「話術」は意識すると難しいですね。意識しないで適当に話していると、そのまま通り過ぎてしまうのですが。
日本語は、同じ発音の言葉が数多くあり、また、話す環境や場所、雰囲気でその意味も微妙に変わります。
漢字やひらがな、カタカナなどを使う書き言葉では、それほど意味に迷うことはないのですが、話し言葉は微妙な面があっります。
それだけに、話術は、話す側も、聞く側も難しいのでしょうね!
厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
慶応4年(明治元年)3月に布告した「神仏判然令」。この法令に基づいて初めに全国の神社に対して命じたのは、神社に所属している別当や社僧を還俗させることで、それらの者が僧籍から抜けることを指示したのでした。次に出したのは仏像を神体としていることの廃止で、神社内にあるすべての仏像を取り払うことを命じ、また同時に社前に備えてある仏具なども除かせたのでした。
しかし、これがもとで起こった「廃仏毀釈」は、国学の平田派など一部の過激な国学者や神道家、そして地方の神官などが一般の民衆を扇動しにため起きたもので、その破壊行為は全国的な規模で(地域による違いはありますが)行われたのでした。神社内に祀られていた仏像は寺院などに移して破壊の難を逃れたのですが、境内や路房に置かれていた石仏などの多くが割られたり削られたりしました。石仏は日常的な信仰の対象として最も身近な存在でしたのに、無残な破壊行為に及んだことの真相は分からないのですが、国家権力を後ろ盾とした民衆扇動の恐ろしさを見る思いがします。
(「厚木の歴史的石造物を巡って」 制作:澤田五十二より)
ゆっくり負荷をかけて動くのが、からだの毒を出しやすい!
江の島 閻魔大王が鎮座する石窟「延命寺」
たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。
最近は、「独り」になれない時代!
尾道向島 古代信仰の足跡か「岩屋山山頂」
岩屋山は補陀山(ほださん)西提寺の寺領で、現在は尾道大橋としまなみ海道によって、寺と岩屋山と分断されたかたちに見えますが、岩屋山と一体となる寺でした。
山号の「補陀山」は、観音普薩の住む所を意味します。だから尾道三山の三古刹(浄土寺、西国寺、千光寺) がすべて観音信仰で、それぞれの観音普確が岩屋山を見つめるように設計されたと考えることも可能です。
また、西提寺も岩屋山を向けて造営されており、尾道に古くからあったとされる浄土寺、西國寺、千光寺、そしてこの向島・西提寺をふくめた四つの古い寺がこの岩屋山を向けて造営されています。
四方から特定の山に向けて仏教寺院が造られた例が他にあるのでしょうか。何かが隠されている自然信仰の景観上に企てた陰陽思想と仏教信仰な気配がします。
(「隠された神話」 稲田全示著より)
おやつにドライフルーツを食べるのは貧血対策になる!
座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」
開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。
本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。
江戸は運河だらけの水の都、主な輸送手段であった!
鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」
“電磁波漬け”のままでいれば!
尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」
「日ぐすり」という言葉があるんですよ!
厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」
コノシロを食べない村(南毛利地区)
温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。
温水村の枝郷の一つに浅間山(せんげんやま)がありますが、この部落の鎮守は浅間(せんげん)神社で、富士浅間神社の分社ですが、この部落では、コノシロという魚を食べることを禁じています。それは、昔この部落の先祖が戦に敗れ、守城を取られたことに由来しているようです。
戦後、疎開児童の家から謝礼にコノシロを送られたときも、その家では捨ててしまったそうです。
「漢字を10個のテスト、3つできた」なんて言うか?
鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」
山門の裏側には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる竜の彫り物があり、山門の正面に本堂があります。江戸時代後期の熊本の大名細川家(ほそかわけ)が造ったといわれる本堂の軒の表欄間(おもてらんま)や前の柱との梁(はり)などに、すばらしい竜の彫り物があります。
上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。
本尊は三宝本尊(さんぽうほんぞう)(祖師(そし))で、本堂内正面には日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左手に開山の日範上人像や鬼子母神像(きしぼじんぞう)、亀に乗った水天像などが安置されています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より



















