帰命山 延命寺(浄土宗)
鎌倉市材木座1-1-3  標高 4.7m
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 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。

 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。

 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。

[文献]『市史』社寺編

 
 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。

 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。

1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。

 赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。

 堂内拝観は事前申し込みが必要。

 境内:無料 
 鎌倉時代の執権北条時頼(ほうじょうときより)の夫人が建てたと伝えられています。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)で、浄土宗の高僧の一人です。公開されていませんが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、本堂の正面にまつられ、右側に観音像(かんのんぞう)や阿弥陀三尊像(あみださんぞん
ぞう)、左側に地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。こここにまつられている地蔵像は「身代(みがわ)り地蔵」といい、時頼夫人が日頃信仰していたと伝えられる仏様です。
 寺の伝えでは、運慶(うんけい)の作といわれますが、あきらかではありません。この像は生きている仏


に会いたいという信仰から、裸の姿で作られていて、ふだんは衣服を着せてあります。

 鎌倉時代には信仰上、写実的な裸形仏像彫刻が作られました。鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の弁財天(べんざいてん)、手広の青蓮寺(せいれんじ)の鎖大師像(くさりたいしぞう)やこの延命寺の地蔵もその一つです。たいへん珍しいうえに、この地蔵の呼び名について北条時頼夫人にまつわる次のような話が残っています。
 ある日、時頼夫妻が当時行われていた双六盤(すごろくばん)をつかった双六の勝負で、負けた
えにちなんで、いまも双六盤の上に安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 本尊阿弥陀如来像は、運慶が、圓應寺の閻魔大王像を刻んだ余りの木で造ったという言い伝えから「木余りの像」ともいわれている。
方が一枚ずつ着物を脱ぐという賭(か)けをしました。この勝負で夫人のほうが負けそうになり、進退(しんたい)きわまって困った夫人が、心の中で日頃信仰しているお地蔵さまに一心に祈ったところ、不思議なことに裸のお地蔵さまが双六盤の上に立ちあらわれて夫人を救ったといわれています。
 それ以来、自分の身代りになって苦しい立場を助けてくださったお地蔵さまということで、時頼夫人は守り地蔵として一層深く信仰したそうです。なお、時頼の相手をしたのは、実は侍女(じじょ)の桂(かつら)で、延命寺も建てたという説もあります。
 世間の人々も身代り地蔵さまといって敬い、言い伝










 本堂裏手墓地に「古狸塚(こりづか)」という碑があります。江戸時代の終りごろ、この寺に住みついた狸がよく人に慣れていて、酒好きな和尚のために酒を買いに行ったりして、町の人からも可愛いがられていたといいます。 1849年(嘉永2年)、狸が死ぬと葬って墓を造り、供養したと伝えられています。
狸の墓というのは珍しいものです

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


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