尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。

「効率」を求められ、「早く、早く」と!

 「効率」を求められ、「早く、早く」とせかされる社会になってしまいました。
 むかしの職人気質はどこにいってしまったのでしょうか。むかしは、「いかに良いものをつくるか」でした。時間より、「良さ」優先していました。
 後世に対しても、「良さ」を追求するあまり、最後の「一部分を未完成状態」にしておく(建物の柱の一本だけ上下を反対にしておくとか、50段の継ぎ目のない石段の1本だけを2本つなぎにしておくなど)といういう職人気質もありました。
 「早く、早く」を求められるためか、ネットなど自分一人の時間を求めるようになったのでしょうか?

鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。
 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。  大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

 敷地の広い住宅のようなお寺さんです。

大人になるにつれて「否定するチカラ」が強くなる!

 子供時代に五感を鍛え、できれば第六感まで身につくようになると良いですね。
 第六感まで育つと、「何となく危険」などを察知できるようになるのではないでしょうか。
 現代は知識優先の時代になっています。自分が知っている知識、自分が好む知識からでしか納得しません。
 感覚が優先していると、その状況に合った知識を受け入れます。その結果、大きな間違いはしなくなるようです!

尾道 瀬戸田 現代のお寺ビジネス「耕三寺」

 1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。

 このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。

千年の木は、柱になってもさらに千年、生きる!

 オーバーツーリズムで、京都や奈良の修学旅行が難しくなってきています。
 日本の古い木造建築を見るチャンスが失われています、しかし、京都や奈良以外にも古い木造建築があるのですが、なかなか集中した場所にはありません。
 鎌倉も神社仏閣は多いのですが、国宝の建物はあまりありません(観光客は増えているのですが)。
 大人になれば、少し離れていても、あちこち尋ねることが出来るのですが!

厚木 かって養蚕は生活を支えた「蚕影神社」

 かつて市内には 1,500 軒を超える養蚕農家があったそうです。 かっては養蚕はこの地域の生活を支えてきたのでしょう。
 現在はたったの数軒、隆盛を極めたかつての面影はないですね。

 1182年、飯山の金剛寺が起こした訴訟文書に「蚕養」の記事(『吾妻鏡』に載る)があるそうです。その内容は「金剛寺の僧侶等の申し出は、古庄の郷司近藤太が不当な行為をし、由緒のある山寺に雑務を課したり、山狩りや養蚕に使うこと等、みっともないことです。速やかに止める様に」といった内容で、頼朝様が花押を書いて認め、速やかに止める様に命令が出た、とのことです。

運転中などに、突然、強引に追い越しをかけられると!

 ドライブ中に、突然、強引に追い越しをかけられると、いい気はしません。
 ときどきバックミラーを見ていると、後ろの運転の仕方がわかります。バイクを乗っている人は、運転の仕方を見分けるのが慣れているようです。また、対応の仕方も分かるようです。
 バイクでドライブ中に疲れると、いつの間にか安全運転の車の後ろについて、のんびりとドライブします。
 そのような体験から、他車の運転の見分けができるようになるのでしょうか?

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場あった!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。
 また、水のみなもと芹沢公園でもありました。
 おいしい座間の水。この水のみなもとが芹沢公園近くに水源井(せい)として、掘られています。公園の西側には芹沢川が流れ、東側には水源涵養(かんよう)林があって広場・川・林とのコントラストが、見事です。起伏もあり散策コースとして、いろいろと楽しむことが出来ます。(座間市)
 座間市の水道は、以前は100%地下水でした。しかし人口の急増で1978年頃から一部(通常は15%ほど)を神奈川県企業庁から入水することになりました。
 地下水を供給する芹沢地域の水道(水源)施設
  第一水源井(計画取水量二万トン)
  第二水源井(計画取水量四千トン)
  栗原水源井(廃止。
 現在は見学施設)の三か所の水源井があり、第一水源と第二水源からの取水量は市営水道の一日給水量の約半分をまかなっており文字どおり市民の大きな水瓶地域となっています。

ダイエットのため、カロリーの摂取が減ると!

 食べるものを減らしても、体重があまり下がらない。また、元に戻すと急に体重が増えてしまう、こんな経験はありませんか?
 食べ物を減らすと、からだが栄養の節約態勢にはいるようです。また、食べるものを元に戻すと、節約態勢に入っているからだですので、栄養のオーバーになってしまうようです。
 ダイエットは、やはり運動しかないのでしょうね!

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依(きえ)し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵(しょうあん)を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺(はいじ)になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

相手に「意識の矢印」を向けて聴く!

 人の話を聞くとき、聞くだけでなく、つい自分が知っていることを話してしまうことがあります。
 相手に「意識の矢印」を向けるのではなく、自分に矢印を向けているのでしょうか。
 相手の気持ちや知識に「意識の矢印」を向けておきたいですね!

尾道 こんなところが「日比崎 竜王山石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)

 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。

 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

自分の価値観だけで他人を判断するのは?

 情報化社会になればなるほど、個々人の「個性がいろいろあって良い」という思いが必要ですね。
 社会に出、出来るだけ多くの人達と接する場を経験すると、多様な価値観をに接することができます。
 しかし、社会で接する人が少ないと、価値観が狭くなってしまうようです。その結果、一方的な価値観が養成され、その視点で情報発信をしてしまいます。
 情報をネットで受け取る側も、現在ネットの情報提供側も、ユーザーの視点に沿って情報提供になっており、どんどんユーザーの視点を狭くしてしまうようですね!

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 祭神:赤城大明神(あかぎだいみょうじん)

 縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。
 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。
 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。

一つの知識に縛られず、別の選択肢を考える知恵!

 「知識」に縛られると、間違うこともあります。五感で得た情報で判断すると、間違いが少なくなると思います、しかし、学校教育は知識偏重ですから、難しいですね。
 AI情報も同じような答えを出すのでしょうか?
 AIは、その場しのぎには貢献しそうなので、うまく使うと便利なのでしょうね!

鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」

 宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。

自分にしか関心のないエゴイスト!

 他人の利益をまったく考えようとしない人、自分のカラのなかに閉じこもってしまう人、これだと「人を動かす」には大変です。 その対策として、「報酬を与える」という方法が生まれたのでしょうか?
 報酬を一部の人に与えると、争いのもとが生まれてきます。そして、その争いを抑えるため武力が生まれたのでしょうか?
 多くの人達の利益を優先するため、民主主義が生まれたのでしょうか?

尾道 本来の本堂がない「宝土寺」

 開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

「倭冠」は日本人の海賊集団?

 「海賊」という意味は、①襲って財貨を強奪する盗賊、②水軍(水上の軍隊)の異称、と辞書にあります。
 倭寇は襲って財貨を強奪する盗賊のようですね。
 一方、中世の村上水軍などは、普段は水先案内(村上水軍のいた今の「しまなみ海道」あたりは、瀬戸内海の中央で、干満の差が3m以上あり、干潮や満潮の時間帯を除くと、潮の流れが速く、海底の岩が船底に当たるか、また、どこが本州なのか島なのか、分からないので、水先案内が必要でした。
 ただ、戦になると傭兵として利益を得る集団でした。いわゆる比叡山などの僧兵と同じような立場だったのでしょう!