですが(自作のパソコンは、いろいろ対応できるようですが)。
 記憶にしても、自分が溜め込んだ情報記憶も、新部品交換のようにして、情報を多彩に追加・入替、新しい発想ができるようにしたいものですね!

言葉の発達こそ感受性世界の入り口!

 むかしは「環境に適応する能力」が、最も重要な能力だったのでしょう。しかし、現在は言語による知識になっています。それも記憶力が重視されていました。
 最近は、言語による知識には変わりありませんが、ネット検索やデータベースによる知識になってきました。
 その結果、情報を組み合わせながら、より深い知識、固定観念を打ち破る知識などにシフトしつつあるようです。
 しかし、情報を組み合わせ活用するために必要とされる能力は、言葉と同時に、環境に適応するために養った経験なのでしょう。子供時代に多くの大人と接した体験、自然の中で遊んだ経験などが大切になるのでしょう。
 ところで日本語は抽象的な能力を身につけることに適しているのでしょう。似たような言葉がたくさんあり、また、同じ言葉でも、意味が異なっていたり、また、例えば「ニオイ」でデータベースを検索すると、「……において……」などが出てきて、もとの「臭い」とはまったく違った発想にたどり着いたりします!

自分にとって都合のいい情報!

 情報が溢れている時代になっています。情報の受け手には二つのタイプがあります。「外部統制型」と「内部統制型」です。
 情報を受け取るとき、どちらかというと「結論中心」に受け取る人と、「データ中心」に受け取る人がいます。
 結論中心であれ、データ中心であれ、自分の思い込みをベースとして情報を受け取るのですが、データ中心の方のほうが、思い込みから抜け出すチャンスが少し多いように感じます。
 結論は、「白」か「黒」だけでなく。白に近いグレー、黒に近いグレーもあるので、結論を一つに絞るには注意が必要です。歴史的にも、信じられていた原則が変わった例はたくさんありますね!

脳の中の記憶は彫刻のようなもの!

 脳内の記憶の蓄積が大事とされ、今の学校の成績評価がされてきました。しかし敷実態は一時的な記憶でのテストの点数が評価の基礎になってきました。そのためか情報の蓄積は、体験ではなく、教科者や書籍を中心とした言語による蓄積になっています。
 ネット社会が普及して、いままで本などから蓄積したデータに優位性がなくなってきており、体験などによる蓄積が復活してくるのでしょうか。ここで気をつけなければならないのが、先入観があると、せっかく体験しても、そこから吸収できる情報が狭くなってしまいます。素直な目で、ありのままの情報を蓄積したいものです!