尾道 瀬戸田「耕三寺 千仏洞地獄峡」

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 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

老人ばかりの国になると!

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 日本は移民を嫌う国民社会ですが、DNAを調べれば、本人の祖先は、ほとんど移民をしてきた人たちでしょう。朝鮮半島や中国の支配者が変わる都度、敗者側の人たちが日本に渡ってきました。平安時代には、もともと日本にいた人たちの人口を、大きく上回ったのでしょう。そして、日本の風土の中で、いろいろな文化や技術が融合し、現在に至っているのでしょう。欧米より、ずっと古い時代の移民政政策がもたらした結果ですね!

信望を寄せてくれるマネジャー!

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 パワハラ問題が注目されています。同じようなことを行っても、パワハラとは受け取られないこともあります。上司あるいは指導者が、自分の思い込みや自己満足で指導してしまうと、パワハラとして受け取られるようです。相手(指導される側)が、自分のために一生懸命に指導してくれている、と感じると、名指導者・名コーチとして評価されます。指導する側が、自分を捨て、事実(現在の状況)のみに目を向けることが、出来るかどうかですね!


尾道 鐘楼の横を入って行くと「正授院」

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 中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

失敗した時に笑える人間こそ!

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 笑いは、臨機応変に対応できる源でもあるのですね。それに、免疫力を高めるという効果もあるといいます。対外的にも、対内的にも、笑いは多くの効果を生み出しているようです。しかめっ面で、全力を出し切り、もう動けません、といったものは、間違いという時代になったのですね!

鎌倉 白鹿が人びとにまじって聴聞した「円覚寺」

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 寺名・寺地ははじめ時宗と蘭渓,道隆によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。


「ありがとう」「感謝する」というあり方!

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 エネルギーを持って生きていくためには、自分に余剰が出たら、できる限りの他人に還元することで、エネルギーが生まれてくるのでしょう。自分、自分では、たいしたエネルギーにはならないのでしょう。他人に感謝し、余力があれば還元する、その繰り返しが充実した人生につながるのでしょう!


鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

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 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。


言葉は、頭の整理が大事!

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 メールなどの文字での連絡が多くなってくると、視線を感じ、読み取る力が弱くなっていくのでしょうか? 言葉を身につけていない赤ちゃんの時代は、コミュニケーションの多くは、目で見ることが中心なのでしょう。それが言葉中心になり、そして人間というものが分かってくると、また言葉では表していないものを、感じ取ることが重要だと気づきます!


福山 鞆 朝鮮通信使が宿泊した「福善寺対潮楼」

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朝鮮通信使、福禅寺で安らぐ
 朝鮮通信使は、江戸時代、将軍の代替りごとに朝鮮国王から派遣された祝賀使節で、1607年から1811年までに12回(うち1回は対馬まで)日本に来ました。
「福禅寺」境内の本堂に隣接する客殿は、「対潮楼(たいちょうろう)」と呼ばれています。水道を挟んで仙酔島・弁天島に対面するこの客殿座敷からの景色は素晴らしく、ここを宿所とした朝鮮通信使との交流でも有名です。

「不思議?」を追いかける!

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 まず「不思議?」と思う姿勢を、どのようにして保持するか。まず、知識を母体とする「思い込み」が強いと、不思議が浮かんできません。知識というものは、まず、体験があり、その後に知識を得た場合は、なにか疑問を感じたとき、その知識を疑うことが出来ます。しかし、知識だけの場合は、それが思い込みになり、その知識以外の情報は、見えなくなってきます。知的生活が狭いものになっていきます!

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

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 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。


「年の功」はもう不要になったのか?

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 むかしの人は、年寄りの健康年齢を延ばす知恵があったのですね。「カミナリ親父」とか「口うるさいばあさん」として、社会への出番を用意し、いつも周囲に注意を払う状態環境を作り、頭の老化を防ぐ工夫をし、健康年齢を引き延ばしていたのですね!


福山 鞆 戦国時代以前は島であった「圓福寺」

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 「大可島(たいがしま)」山頂からは、足下に従える鞆の街と港を除いて、遠く四国に至るまでの瀬戸内と島々の広がりを一望することができます。ここに砦を築けば、目の前の瀬戸内の往来のすべてに睨(にら)みをきかせることが可能になります。
大可島城は、鎌倉末期から南北朝期に築かれたといわれています。現在では陸続きとなっていますが、当時は鞆の街との間も水道で分かたれていて、文字通り「大可島」という島でした。

リタイア後の生き方

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 AIの分析によると、健康寿命に「本」が関係しているとのこと。本は、固定観念(頭の老化)を防ぐのでしょうか? いろいろな本を読み、それに関連する情報や場所をさがし、なにかしらの発見があると、健康寿命が延びるのでしょうか。情報をいろいろと組み合わせるホームページを作っていると、確かに思い込みはなくなっていきますね!


鎌倉 葛原ヶ岡で処刑された「日野俊基朝臣の墓」

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 日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
 この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
 後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。

泥沼から救い出してくれる人!

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 解決方法が見つからないための膠着状態は、視点を変えた思考がないと、なかなか脱出できません。膠着の原因は、いわゆる「思い込み」なのでしょう。同じ企業、同じ業界に長くいると、「思い込み」が住みついてしまいます。この「思い込み」は、がん細胞のように増殖していきますね!


鎌倉 桓武平氏の先祖を祀っている「八坂神社」

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 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもの。かっては相馬天王と称した。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立した。


質のよい水とは!

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 人口の増加による食糧不足が問題とされていますが、水の不足問題はないのでしょうか? 日本は雨は比較的多いのですが、すぐ海に流れてしまいます。ダムがあるので水を供給できていますが、地震や豪雨でダムが決壊したとき、水の供給は追いつかなくなりますね!