八坂大神ともいう。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。
相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもので、かっては相馬天王と称しました。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人です。
銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立しました。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は「古事記」では、伊邪那岐(いざなぎ)命のみの子とされていますが、「日本書紀」では、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の間に生まれたとされています。
天照大神の弟。その凶暴さによって地上また高天原を追放され、根の堅州国、或いは根の国の主神となり、その途次、出雲国にて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治、稲田姫と結婚して宮(神のいる御殿)を営みました。
また子とともに新羅に渡り、日本に植林法を伝えたという別伝もあります(「日本書紀」一書)。暴風神・農業神・英雄神など多面的な神とされています。
道路脇の小川を渡ると石の鳥居がありへ左右の石灯籠(いしどうろう)のそばに、2本のタブの木が枝を広げています。社殿前の狛犬(こまいぬ)のそばに、枝をとり払ったけやきの根本が残っています。
江戸時代に社殿を改め、場所も変わってきたということです。拝殿前に社殿の土地を寄進した人の記名碑
が建っています。
八坂大神(やさかだいじん)は、扇ガ谷(おおぎがやつ)の鎮守(ちんじゅ)の神で、昔は相馬天王といい、相馬師常(もろつね)が移してまつった京都の八坂神社の神と、相馬師常をまつっていました。師常は頼朝(よ
りとも)挙兵の際、父と共に頼朝を助けた人で、このあたりに住んでいたといわれます。明治以後は八坂大神と改め、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・桓武天皇(かんむてんのう)・葛原親王(くずはらしんのう)・高望王(たかもちのおう)としました。
祭礼は7月5日~12日です。
昔、神輿(みこし)は京都の八坂神社の神輿をまねた鉄製六角形のもので、神社を出ると、荒々しく血を見ないでは収まらないというものでした。そこで神輿を師常の墓の近くにうずめ、木製のものを造りましたが、関東大震災で壊れたので、
1927年(昭和2年)に今のものが造られました。祭りの初めの日に、氏子は由比ゲ浜で身を清め、カジメという海草をとってきて、鳥居や神霊を安置した「お仮屋(かりや)」に飾る慣(なら)わしがあります。
なお、銭洗い弁天は八坂大神の末社でした。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より