日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。
「葛原岡神社、日野俊基朝臣の墓が建てられた背景」
室町時代から天皇家は北朝の流れが続き、南朝の天皇の手から政権を収奪したまま、幕末まで至ります。そして明治維新が起こるのですが、この維新も幕府を倒して実現した王政復古です。
いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
長きにわたり北朝が帝位についているのは、大名が日本の政府を聾断(ろうだん)したからであり、理念からは正統な「南朝」に政権をお戻しすることこそ国の基を正す道である、と考えました。
これほどの深く、かつ生々しい思想・理念の大闘争が、明治維新の本質なのです。
俊基は、鎌倉時代も終わりの北条高時(ほうじょうたかとき)が幕府の実権をにぎっていたころ、後醍醐(ごだいご)天皇を助けて、鎌倉幕府を倒そうとした公家の一人です。幕府を倒そうとした計画がもれて京都で捕えられ、一度は言いわけができて許されましたが、後に再び捕まり、鎌倉に送られ、とうとうこの葛原岡で切られることになりました。俊基の妻は家来の後藤左(ごとうさ)衛門尉助光(えもんのじょうすけみつ)に手紙を持たせ、ひそかに鎌倉によこしました。助光は鎌倉に着いてなんとかして主人俊基に会って手紙を渡そうとしましたが、幕府
義賛の大軍がこの岡も突破し、鎌倉に攻め込みました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
の警戒がきびしく、その願いはなかなか果たせませんでした。1332年(元弘2年)の6月、いよいよ俊基は切られることになり、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、助光は乗り物近くに駈け寄り、警護の侍に「主人に一目会わせてください。」と涙ながらに願い出ました。その真心に動かされて武士達は
この助光の願いを許しました。そこで助光は俊基に妻からの手紙を渡すことができたといわれれます。
「秋をまたで 葛原岡に 消ゆる身の 露のうらみや 世に残るらん」という歌を残して、俊基はついにこの岡の露と消えました。
その翌年の1333年(元弘3年) 5月には、薪田
「日野俊基(ひのとしもと)の墓」といわれる宝篋印塔(国史跡)が、石垣に囲まれて立っています。
葛原岡(くずはらがおか)
化粧坂山上北側の原野地をいう。現在は鎌倉市営の源氏山公園の一部となっている。元徳元年(1329)五月二十日に南朝方の公卿日野俊基が斬られた地として名高い。
俊基の墓は国指定の史跡となっており、卿の霊を祀る葛原岡神社が建てられている。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
[文献]『太平記』(「古典大系」)、
『鎌倉誌』(地誌大系)