肥満には遺伝的な要素も関わっています!

 テレビで「大食い」の人の放送がされます。
 大食いの人は、基礎代謝で使われるエネルギー量に差があるのでしょう。
 基礎代謝で大量のエネルギーが必要な人は、大食いをせざるをえないのでしょう。
 これは生まれたときから、そのような遺伝子があるのでしょう。
 ということは、先祖から食料に困らない生活をしていたのでしょうね!

鎌倉 護良親王の遺子日叡が父の霊を弔うため「妙法寺」

 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂(ほっけどう)が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(いし)日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
 妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
 この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭(たっちゅう)が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

何を望んでいるかをしっかり見つめ直して!

 情報化社会になり、自分ではそれほど深く考えないで、ネットで関連情報を検索したり、AIで回答を求めたり、便利になりました。
 が、回答が洗練されてしまい、自分らしさが失われていきます。
 「自分らしさ」が失われた社会、これをとするか、???やっかいですね。
 社会が安定した状況になれば良いのですが。戦争がなくなったり、原爆が禁止になったり、どうなるのでしょうか!

尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

 ヨットやボートの停泊設備です。
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

生体には自然治癒力が備わっています!

 悩みがあると、自然治癒力が弱ってしまうそうです。
 前向きに生きるには、前向きに考え、その考えを元に生活する、ということが、健康の原点。
 前向きに生きるには、自分で考え、その考えの方向で、ものごとに取り組むことが必要なのですが、AIが「考え」まで踏み込んでくる時代、悩みは少なくなるのでしょうが、それがプラスに働くか、マイナスに働くか、どうなるのでしょうか?

相模原南 鎌倉仏師作の地蔵菩薩立像が残る「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
 その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
 江戸時代には寺子屋も開かれ、後には「新戸学校」も開かれるなど、当地の学問の中核地であったようです。

責任転嫁は、自分を大事にしすぎることから!

 「責任転嫁」はどうしてするようになったのでしょうか?
 社会の中で生きて生きていくために、その中での、自分の優位を保つための一つの方法なのでしょうか?
 そうだとすると、人の集団の大きさ、つながりの深さなどで、責任転嫁の強さも変わるのでしょうね。
 核家族が主流になった現在、変わっていくのでしょうか?

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社(はちおうじしゃ)と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。

神功皇后を祀る神社が多い住吉大社!

 神功皇后は朝鮮半島絵の出兵で知られています。強かったのですね。
 初めて女性の総理大臣が就任しております。やはり強いのでしょうか?
 そういえば住吉大社などは神功皇后を祀っています。住吉神社系は海の安全を守る神様なのですね。海流の変化の激しい瀬戸内海を航行する技術が素晴らしかったのでしょうね!

尾道市向島 はるか昔に人が造形した「岩屋山巨石」

 岩屋山は補陀山(ほださん)西提寺の寺領で、現在は尾道大橋としまなみ海道によって、寺と岩屋山と分断されたかたちに見えますが、岩屋山と一体となる寺でした。

 山号の「補陀山」は、観音普薩の住む所を意味します。だから尾道三山の三古刹(浄土寺、西国寺、千光寺) がすべて観音信仰で、それぞれの観音普確が岩屋山を見つめるように設計されたと考えることも可能です。

 また、西提寺も岩屋山を向けて造営されており、尾道に古くからあったとされる浄土寺、西國寺、千光寺、そしてこの向島・西提寺をふくめた四つの古い寺がこの岩屋山を向けて造営されています。

 四方から特定の山に向けて仏教寺院が造られた例が他にあるのでしょうか。何かが隠されている自然信仰の景観上に企てた陰陽思想と仏教信仰な気配がします。
 (「隠された神話」 稲田全示著より)

行き違いが元で、重大なトラブルに発展!

 他人のアドバイス、それを採用するかどうかは自己責任、しかし、他人責任にしてしまいます。
 ネットの誤情報も、自己責任と考える人は少ないようです。そのためか、誤情報でも拡散してしまいます。
 豊臣秀吉も、「織田信長は死んではいない」という誤情報で、明智光秀に勝利しています。
 そのような背景が京都に根付き、京都では言葉通りに受け取らない風土があるのでしょうか?

鎌倉 一遍上人が関所の武士に拒絶され野宿「光照寺」

 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」より)

仲良くしてもらうためには!

 ネットやAIが一般的になってきた現在、「人づきあい」は少なくなっていくのでしょうね。
 既に都市化で人づきあいが少なくなっており、それが更に進むのでしょうね。
 しかし、ホモサピエンスの歴史は、人づきあいで進化してきており、それが衰えていくとどのようになるのでしょうか?
 日本人は歴史を大事にする民族です。それも衰えていくのでしょうか?

厚木 親鸞が布教の折りに滞在した草庵に「弘徳寺」

 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。

招き猫発祥の地「豪徳寺(東京)」!

 「縁起」を考える時期が地下図いてきました。有名なのは「招き猫」、でも最近はあまり見ないですね。
 でも、七五三では神社で子ども連れで参拝している家族を見掛けます。子どもに対しては、縁起の催しはまだ残っているようです。
 正月の食べ物は、その多くが冷凍の「おせち」になっているのでしょうか?

尾道 瑠璃山という別名を持つ「浄土寺山山頂」

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

二日酔いになるまで飲みすぎる!

 宴会などで困るのは、酒を飲み過ぎて泥酔した人に対する困りごとです。
 組織内で、あるいは日常生活の中で、何かしらのストレスがある人が、酔った勢いで絡んでしまうことです。
 こんな「まとわり」を敬虔すると、あるいは、そんな話しを聞いてしまうと、宴会には参加したくなります。
 軽めの「まとわり」でも、若い人は参加したくないのでしょうね!

鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」

 鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。

 円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
 この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。

だれしも、自己表現欲求のかたまり!

 「自分を認めて貰いたい」は誰でも思っていますね。でも、こっれを主張しすぎると、イヤな人間に見えてしまいます。
 トランプさんを見ていると、自己主張は、人づきあいでは良くないことだと感じますね。
 人の話には、まづ聞くこと、それも反論せずに。自分が受け入れにくい場合は、聞き流すしかないのでしょうね!

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。