厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
  
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。

相撲を取り始めると、意外と汗をかいていません!

 暑い日に来客があると、つい冷たい物を出します。相手も、冷たい物が欲しいかどうかは別にして、感謝します。それが日本文化です。
 しかし、外国の人の来客が増え、それぞれの文化があり、その人が望んでいる物を出す配慮が必要になってきたようです。
 日本の文化を求めて来日する人も多いようですが、日本文化を押しつけることには注意が必要のようです!

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地にあった「蓮乗院」

 もとは蓮乗寺という真言宗の寺だったが、光明寺が佐助から材木座に移転した以後、蓮乗院として光明寺の一院となった。
 光明寺落成までの間、然阿良忠が滞在したことから、光明寺の新しい住職は、いったんこの寺に入ってから入山するという。

 本尊阿弥陀如来像は、源頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤の守護仏。千葉常胤の檀那寺であったといわれている(寺紋は月星)。

 当院は光明寺草創以前よりこの地にあって、当時は蓮華寺と称し真言宗に属していたと伝えられている。

心というやつは、すこぶるコントロールしにくい!

 自分の成長の目的地を、幾つになっても決めている人は、どのくらいいるのでしょうか?
 成長の目的地、これを決めるのはかなり難しいと思うのですが。
 中国では、皇帝などが不老不死を求める文化があるようですが、その人の「成長の目的地」を決める文化はあったのでしょうか?
 「権力」を永久に求める文化なのでしょうか?
 日本の向かいの物語「竹取物語」では、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したが、富士山の山頂で燃やしたとなっていますね!

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

移りゆくことこそが永遠の真理!

ブッダの遺言
 私はたしかに、もうすぐ死ぬ。
 しかし君が悲しむことはない。嘆くこともない。
 私はこれまで何度も説いてきた。
 「どんな愛しい者からも、大好きな者からも、100%の確率で、生きているうち、もしくは死ぬときに、引き裂かれて別離し、すべては移ろいゆく」と。
 いったん生まれたもの。存在するもの。つくられたもの。それらはすべ て壊れゆく定めにあり、「壊れるな」という無理が通ることはありえない。
 この世に永遠のものなど何ひとつなく、私の命もまた永遠ならずして、もうすぐ私はそれをそっと手放す。
 それはごへごく自然なこと。
 すべてのものは一瞬一瞬、刻一刻と壊れて、少しずつ消滅してゆく。
 だから、君はほんの一瞬もムダにすることなく、ダラダラすることなく、精進するように。
 これがまもなく死にゆく私が、君に先生として残す、最期の遺言となるだろう。

尾道 向島を一周でもしてみようか!

 尾道大橋の歩道は、やっと1人が通れるだけ、しかも、ところどころに橋をつり下げるローブの基点があり、自転車に乗ったままでは通れない。

 橋の上から尾道の景色を見たいので、橋の歩道を自転車を押しながら渡ることにする。
 やはり狭い歩道は自転車を押しながらでは多少の苦労を強いられる。(右手をサドルに置き、片手でバランスを取りながら押す。)
 これは昔ですが、今はどうなっているのでしょうか?

 「しまなみ街道」の自転車旅は、尾道駅前のフェリーで向島に渡るのが正解ですね。

「おひとりさま」とは精神的に自立した女性のこと!

 最近は、「一人で生きる」ことを前提にした生き方が増えています。
 これは、生活が安定したため、精神的な安定のためなのでしょうか。
 人生、ある時期は精神邸に一人で自立して生きることは、自分の成長のため必要になってくるのでしょう!

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場が!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。

 高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した。十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、多少の戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた台湾少年」「座間市史」ほかより

自然に反する生き方がいかに悪いか!

 生き物は、自然のリズムに合わせるように設計されています。そのためか、自然のリズムが変化すると、絶滅に至る生物も出てきます。
 ただ人間は、産業革命により、自然の変化をある程度は対応出来ているのでしょう。
 肥料など運び、水を運び、自然の環境を変えるようになっています。
 しかし、それらが行き過ぎるとどうなるのでしょうか?
 温暖化もそうですが、戦争もそうなのでしょう。
 あと何年、生き残れるのでしょうか?

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著)

自分に不利でも「いや」と言わない……!

 災害が頻繁に起きています。災害で不幸な大人たちが幸せになれない最大の原因は、自分で幸せになろうとしないところのようです。
 そのようにならないため、やはり支援が必要です。
 まず、安心してもらう環境作り、それができると、次に自立できる環境づくり、すると自分で幸せになろうという意欲が湧いてくるようです。
 災害が起きる前から、そんな環境があると、より自立心が湧きやすいのでしょうね!

尾道 旧市街で唯一名前がある坂?「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。
 尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。

 ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。
 坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?

人と出会えば、何かが生まれる!

 「人と出会う」ことを、意識して出来ることは、特に歳をとると大切です。
 しかし、自分に固定観念があったり、自分を飾り立てたりする人には、その場の付き合いは出来ても、普通の付き合いは難しいようです。
 特に都会暮らしに慣れてしまうと、かなり意識を深くしないと難しいですね。
 都会から地方に移る人は、なんとなく気がついているのでしょうね!

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

 荻野神社は、かつては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
 厚木市内ではもっとも古く、かっ規模の大きい社殿です。桁行(間口)9尺、梁行(奥行)6.7尺で内部は前後二室に分かれ、前室は板敷、後室は土間のままです。
 神社に残された、貞享4年(1687)銘の横長の板には本殿建立に係る寄進者及び建築に関する詳細な記録が書かれています。建築の細部の手法は、貞享4年という古い年代にもかかわらず先進的で装飾も大変豊かで、当時の江戸の作風を見事に消化しきった建築といえます。また大工頭領は飯山村の西谷半右衛門と記されています。
 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より

「世界経済」に協力するか、または逆らうか!

 産業革命は、人類を幸せにした、と何となく思っていました。
 当時は、新しい燃料の石炭が大量に消費できるようになり、蒸気を使うなど、それまでには手に入らなかったエネルギーを手に入れました。
 しかし、石炭が消費で少なくなり、石油に移行しました。
 これは、むかし森林を伐採し、燃料に使い、森林は草原や砂漠になってしましました。
 このような石炭や石油の採掘は、何かしら地球に影響してこないでしょうか?
 最近増えている地震とは関係がないのでしょうが、何かしらの災害につながらないのでしょうか?

鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」

 鎌倉時代、後鳥羽上皇は建久九年(1198)に十九歳で譲位した年から熊野御幸をはじめて28回行った。その後も亀山上皇まで多くの皇后や女院の御幸があった。
 皇族や貴族だけではなく、平惟盛(たいらのこれもり)などの武士、足利義満(よしみつ)の側室北野殿などの女性も参詣した。平安時代後期から阿弥陀信仰が強まり、浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土と見なされるようになった。
 さらに、朝廷の支持を得た熊野信仰は国家安穏の神としてだけでなく、修験者の病気快復の祈祷によって無病息災、延命長寿の神として全国に広まり、熊野神社が各地に勧請された。

将来、食糧難が起こるのか?

 円安で、食料などの生産は国内でしたら、と思う人が増えているt思われます。
 むかし言われていた「鎖国」にしたら、と思ってしまいます。
 石器時代から縄文時代の大昔から、食料や水が豊かだこそ日本にヒトが住み始めたのでしょう。
 しかし、現在は食料や肥料も輸入に頼っています。
 そのためか、病気も昔と違っている部分もあるようです。
 今でも、田舎苦死は暮らしは、地産地消がある程度残っているのでしょう!

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 「昔の船着場」が再整備されています。

 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。

 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。(ただし、小魚が多く、骨がしっかりした魚が多いので、子どものときから食べ慣れていないと食べにくいのですが!)
 しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。

 このような船着場が残っていると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。

二人の名医、それは、発熱と食欲不振!

 昔から、権力者が「不老不死」をもとめたと、特に中国の歴史にあるようです。
 現在も、いろいろと研究が進み、そのうち実現すると思われている。
 しかし、「不老不死」が実現すると、人口がもっと増え、食料や燃料が不足してしまいます。
 食べなくても生きていける人類が生まれるのでしょうか?
 技術の発達は、人類にとってプラスなのかな?