古代エジプトでは、太陽神を崇拝していました。それは、また「太陽が昇る」ことから、再生を願う文化か生まれたのでしょうか。
それが中国に見られる「不老不死」の文化につながったのでしょうか?
中国の唐の時代には、水銀が不老不死の薬として利用されていたようです。
一方、月を崇拝する文化もありました。シルクローでは昼間歩くとかなり暑いようです。そのため、月が見える時間に歩いていたのでしょうか?
また、海洋民族も月を崇拝していたのでしょうか? 海の潮の満ち引きは、月の動きによって決まります。瀬戸内海の中央部では、満潮と干潮の嵯峨3m以上あり、潮の流れも違ってきます。
そういえば、日本で一番古い物語として「竹取物語」がありますが、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したところ、帝はその薬を富士山に捨てたとか!
鎌倉 開基の北条時宗の廟所「円覚寺仏日庵開基廟」
その時代その時代に解決すべき課題は違う!
尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室」
これからは、手に職を持っている人!
海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」
市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)
一年中イライラしているわけではありません!
鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」
この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
人体最大の器官は、体重の40%前後を占める筋肉!
尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」
祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。
興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。
寄席で笑いを堪能、キラーT細胞が増えていた!
厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」
事業は、才覚と商才さえあればうまくいく?
鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」
日本中で神さまが誕生する大祭の日!
尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」
未来心(みらいしん)の丘。
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。
自然の循環を乱すことは人間の破滅につながる!
相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」
専門家が不足しているもの、「社会的能力」だと!
福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」
天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
朝鮮通信使は、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたといいいます。



















