座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
 この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
 戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
 江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。

(「座間むかしむかし 第二十六集」 座間市教育委員会 2004/3/30 発行 より)

反抗期は、二度で輪なく、三度あるのでは!

 大人になってから、第3の反抗期がある、とのこと。
 確かに大人になって社会に出てから、社会に溶け込めない人が増えているようです。
 それも最近のかってはないような異常な犯罪の、原因になったいるのでしょうか?
 もっと社会に出てからの反抗期に目を向け、解決策を見つけていく必要があるようです!

悩む・苦むのは、人間としては必然なのではないか?

 精神疾患は、専門家でも病気かどうか見分けるのが大変なようです。
 子どもが悩んでいることは分かったとしても、それが病気なのかどうか、分からないですね。
 最近のNET社会になると、子どもが悩んでいることですら、なかなか分からなくなってきていますね!

グリーンランドは、ほとんどが雪と氷に覆われている!

 入植者を集めるため「緑の島=グリーンランド」としたのですが、いまでは鉱物資源の島としたほうが移民が増える島になってしまったようです。
 ということは、もしアメリカがグリーンランドを手に入れた場合、島の名前を変えてしまうのでしょうか?
 トランプ氏ならやりかねないですね!

尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」

 尾道を代表する景勝地。

 山頂から広がる千光寺山公園は、「日本さくら名所100選」に選ばれています。(ソメイヨシノ、しだれ桜)
 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。

遅れるなら、メールか電話の一本も入れてくれよ!

 どんな時でも、「早さ」は求められています。特に仕事では、「早さ」は非常に大事です。
 おそらく、古代エジプトではじまった伝書鳩での通信から、電話、無線通信、メールと進化してきました。伝書鳩では時速50km~100kmでしたが、今は、数秒もかからない早さです。
 ただ早くなると、吟味した情報から、適当な情報になりやすく、また、偽情報も入るようになりました。
 早さと質の高い情報が両立するために、AIが役立つのでしょうが、どのようになるのでしょうか?

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

口ぐせは、パーソナリティさえ容易に推察できるもの!

 育った地域の風土により、方言だけでなく、口癖も身についてしまいます。もちろん個々人で違いがあるのですが、地域外の人から見ると、同じグループに見えてしまうようです。
 NETの普及で、地域の風土もだんだん薄くなっていくようですが、その土地の風土は出来れば大事にしていきたいですね。
 関税がどんどん上がると、昔の鎖国時代のようになってしまうと、地産地消が中心になり、体質も育った地域にあった体質となり、それに合った風土も、大事さを取り戻すのでしょうか?

鎌倉 かつては七堂伽藍を有した「浄妙寺」

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。

 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。

 東京堂出版発行「鎌倉事典」 白井永二編 より

高齢者の三人に一人は、仕事でときめいているか?

 生涯現役になると、健康や体力維持に注意します。すると、頭の健康にもなります。結果的に、健康保険の節約になります。
 金銭は別にして、「人のためになる」ことにつながれば、本当の意味で生涯現役になるのでしょう。
 体力を必要とするボランティアは難しさもあるのでしょうが、精神的なボランティアは生涯現役はそれほど難しさはないのでしょう。
 昔のと年寄りは、そのような生涯現役をやっていたのでしょうね!

尾道 天保大飢聾に本堂建替で人を救った「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。
 入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。
 竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)

小正月に、小豆粥を食べると邪気を追い払う!

 正月には「おせち料理」を食べることは定着していますが、小正月(1月15日)に小豆粥を食べることはあまりないようです。
 そのためか、「小正月」という言葉はあまり聞くことがありません。
 「恵方巻き」は一部の地域から全国に広まりましたが、小正月の「小豆粥(あずきがゆ)」は、ビジネスの上では、それほどの効果が期待できないからでしょうね!

座間 崖下に湧く清水、悪疫を止めた「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。

温暖化は、激しい気象現象を引き起こします!

 温暖化ですが、冬が寒いですね。温暖化の原因とされる二酸化炭素が増えると、「激しい気候変動が起きる」と考えなければならないですね。
 どこまで人間が耐えることが出来るか分かりませんが、知恵をめぐらし対応するしかないですね。ただ心配なのは、その対策が電気などのエネルギーを使い、負の連鎖が起きてしまうことです。
 産業革命が始まる以前の生活スタイルは、あまり知られていないですね!

鎌倉 汚れを洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」

 泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。
 だが幕府の執権たる者が、銭を洗って福銭にするなどといったことを行なうであろうか。そんなことをするとはとても思えないので、伝えられている話は作り話に違いないと見る人もいる。近所の誰かが銭を洗ってみた。案外それが銭洗いの始まりであるのかもしれない。

 由来はともかく、銭を洗うと銭が増えるという。洗えばなぜ増えるのか。人から人へと渡るうちに、銭には汚れがついてしまう。その汚れを水で洗い落とし、銭を清める。そして銭の力を再生させれば、増えていくということなのだろう。

たき火をするときは天候もチェック!

 冬の寒い時期、たき火は、からだや気持ちが温かくなります。そのためか「どんど焼き」の行事が始まったのでしょうか?
 キャンプが冬でも増えているようです。その時にたき火をしたくなります。当然、水を近くに用意しておくのですが、その量に限りがある場合もあります。その時、スコップも用意しておき、土をかけて消す方法もあります。
 実際に近くの山で、下草が燃え始めたとき、バケツに水を入れ行こうとしたとき、父から「スコップも持って行け」と言われ、実際に下草の火を消したことがあります。水だけでは、きっと山火事になっていたでしょう!

尾道には時宗寺院が六ヶ寺、その一つ「海福寺」

 尾道には時宗の寺院が六ヶ寺あり、全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。
 時宗は一遍上人が開祖で一踊り念仏」で知られています。念仏を唱えながら、鉦(かね)や太鼓を叩いて踊るというのが踊り念仏で、民衆のなかに融けこみ布敵しました。鎌倉時代に盛んになりました。
 時宗寺院は、人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなっていたようです。

生涯現役を貫くことが、再び時代の風潮!

 勉強というものは、生涯現役(収入を得るということだけでなく、何かしら社会に貢献する)でいることに繋がると好いですね。
 そのためには、勉強は学生時代だけでなく、一生続けて行く必要がありますね。
 その原点にあるのは「五感」といわれている鋭敏な感覚なのでしょうね。何かしらの感覚を磨き、そこから感じるものについて、調べ、磨き続けることが生涯現役に繋がっていくのでしょう。
 NET情報だけでは、感覚の鋭敏にはおそらく繋がらないのでしょうね!

厚木 馬頭観音菩薩を安置した「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
 元正天皇(独身を通した女帝)の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。

食欲のない人は水分を補えば、食べる必要はない!

 健康が気になります。現在、健康に関する情報は、何かしらで測定されたデータがもとになっています。
 統計は、何かしらのデータで判断されます。人間の感覚より有用されるようになりました。
 測定したデータがあっても、関連性が見いだされていないと、結果的には無視されます。
 関連性を見いだすには、人間の感覚なのでしょうか?