相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」

 縄文時代は、約15,000年前~約2,300年まで続いた時代です。勝坂遺跡で縄文時代の集落が栄えていたのは約5,000年前の縄文時代中期と呼ばれる頃でした。
 縄文時代の人々は、狩りをした動物の肉や、集めた木の実などを食料にして生活し、それらの調理には土器が使われたため、遺跡からは破片となった多量の土器が出土します。
 また、勝城遺跡の西を流れる鳩川沿いの谷からは、当時の地層からクリの花粉が見つかっており、大事に育てられたクリが、食料、建築材などとして利用されていた可能性があります。
 縄文人たちは、自然の循環を乱すことは人間の破滅につながることをよく知っていたようです。生の水を飲むことができる日本では、森林を伐採して水を湧かす必要がいりません。
 ところで、文明はエネルギーを、技術の発展と共に大量に使うようになりました。中国の黄河流域ではなどでは、古代、木材を燃料として消費、森林がなくなり、植林をする文化もなく、今では黄砂を大量にばら撒いています。

 石油は、どうなるのでしょうか?

自分の個人的な経験を重視すると!

 同じ分野の仕事が続いてしまうと、考え方も狭くなってしまいます。
 そのためか、昔は定期的な移動がありました。移動すると、別の種類の情報が入り、考え方・見方も変化する可能性が広がります。
 確かに、専門分野だけに従事し、歳をとってしまうと、考え方が狭くなっている人を見掛けます。
 現在は専門家指向のようです。起業にとっては効率的になるのでしょうが、歳ととってしまうと、人付き合いが大変にならないといいのですが!

鎌倉 源氏の白旗を立て戦勝を祈願「源氏山公園」

 今は公園として整備され、上天気の日曜などは大賑わいの葛原岡、源氏山一帯も有史以前の一時期は狩猟・漁携を生活手段とする放浪性原始人たちが出没したらしく、縄文式土器や石斧や黒曜石の石鉱などが葛原岡神社の鳥居の傍から出土していることが鎌倉市史考古編に見えている。
 将棋の升田九段を思わせる髭面の男が怪しげな鹿皮服で丸木弓か梶棒か何か持って、この辺個していたらしい。陸地は今より低く、入江はすぐ足元の笹目や扇ケ谷まで入り込んでいたから、海の幸にも恵まれた、絶好の野営地だったわけである。

(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」  長峰五幸著  発行:光村印刷株式会社)

辛い食べ物がブームの現在、辛そうな赤色でデザインが盛ん!

 今回の石油ショックは、物価高だけでなく商品を包むデザインにも影響だ出てくるようです。
 以前は商品の特徴をどのように表現するかがテーマでしたが、これからは、デザイン担当をする人は、やっかいな時代に入るようですね。
 発想を変えることは、今までの経験が意味を持たなくなります。
 新たな感覚を磨いていくことしかないのでしょうね。
 新食感、新しい感覚を磨くことに役立つのでしょうね!

税を払う側が善良や従順であるとは限らない!

 税の徴収が、「コメ」から「銭」になるといろいろなメリットが出てきます。
 田んぼのそばに、豆を植え、それを売れば税金を納めることもできます。また、コメを収穫した後に、その後でも育つ農作物を植えれば、それを売却できます。冬には内職もできます。
 戦で傭兵として活動もできます。
 貨幣は農作物の多角化や職の多角化に貢献したのでしょうね!

尾道 室町時代の様式の特徴をとどめる「西郷寺」

バス停{坊地口」から図書館の横と通り「西郷寺」に行く途中に

【伝説 水之庵と荒木村重】

 「むかし、薬師如来さまのおかげで、この庵のそばにお湯がわき出たといい伝えられています。また庵の下には、薬師水という霊水のわく井戸があり、その水につかると病気が治ると信じられていました」
 水之庵は文和四年(1355年)に創建され江戸初期に西郷寺の末寺の一つ薬師院水之庵と号しました。
 水之庵には次のようないい伝えがあります。
 戦国時代、武将として数奇な運命をたどった摂津の豪勇荒木村重(1535~1586)は、織田信長に反逆心をいだき、配下をぬけ、居城を捨てて、安芸の毛利氏をたよって備後に下り、尾道に隠れ住んだといわれています。村重は尾道に二、三年隠れていましたが、この水之庵に居住し、清水のわく井戸で茶の湯をたしなんだそうです。
 村重は茶道への志深く、その道の要人とされ、信長没後、豊臣秀吉に茶道で仕えたといわれています。
 水之庵井戸跡は現在図書館になっています。

尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載

2026年6月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : risetu

梅雨時「ずいぶん蒸しますね」でとどめておいたほうが!

 何気ない話しが、誰とでもできるといいですね。
 昔の喫茶やバーなどは、そんな雰囲気がかなりありました。
 意識はしていませんが、情報収集なのでしょうか?
 現在は、NETで大量の情報が提供され、しかもAIでうまく編集された情報が提供される時代になっています。

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭もある「光則寺」

 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

[文化財]海棠(かいどう)の巨木が本堂前にある。本堂内に祀るのは、万治四年(1661)銘の木造日蓮坐像、寛文十二年(1673)伝日朗入牢七人衆像、天保十五年(1844)彩色修補の大梅院尼像など。   (「鎌倉事典」より)

忙しい中で時間をつくり出す!

 「時間がない」と思うことはありますね。NETが簡単いつ帰ると、よけいに時間がなくなります。
 時間の使い方、これは、何をやるかの優先順位のつけ方ですね。優先順位を付けないまま、つい、時間と使ってしまいます。
 特に、NETでの検索では、検索者の傾向にあった情報を提供してくれます。そんため、つい時間を使ってしまいます。
 改めて、自分の思い込みを捨て(先入観を捨て、身につけた知識を捨て)、事実をありのまま観察し、対応できれば、優先順位にそった時間の使い方ができるのでしょうね!

福山 鞆 石山合戦に参加した「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。

 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。 「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。

 石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。

黒点が増えると地球は暖かくなる!

 太陽に見える「黒点」は11年秋季で増減しているそうです。黒点が出来ると周囲と2000度も温度が低くなるそうです。
 地球にも産業革命による温暖化以外にも、気温の変動があるようですが、かなり長期間で起きているようです。
 縄文時代は数メートルに及ぶ海面の上下があったそうです。そのためか西日本に縄文遺跡がないのは、暑くて暮らしにくかったのでしょうか?
 また、寒冷化で中国の黄河流域の人達が揚子江側に南下し、揚子江側の人たちと争いになり、負けた揚子江側の人達が日本に来たのでしょうか、それで稲作が日本に伝わったのでしょうね!

尾道 尾道随一の名水“延命水”の「正念寺」

 天井絵は、民衆からの奉納も多く、豪商との差別もなく、江戸時代に尾道は、比較的平等な社会を築いていたのでしょう。
 武士は人口の1%位しかいなく、主に商人が町を治めていたようです。

 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。

 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。

縄文時代の日本人の平均寿命は15歳ほど?

 「寿命」というものを、どのように捉えるか、なんとなく長ければ良いと思っていました。
 歴史上は、やはり「長寿」を目指していました。現在もそうですね。
 長寿は、病気も増えてきます。もともと人類は長寿になるような設計になっていないのでしょうか?
 現在は、設計変更で長寿を目指す技術開発を目指しているようです。それが正解なのでしょうか?

鎌倉 足利尊氏が後醍醐天皇への挙兵決意「浄光明寺」

 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。

なぜ同じ店で!? 「本屋+カフェ」「家具屋+洋服店」……!

 「意外な組み合わせ」、いわゆる異業種の組み合わせでビジネスをすることが、活力を生む時代が定着するのでしょか。
 以前は、専門技術を深めることを追求してきました。異業種への進出と行っても、その専門技術を使ったものでした。
 まったく関係がない業種に進出することは、考えられませんでした。
 しかし、消費者目線で見ると、現在の消費者は、移動距離をできるだけ少なくして買い物をしたい、という状況になっています。
 ガソリン高騰でより移動距離を少なくしたいのです。
 異業種の組み合わせも、変わるのでしょうね!

厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

自然の循環と再生産の流れの中で生きていた縄文人!

 人間を生物として考えた場合、「身の丈に合った暮らし方」は、どんな暮らし方なのでしょうか?
 そのような視点に立つと、現在の社会の動きに疑問が湧いてきます。
 AIに疑問が湧く現在、というより、便利さを求めてきた社会、特に産業革命以降の人間社会、疑問が湧いてきます。
 昔は、歩くこと(1日20~30km)はそれほどのことではなかったのですが、今は、その10分の1位になってしまいました。
 AIも頭の働きを10分の1位にしてしまうのでしょうか?
 人間か「進歩」として考えてきたことは、人類の滅亡を促すことにならないのでしょうか?

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

 土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
 勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
 帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
 その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。

この世でもっとも恐ろしいものは「人間」!

 いつの世でも戦争がありますね。しかも技術の発展と共に深刻化しています。
 現代は、「人間が楽になるため」の技術発展です。
 縄文時代は自然適応のための技術発展だったのでしょう。そのために、からだを使っていました。
 でも、からだを動かさないことを目的(しかもAIは頭も使わないための技術)になっています。
 人類の生存に良いのでしょうか?
 技術発展は、人類飲滅亡のための技術なのでしょうか?

鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」

 「長谷観音」とか、ただ「観音堂」の名で親しまれてきた長谷寺。「アジサイ寺」として知られています。正式には海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)長谷寺と号し、浄土宗系の単立寺院です。
 長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。長谷寺の始まりは、奈良時代の736年(天平8年)であろうと伝えられていますが、はっきりとはわかりません。ただ、長谷寺に伝わっている大きな梵鐘(ぼんしょう)にT文永元年」(1264年)の年号があることから、鎌倉時代には栄えていたといえまず。