愛川 八菅の七社権現とも呼ばれた「八菅神社」

 八菅山一帯は古くから、神仏混淆の信仰の聖地でした。日本武尊、役小角、行基などの来山が伝わっています。また、源頼朝や足利尊氏・持氏による堂社建築や整備が行われたといわれています。永正年間(1504~1521)の兵火による荒廃後、天文10年(1541)に遠山甲斐守綱景が社殿を再建。
 貞享4年(1687)京都聖護院の直末寺となり、本山派修験の一拠点となりました。回峰修業は春と秋に、八菅山と大山の間の峰々で行われていました。山内には七社権現と別当光勝寺の伽藍の他、五十余の院・坊がありましたが、明治時代の神仏分離令により光勝寺は廃され、七村権現は八菅神社と改称、今日に至っています。

習慣的な質問を変えることは!

 「習慣」というと、行動を指すことが多いですね。しかし、「考え方」にも習慣があるのですね。育った家庭、育った場所の風土、受けた教育などから、いつの間にか考え方にも習慣が出来てしまっているのですね。習慣的な考え方を変えていくには、異なった風土で生活したり、自分にとって雑多な知識と思うものに、触れていくしかないのでしょうね!

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。

二兎を追うものは二兎を得る!

 昔から瀬戸内では二兎を追っていました。「半農半漁」といい、農業と漁業を並行してやっていました。瀬戸内は夏には水不足が起きやすく、農産物の収穫が不安定です。そのため、海が豊かなため平行して漁業もやり、食糧の確保を行っていました。現在、新コロナの伝染で社会が不安定です。1つの収入源だけに頼っていては不安定な人もおられるでしょう。リスクが大きくなっている社会では、二兎を追うことも場合によっては必要です!

鎌倉 平家一族の五氏の霊を祀る「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

生きる力や意欲は家庭教育で!

 学校での子供の評価が、テストの点数中心主義になって、三世代ほど経過してきました。その結果、正しいことは一つという、点数主義が社会に定着してしまいました。ホモサピエンスが生き延びていくためには多様性が必要です。正しいことは一つ、という点数を重視する教育がどの程度役立っているのか、充分な検証はされていません。ただ、社会環境や自然環境の変化に対応していくのは、偶然の結果とすれば、それほど考える必要はないのかも知れませんね!

尾道 幕末の頃「拳骨和尚」がいた「済法寺」

 1753年広島国奉寺11世笑堂の開基と言われています。境内の山中の岩には釈迦や十六羅漢像など二十六尊者の石仏が刻まれています。
 またこの寺の9世物外(もつがい)不遷は「柔術不遷流」の開祖で多くの弟子を抱え、晩年は幕末動乱の中、平和を願い奔走し旅中に果てました。武術の他にも多くの俳句や書画を残し「拳骨和尚」として親しまれています。

苦しいとき、生き残れない!

 新コロナウィルスの流行で、ビジネスを変えなければいけない分野が出てきています。現状維持が出来るかどうか? 素早い判断が必要な時期です。みんなが撤退する分野で生き残るか、同じ仕事で別の方法や地域に移るか、新規分野に進出するか、事業を休止して待つか、それが見分けられる人に成功のチャンスがあるのでしょう。何年か後に結論が見えてくるのでしょうが、現状の変化に素早く適応して行けるかどうか、なのでしょう!

鎌倉 双六勝負の形勢逆転した地蔵菩薩「延命寺」

 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。
 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。

「人を見て法を説く」という!

 相手を説得するとき、男性は理屈で説得しようとします。しかし、理屈は万国共通ではありません。宗教によって異なる場合もあります。例えばユダヤ教やキリスト教文化の地域では、人間の祖先はアダムとイブで、類人猿ではありません。「猿から進化した」は成立しません。大原則ですらこのようなのですから、細かい部分では、地域によって異なることもかなりあるのでしょう。理屈に比べれば、「笑顔」は世界共通なのでしょう!

厚木 イチョウの古木が残る「荻野神社」

 荻野神社は、かっては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
 「イチョウ」も「ギンナン」も、漢字では「銀杏」と書く。この植物は1億5千万年以上も前から存在し、「生きた化石」と呼ばれている。氷河期のあいだ、比較的温暖だった中国大陸の中部地域で生き残った銀杏が、現在各地にある銀杏の祖先となったとされています。

人に好感を与えるための基本!

 特定の要件で人と会うときには、服装の色に注意が必要です。表情や顔つきでも判断しているのですが、第一印象は、どうも服装の「色」のようです。そのためか、夢に色が出てきて、その色がバランスが崩れていた場合は注意が必要とのことです、その次に表情、「笑顔」のようです。笑顔は口元も大事ですが、目がほほえんでいるかどうか、これがやはり大事なようです!

福山 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。

 現在の社殿は大正3年に建立されたもので、平成13年に修復されています。

古代中国の五行思想では決まった色がある!

 古代より「色」で権威づけをしていたということは、やはり人間は「色」に何らかの価値を感じていたのですね。地域によって色に対する感覚は違うようです。例えば、虹の色は国によって2色から8色あるようです。行事や色に対する権威づけなども、地域によっていろいろあるようですね。色に対する感覚を、自然に接する中で鍛えていかないといけませんね!

鎌倉 浄土、真言、華厳、律の兼学の寺「浄光明寺」

 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。

「心が落ち着く」という色!

 現代は、知識教育に主眼が置かれいるためか、言葉が心に影響を与えていると思っています。しかし、ポスターや映画、テレビ、美術館など、色合いが心に影響していることも多くあります。人類は言葉がなかった時代が圧倒的に長かった。その中でなんとか生き残ってきました。生き残りの手段として、形とともに「色」が大きく影響していたのでしょう!

尾道 文人たちが集まった橋本家庭園「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

心は「色」でコントロールされる!

 ポスターや雑誌、テレビなど、人に対する色の影響は大きいのですね。昆虫などは花の色で、食べ物を見分け、生存しています。人も、食べ物が腐っているかどうか、色とにおいで見分けています。もっとも最近は「賞味期限」で見分けるようになってきています。しかし、人間にとっても、他の動物にとっても、色は生命保存のための大きな要素の一つだったのでしょう!

福山 鞆  加藤清正公ゆかりの「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

プラス思考に陽転させる!

 落ち込んだとき、言葉で考えると、マイナスの回転が始まり、どんどん深く落ち込んでしまいます。そんな経験を何回か重ねると、深く落ち込んだある瞬間に、「無」になる瞬間が訪れてくることがあります。そんな経験を何回か重ねるうちに、いつしか、深く落ち込むことがなくなってきます。そして、事実は事実として記憶し、感情は過去に置いてくるようになります。そこまで行くと楽になってくるのですが!