最近は、「一人で生きる」ことを前提にした生き方が増えています。
これは、生活が安定したため、精神的な安定のためなのでしょうか。
人生、ある時期は精神邸に一人で自立して生きることは、自分の成長のため必要になってくるのでしょう!
座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場が!

第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。
高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した。十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年60名の慰霊碑が建てられています。
昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、多少の戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた台湾少年」「座間市史」ほかより
自然に反する生き方がいかに悪いか!
鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」
光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著)
自分に不利でも「いや」と言わない……!
尾道 旧市街で唯一名前がある坂?「蓮花坂」
人と出会えば、何かが生まれる!
厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

荻野神社は、かつては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
厚木市内ではもっとも古く、かっ規模の大きい社殿です。桁行(間口)9尺、梁行(奥行)6.7尺で内部は前後二室に分かれ、前室は板敷、後室は土間のままです。
神社に残された、貞享4年(1687)銘の横長の板には本殿建立に係る寄進者及び建築に関する詳細な記録が書かれています。建築の細部の手法は、貞享4年という古い年代にもかかわらず先進的で装飾も大変豊かで、当時の江戸の作風を見事に消化しきった建築といえます。また大工頭領は飯山村の西谷半右衛門と記されています。
「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より
「世界経済」に協力するか、または逆らうか!
鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」
将来、食糧難が起こるのか?
尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

「昔の船着場」が再整備されています。
瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。
このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。(ただし、小魚が多く、骨がしっかりした魚が多いので、子どものときから食べ慣れていないと食べにくいのですが!)
しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。
このような船着場が残っていると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
二人の名医、それは、発熱と食欲不振!
相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」
縄文時代は、約15,000年前~約2,300年まで続いた時代です。勝坂遺跡で縄文時代の集落が栄えていたのは約5,000年前の縄文時代中期と呼ばれる頃でした。
縄文時代の人々は、狩りをした動物の肉や、集めた木の実などを食料にして生活し、それらの調理には土器が使われたため、遺跡からは破片となった多量の土器が出土します。
また、勝城遺跡の西を流れる鳩川沿いの谷からは、当時の地層からクリの花粉が見つかっており、大事に育てられたクリが、食料、建築材などとして利用されていた可能性があります。
縄文人たちは、自然の循環を乱すことは人間の破滅につながることをよく知っていたようです。生の水を飲むことができる日本では、森林を伐採して水を湧かす必要がいりません。
ところで、文明はエネルギーを、技術の発展と共に大量に使うようになりました。中国の黄河流域ではなどでは、古代、木材を燃料として消費、森林がなくなり、植林をする文化もなく、今では黄砂を大量にばら撒いています。
石油は、どうなるのでしょうか?
自分の個人的な経験を重視すると!
鎌倉 源氏の白旗を立て戦勝を祈願「源氏山公園」

今は公園として整備され、上天気の日曜などは大賑わいの葛原岡、源氏山一帯も有史以前の一時期は狩猟・漁携を生活手段とする放浪性原始人たちが出没したらしく、縄文式土器や石斧や黒曜石の石鉱などが葛原岡神社の鳥居の傍から出土していることが鎌倉市史考古編に見えている。
将棋の升田九段を思わせる髭面の男が怪しげな鹿皮服で丸木弓か梶棒か何か持って、この辺個していたらしい。陸地は今より低く、入江はすぐ足元の笹目や扇ケ谷まで入り込んでいたから、海の幸にも恵まれた、絶好の野営地だったわけである。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」 長峰五幸著 発行:光村印刷株式会社)
辛い食べ物がブームの現在、辛そうな赤色でデザインが盛ん!
税を払う側が善良や従順であるとは限らない!
尾道 室町時代の様式の特徴をとどめる「西郷寺」
バス停{坊地口」から図書館の横と通り「西郷寺」に行く途中に
【伝説 水之庵と荒木村重】
「むかし、薬師如来さまのおかげで、この庵のそばにお湯がわき出たといい伝えられています。また庵の下には、薬師水という霊水のわく井戸があり、その水につかると病気が治ると信じられていました」
水之庵は文和四年(1355年)に創建され江戸初期に西郷寺の末寺の一つ薬師院水之庵と号しました。
水之庵には次のようないい伝えがあります。
戦国時代、武将として数奇な運命をたどった摂津の豪勇荒木村重(1535~1586)は、織田信長に反逆心をいだき、配下をぬけ、居城を捨てて、安芸の毛利氏をたよって備後に下り、尾道に隠れ住んだといわれています。村重は尾道に二、三年隠れていましたが、この水之庵に居住し、清水のわく井戸で茶の湯をたしなんだそうです。
村重は茶道への志深く、その道の要人とされ、信長没後、豊臣秀吉に茶道で仕えたといわれています。
水之庵井戸跡は現在図書館になっています。
尾道民話伝説研究会 編「尾道の民話・伝説」 (2002年5月刊)より転載















