権力のある人は、本来は部下より重労働です。
部下より楽をする上司は、派閥を作りそのメンバーに仕事を押しつけ、あたかも自分がすべてを行ったというスタイルととりがち、そんな気がするのですが。
部下を育てるのは、基本は、上司の仕事のやり方を見せ、それを、いかに盗みやすく見せることなのでしょう。
昔の職人の世界は、「ワザを盗む」が基本でした。この意味は、上司が「部下がワザを盗みやすいように見せるか」が基本になっていたのでしょうね!
鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」
スペインの諺「幸福は最高の復讐である」!
尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」
子供のときのことは、一生ひきずっていくもの!
福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」
寿命の長い選手は無茶な生活をしない!
尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」
持光寺の石の門(延命門)
「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高さ2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。
付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそろく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。
(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)
人と接するとき、ほがらかな笑顔を忘れないように!

どんな場面でも、「笑顔」は大事ですね。ただ、世界的に見て政治家のトップの笑顔は、あまり見掛けないですね。
政治の世界で笑顔に関するお話があるのは、天照大御神が岩屋に隠れたとき、天岩戸のまえで、明るく歌って踊って、にぎやかにして、天照大御神を連れ出すキッカケを造った話しぐらいなのでしょうか?
「天照大御神が岩屋に隠れた」とは、政治のトップをおりようとした話しなのでしょうか?
座間 源頼朝在世中に坂東八番の札所に「星谷寺」
子どもには個性があり、成長のスピードも人それぞれ!
鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
江戸時代の女性観の「内助の功」、武士階級だけの話!
尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」
開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。
また本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石を残している。
「話しかけるのがうまい人」のヒケツ!
厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」
自分の考えているように相手は存在する?
海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」
市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)
日本人の食事が欧米化し、健康志向の欧米人が和食に注目!
鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」
この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離(しんぶつぶんり)となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
社殿に向かって右手に小さい社(やしろ)が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫(かん)石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


















