顔の表情は感情の鑑!

 笑うと人間関係がよくなると同時に、自分の健康にもよいと言われています。
 大阪の笑いは、苦労する環境の中で、生き残るための笑いなのか、そんな気がしてきます。
 大阪の笑い、京都の言葉遣い、なんとはなく生き残るために生み出したような気もします。
 しかし、対人関係では、笑いは大事な機能なのですね!

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 1603年、徳川家康の重臣であった内藤清成(きよしげ)が実父竹田宗仲の菩提のために鎌倉岩瀬の大長寺第4世・源栄上人を開山として創建。
 
  内藤清成は当時、大島・田名・当麻・磯部・新戸の各地域を治める領主であったが、家康の三河以来の家臣で2代将軍秀忠の守役を命ぜられていたこともあり、家康公が存命中の鷹狩りの際にはここに立ち寄ったとされるほか、1617年、家康公の霊柩が久能山から日光へ遷御される際には、一行がこの場所で休息をとったといわれている。

夏の暑い日は体温と同じくらいまで気温が上昇!

 熱中症の季節ですね。熱中症にかかる人は、その人の置かれた環境の違いだけなのでしょうか?
 同じ環境にいても、熱中症にかかる人・かからない人の差はどこにあるのでしょうか?
 温暖化が進む地球、熱中症にかかりにくい人が生き残っていくのでしょうね。
 縄文時代は、温暖化の季節から寒冷化の季節に向かったようです。海面の高さが数mも違ったようです。
 このときに生き残った人々は、寒冷化に強かったのか、住む場所を移動し生き残ったのか、どうなのでしょうね!

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。
 定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。
  (「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)

「いやです」と言われる場合を想像!

 ストーカー事件が増えています。好きな人に対する感情よりも、怯えや不安の感情の方が強いためなのですが、子供時代に、怯えや不安の体験が多かったのでしょうか?
 核家族化が進み、子供時代に接触する大人の数が少なくなり、また、ガキ大将もいなくなり、救ってくれる人がいない状態で育つ人が増えたためなのでしょうか?
 確かに、スーパーやコンビニで声をかけられることもなく、ただ買い物をするだけ、むかしは、店の人が普段話やお客の興味の持ちそうな話、子供を連れていれば、子供にも声かけをしていましたね!

尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

一人ひとりの価値観が多様化した!

 人間の感覚には、優先順位があります。
 感覚の優先順位は、触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚のようです。
 昨今の情報社会では、視覚を使うことが多くなりました。画面に音をつけ加えるのは、視覚より聴覚が優先する為の野でしょうか?
 そう言えば、歯の治療で痛みをやわらげるため、左右の足先を組み合わせ、力を入れると痛みが和らぎます。これは「触覚(タッチ)」が優先順位が高いためなのでしょうか?

厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
  
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。

相撲を取り始めると、意外と汗をかいていません!

 暑い日に来客があると、つい冷たい物を出します。相手も、冷たい物が欲しいかどうかは別にして、感謝します。それが日本文化です。
 しかし、外国の人の来客が増え、それぞれの文化があり、その人が望んでいる物を出す配慮が必要になってきたようです。
 日本の文化を求めて来日する人も多いようですが、日本文化を押しつけることには注意が必要のようです!

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地にあった「蓮乗院」

 もとは蓮乗寺という真言宗の寺だったが、光明寺が佐助から材木座に移転した以後、蓮乗院として光明寺の一院となった。
 光明寺落成までの間、然阿良忠が滞在したことから、光明寺の新しい住職は、いったんこの寺に入ってから入山するという。

 本尊阿弥陀如来像は、源頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤の守護仏。千葉常胤の檀那寺であったといわれている(寺紋は月星)。

 当院は光明寺草創以前よりこの地にあって、当時は蓮華寺と称し真言宗に属していたと伝えられている。

心というやつは、すこぶるコントロールしにくい!

 自分の成長の目的地を、幾つになっても決めている人は、どのくらいいるのでしょうか?
 成長の目的地、これを決めるのはかなり難しいと思うのですが。
 中国では、皇帝などが不老不死を求める文化があるようですが、その人の「成長の目的地」を決める文化はあったのでしょうか?
 「権力」を永久に求める文化なのでしょうか?
 日本の向かいの物語「竹取物語」では、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したが、富士山の山頂で燃やしたとなっていますね!

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

移りゆくことこそが永遠の真理!

ブッダの遺言
 私はたしかに、もうすぐ死ぬ。
 しかし君が悲しむことはない。嘆くこともない。
 私はこれまで何度も説いてきた。
 「どんな愛しい者からも、大好きな者からも、100%の確率で、生きているうち、もしくは死ぬときに、引き裂かれて別離し、すべては移ろいゆく」と。
 いったん生まれたもの。存在するもの。つくられたもの。それらはすべ て壊れゆく定めにあり、「壊れるな」という無理が通ることはありえない。
 この世に永遠のものなど何ひとつなく、私の命もまた永遠ならずして、もうすぐ私はそれをそっと手放す。
 それはごへごく自然なこと。
 すべてのものは一瞬一瞬、刻一刻と壊れて、少しずつ消滅してゆく。
 だから、君はほんの一瞬もムダにすることなく、ダラダラすることなく、精進するように。
 これがまもなく死にゆく私が、君に先生として残す、最期の遺言となるだろう。

尾道 向島を一周でもしてみようか!

 尾道大橋の歩道は、やっと1人が通れるだけ、しかも、ところどころに橋をつり下げるローブの基点があり、自転車に乗ったままでは通れない。

 橋の上から尾道の景色を見たいので、橋の歩道を自転車を押しながら渡ることにする。
 やはり狭い歩道は自転車を押しながらでは多少の苦労を強いられる。(右手をサドルに置き、片手でバランスを取りながら押す。)
 これは昔ですが、今はどうなっているのでしょうか?

 「しまなみ街道」の自転車旅は、尾道駅前のフェリーで向島に渡るのが正解ですね。

「おひとりさま」とは精神的に自立した女性のこと!

 最近は、「一人で生きる」ことを前提にした生き方が増えています。
 これは、生活が安定したため、精神的な安定のためなのでしょうか。
 人生、ある時期は精神邸に一人で自立して生きることは、自分の成長のため必要になってくるのでしょう!

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場が!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。

 高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した。十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、多少の戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた台湾少年」「座間市史」ほかより

自然に反する生き方がいかに悪いか!

 生き物は、自然のリズムに合わせるように設計されています。そのためか、自然のリズムが変化すると、絶滅に至る生物も出てきます。
 ただ人間は、産業革命により、自然の変化をある程度は対応出来ているのでしょう。
 肥料など運び、水を運び、自然の環境を変えるようになっています。
 しかし、それらが行き過ぎるとどうなるのでしょうか?
 温暖化もそうですが、戦争もそうなのでしょう。
 あと何年、生き残れるのでしょうか?

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著)

自分に不利でも「いや」と言わない……!

 災害が頻繁に起きています。災害で不幸な大人たちが幸せになれない最大の原因は、自分で幸せになろうとしないところのようです。
 そのようにならないため、やはり支援が必要です。
 まず、安心してもらう環境作り、それができると、次に自立できる環境づくり、すると自分で幸せになろうという意欲が湧いてくるようです。
 災害が起きる前から、そんな環境があると、より自立心が湧きやすいのでしょうね!

尾道 旧市街で唯一名前がある坂?「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。
 尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。

 ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。
 坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?