米は、精製されると毒性が強くなる!

 米の値上がりで、米を食べる回数が1日三食から一食になりました。その一食も玄米を食べるようになりました。
 「お米券」が配られると、お米が三食に戻るのでしょうか? おそらく戻らないでしょうね。
 むかし庶民はお米を食べていなかったようです。そのためか、日清戦争で陸軍は兵隊にお米を食べさせることで、兵隊さんを集めたようです(結果として、脚気で亡くなる人が増えましたが)。
 お米をあまり食べない民族もいますし、他の食材より安くならないと、庶民の食卓より消えていく方向になってしまう可能性もありようです!

尾道 江戸時代、港の中心地「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。
 尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。
 さらなる港の活性化に伴い、船の繋留地と荷揚場が必要となり、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門が任命されます。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造します。そして、完成した後には、商人たちの信仰厚い海上守護神であり、浄土寺境内にあった住吉神社をこの埋立地に安置しています。

水というのは塩分の薄い方から濃い方へと移動する!

 地球の温暖化が問題になっています。しかし、温暖化により氷山が融け、海の塩分濃度が薄くなることはそれほど報道されません。
 瀬戸内海では、流入する川の水がキレイになり過ぎ、貝類に影響が出ています。
 海水の塩分濃度の変化も、何かしら生物に影響があるのでしょうね?

北条義時法華堂跡、大江広元の墓

 大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
 発掘調査の結果、ここには北条義蒔(よしとき)の法華堂があったことが確認され、国の史跡となりました。義時は北条時政(ときまさ)の子で、鎌倉幕府の執権た。
 法華堂跡の奥の左側にやぐらがあり、中に五輪塔がならんでいます。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。
 やぐらの先に鳥居があり、その奥には二列になった石段があります。鳥居をくぐり、石段を上りつめると、石垣に囲まれた中に、古墳時代の末期にみられる横穴墓を改装したやぐらが三つ並んでいます。左側が、大江広元(おおえひろもと)の子で、後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる毛利季光(すえみつ)の墓といわれます。

ほめ言葉を効果的に使うと!

 さりげなく「ほめる」、日常的に「ほめる」などは、子どもの成長だけでなく、大人でも有効なのです。
 しかし、ほめるには、ほめる側に知識や人を見る目が必要ですね。これがやっかいなので、なかなか人をほめることは難しいですね。
 ただ、「人を非難すること」は誰にでも出来ることですが、「人を褒める」ことは、自分を卑下すると思ってしまうのか難しいですね。
 人を褒めることが出来る人は、立派な人なのでしょうね!

厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」

 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
 天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。

80対20の比率で、ほとんどの事象が説明できる!

 「80対20の比率で、ほとんどの事象が説明できる」と以前から言われています。実際に80対20を確かめたことはないのですが、ほぼそんな漢字はします。
 ただ最近はNET情報が多くなり、情報検索した人に沿った情報に絞られるため、現実が80対20であっても、情報検索すると、98%(?)位は情報検索者の意向に沿った情報になるようです。視野が狭くならないとよいのですが!

尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。

「効率」を求められ、「早く、早く」と!

 「効率」を求められ、「早く、早く」とせかされる社会になってしまいました。
 むかしの職人気質はどこにいってしまったのでしょうか。むかしは、「いかに良いものをつくるか」でした。時間より、「良さ」優先していました。
 後世に対しても、「良さ」を追求するあまり、最後の「一部分を未完成状態」にしておく(建物の柱の一本だけ上下を反対にしておくとか、50段の継ぎ目のない石段の1本だけを2本つなぎにしておくなど)といういう職人気質もありました。
 「早く、早く」を求められるためか、ネットなど自分一人の時間を求めるようになったのでしょうか?

鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。
 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。  大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

 敷地の広い住宅のようなお寺さんです。

大人になるにつれて「否定するチカラ」が強くなる!

 子供時代に五感を鍛え、できれば第六感まで身につくようになると良いですね。
 第六感まで育つと、「何となく危険」などを察知できるようになるのではないでしょうか。
 現代は知識優先の時代になっています。自分が知っている知識、自分が好む知識からでしか納得しません。
 感覚が優先していると、その状況に合った知識を受け入れます。その結果、大きな間違いはしなくなるようです!

尾道 瀬戸田 現代のお寺ビジネス「耕三寺」

 1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。

 このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。

千年の木は、柱になってもさらに千年、生きる!

 オーバーツーリズムで、京都や奈良の修学旅行が難しくなってきています。
 日本の古い木造建築を見るチャンスが失われています、しかし、京都や奈良以外にも古い木造建築があるのですが、なかなか集中した場所にはありません。
 鎌倉も神社仏閣は多いのですが、国宝の建物はあまりありません(観光客は増えているのですが)。
 大人になれば、少し離れていても、あちこち尋ねることが出来るのですが!

厚木 かって養蚕は生活を支えた「蚕影神社」

 かつて市内には 1,500 軒を超える養蚕農家があったそうです。 かっては養蚕はこの地域の生活を支えてきたのでしょう。
 現在はたったの数軒、隆盛を極めたかつての面影はないですね。

 1182年、飯山の金剛寺が起こした訴訟文書に「蚕養」の記事(『吾妻鏡』に載る)があるそうです。その内容は「金剛寺の僧侶等の申し出は、古庄の郷司近藤太が不当な行為をし、由緒のある山寺に雑務を課したり、山狩りや養蚕に使うこと等、みっともないことです。速やかに止める様に」といった内容で、頼朝様が花押を書いて認め、速やかに止める様に命令が出た、とのことです。

運転中などに、突然、強引に追い越しをかけられると!

 ドライブ中に、突然、強引に追い越しをかけられると、いい気はしません。
 ときどきバックミラーを見ていると、後ろの運転の仕方がわかります。バイクを乗っている人は、運転の仕方を見分けるのが慣れているようです。また、対応の仕方も分かるようです。
 バイクでドライブ中に疲れると、いつの間にか安全運転の車の後ろについて、のんびりとドライブします。
 そのような体験から、他車の運転の見分けができるようになるのでしょうか?

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場あった!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。
 また、水のみなもと芹沢公園でもありました。
 おいしい座間の水。この水のみなもとが芹沢公園近くに水源井(せい)として、掘られています。公園の西側には芹沢川が流れ、東側には水源涵養(かんよう)林があって広場・川・林とのコントラストが、見事です。起伏もあり散策コースとして、いろいろと楽しむことが出来ます。(座間市)
 座間市の水道は、以前は100%地下水でした。しかし人口の急増で1978年頃から一部(通常は15%ほど)を神奈川県企業庁から入水することになりました。
 地下水を供給する芹沢地域の水道(水源)施設
  第一水源井(計画取水量二万トン)
  第二水源井(計画取水量四千トン)
  栗原水源井(廃止。
 現在は見学施設)の三か所の水源井があり、第一水源と第二水源からの取水量は市営水道の一日給水量の約半分をまかなっており文字どおり市民の大きな水瓶地域となっています。

ダイエットのため、カロリーの摂取が減ると!

 食べるものを減らしても、体重があまり下がらない。また、元に戻すと急に体重が増えてしまう、こんな経験はありませんか?
 食べ物を減らすと、からだが栄養の節約態勢にはいるようです。また、食べるものを元に戻すと、節約態勢に入っているからだですので、栄養のオーバーになってしまうようです。
 ダイエットは、やはり運動しかないのでしょうね!

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依(きえ)し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵(しょうあん)を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺(はいじ)になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

相手に「意識の矢印」を向けて聴く!

 人の話を聞くとき、聞くだけでなく、つい自分が知っていることを話してしまうことがあります。
 相手に「意識の矢印」を向けるのではなく、自分に矢印を向けているのでしょうか。
 相手の気持ちや知識に「意識の矢印」を向けておきたいですね!

尾道 こんなところが「日比崎 竜王山石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)

 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。

 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。