1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。
三浦大介は、源頼朝の挙兵の際に尽力し、石橋山の合戦に敗れた頼朝のもとに一族をむかわせ、みずからは衣笠城にとどまり平家方を迎え撃ち、畠山重忠の軍勢と戦い89才で戦死した三浦の豪族。
この当時の武士の死生観は、今の日本人には理解の範囲外ですね。しかし、六十数年前の太平洋戦争までは、理解できる人もいたのでしょう。
お寺の横から裏に回ると、三浦家の家来衆のお墓があります。
開:9:30~16:30(冬季16:00) 休:無休 境内:無料。
「石橋山の戦い」
平氏方の伊豆国の目代・山木兼隆を急襲し、頼朝は伊豆国の実権を握る。しかし、治承四年(1180)9月23日の朝、石橋山に陣を張った頼朝軍(約300騎)は平氏方の軍に挟まれてしまう。この劣勢の頼朝を助けたのが、援軍としてやってきた三浦一族だった。しかし、圧倒的な兵力の差によって、頼朝は敗走。これが石橋山の戦い。三浦義明がその後戦死することになるきっかけの戦いだった。