知識を覚える教育では、失敗したとき解決策を見つけることが難しいように思います。
その対策として、NET検索で、解決策を見つけようと技術が発達したのでしょうか?
また、それをもっと進化させるためにAIが発達しているのでしょうか?
しかし、日本の歴史では、自然から学び、それを学びやすくするため伝説をつくり、石碑などを残し、自然と共にそれらから学んでいました。
NET検索と、地域の歴史などから学ぶ違いは、今住んでいる地域との関連の濃さだと思います!
尾道 向島とを結ぶ航路「福本渡船」廃止になります!
朝鮮半島は、西暦300年代に独立の国づくりが進んだ!
鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」
「他人の痛みを思いやること」を教えるには!
福山 共 元は沖見堂と称し鞆港に近い西町にあった「本願寺」
福山藩では時宗の寺院は珍しく、江戸時代、福山領内の時宗寺院はいずれも鞆の浦にある原村の永海寺と、西町の本願寺の2寺だったそうです。永海寺はその後焼失して廃寺となってしまったので、現在は本願寺のみが孤塁を守っています。開基一遍上人の立像も安置されています。
時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。
“聴き上手”は、言葉を変えていえば〈思い遣り〉のこと!
日蓮の弟子日賢が1309年 に開いた「本成寺」
性格は、生まれつきものと環境の影響の組みあわせ!
尾道 隠された謎があるのか? 向島「岩屋山」

岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
それは人造の傷跡があることから推測され、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。
(「岩屋山ミステリーツアー」の案内板より)
古くなることを押し留めることはできないが!
厚木 神奈川景勝五十選、飯山の観音さん「長谷寺」
「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。
当山は神亀二年(725)奈良時代の高僧、行基により開かれ初めは飯山寺と呼ばれていた。
その後、大同二年(807)弘法大師が真言密教の場としたと言われ、この地の領主飯山権太夫が深く信仰し伽藍を建立したと伝えられている。
(「長谷寺案内」長谷寺発行より)
戦争責任をどう負うべきか!
鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」
光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売りの供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。
鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したりしたいとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が触ると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのだった。この地蔵信仰の特徴はそれぞれに専門化された性格が与えられていたことでもある。安産眼病長寿などなど、現実に即した願いを書く地蔵が受け持ち庶民の心を癒す役割を担いよの反対に一役買ったのだった。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)
植物には毒草もたくさんあるが、毒も少量飲めば薬になる!

「自然」というものには、やはり人類が生き残った原点があるのでしょうね。
漢方薬もそうですが、一般の人達は自然の植物などから取り出したものを薬にしていました。
科学薬品は20世紀前半に基礎ができたようです。
薬だけでなく、自然の中にいると心が癒されると同時に、からだにも良いようです。
都会暮らしについて、暮らしやすさや便利さだけでなく、何かしらの問題もあるようです!
尾道 五百羅漢の群像がある「天寧寺」
枯れ枝や紙を燃やすと火の粉が驚くほど遠くまで飛んでいく!
「雨乞い」は農作物の不作を逃れるため、あるいは、豊作を願って行われる行事なのですが、山火事のとき、火が消えるように祈って行うことはないのでしょうか?
そういえば、枯れ草を燃やすとき、水を用意するだけでなく、スコップを用意していますか?
水場が直ぐ横にあれば別ですが、近くにないことが多いです。そんなときに火が広まると、水はすぐ無くなり、水を汲みに行っている間に燃え広がったしまいます。
せめてスコップがあれば、土をかけると火が消えることもあります。
私の経験では、裏山の50m位横上で枯れ葉が燃え広かったとき、父から「スコップも持って行け」といわれ、実際に消すことに成功しました。
山火事になる前でしたら、消化の効果があることもあります!
愛川 八菅の七社権現とも呼ばれた「八菅神社」
八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。
かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。