鎌倉 かつては七堂伽藍を有した「浄妙寺」

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。

 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。

 東京堂出版発行「鎌倉事典」 白井永二編 より

高齢者の三人に一人は、仕事でときめいているか?

 生涯現役になると、健康や体力維持に注意します。すると、頭の健康にもなります。結果的に、健康保険の節約になります。
 金銭は別にして、「人のためになる」ことにつながれば、本当の意味で生涯現役になるのでしょう。
 体力を必要とするボランティアは難しさもあるのでしょうが、精神的なボランティアは生涯現役はそれほど難しさはないのでしょう。
 昔のと年寄りは、そのような生涯現役をやっていたのでしょうね!

尾道 天保大飢聾に本堂建替で人を救った「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。
 入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。
 竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)

小正月に、小豆粥を食べると邪気を追い払う!

 正月には「おせち料理」を食べることは定着していますが、小正月(1月15日)に小豆粥を食べることはあまりないようです。
 そのためか、「小正月」という言葉はあまり聞くことがありません。
 「恵方巻き」は一部の地域から全国に広まりましたが、小正月の「小豆粥(あずきがゆ)」は、ビジネスの上では、それほどの効果が期待できないからでしょうね!

座間 崖下に湧く清水、悪疫を止めた「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。

温暖化は、激しい気象現象を引き起こします!

 温暖化ですが、冬が寒いですね。温暖化の原因とされる二酸化炭素が増えると、「激しい気候変動が起きる」と考えなければならないですね。
 どこまで人間が耐えることが出来るか分かりませんが、知恵をめぐらし対応するしかないですね。ただ心配なのは、その対策が電気などのエネルギーを使い、負の連鎖が起きてしまうことです。
 産業革命が始まる以前の生活スタイルは、あまり知られていないですね!

鎌倉 汚れを洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」

 泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。
 だが幕府の執権たる者が、銭を洗って福銭にするなどといったことを行なうであろうか。そんなことをするとはとても思えないので、伝えられている話は作り話に違いないと見る人もいる。近所の誰かが銭を洗ってみた。案外それが銭洗いの始まりであるのかもしれない。

 由来はともかく、銭を洗うと銭が増えるという。洗えばなぜ増えるのか。人から人へと渡るうちに、銭には汚れがついてしまう。その汚れを水で洗い落とし、銭を清める。そして銭の力を再生させれば、増えていくということなのだろう。

たき火をするときは天候もチェック!

 冬の寒い時期、たき火は、からだや気持ちが温かくなります。そのためか「どんど焼き」の行事が始まったのでしょうか?
 キャンプが冬でも増えているようです。その時にたき火をしたくなります。当然、水を近くに用意しておくのですが、その量に限りがある場合もあります。その時、スコップも用意しておき、土をかけて消す方法もあります。
 実際に近くの山で、下草が燃え始めたとき、バケツに水を入れ行こうとしたとき、父から「スコップも持って行け」と言われ、実際に下草の火を消したことがあります。水だけでは、きっと山火事になっていたでしょう!

尾道には時宗寺院が六ヶ寺、その一つ「海福寺」

 尾道には時宗の寺院が六ヶ寺あり、全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。
 時宗は一遍上人が開祖で一踊り念仏」で知られています。念仏を唱えながら、鉦(かね)や太鼓を叩いて踊るというのが踊り念仏で、民衆のなかに融けこみ布敵しました。鎌倉時代に盛んになりました。
 時宗寺院は、人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなっていたようです。

生涯現役を貫くことが、再び時代の風潮!

 勉強というものは、生涯現役(収入を得るということだけでなく、何かしら社会に貢献する)でいることに繋がると好いですね。
 そのためには、勉強は学生時代だけでなく、一生続けて行く必要がありますね。
 その原点にあるのは「五感」といわれている鋭敏な感覚なのでしょうね。何かしらの感覚を磨き、そこから感じるものについて、調べ、磨き続けることが生涯現役に繋がっていくのでしょう。
 NET情報だけでは、感覚の鋭敏にはおそらく繋がらないのでしょうね!

厚木 馬頭観音菩薩を安置した「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
 元正天皇(独身を通した女帝)の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。

食欲のない人は水分を補えば、食べる必要はない!

 健康が気になります。現在、健康に関する情報は、何かしらで測定されたデータがもとになっています。
 統計は、何かしらのデータで判断されます。人間の感覚より有用されるようになりました。
 測定したデータがあっても、関連性が見いだされていないと、結果的には無視されます。
 関連性を見いだすには、人間の感覚なのでしょうか?

鎌倉 熊のような猫が住みついたという「報国寺」

【伝説】

 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

「どうして」「なんで」の後には、否定的な言葉が続く!

 情報が多くなり、希望していないにも拘わらず、メールが来たり、Webで表示されたりします。
 AIが進化するにつれ、一方向の情ばかりになるのではと心配します。
 日本語の単語は、多様性があり、思ってもいないところでも発見しますが、AIは単語だけでなく、文全体で処理しているようです。
 結果的には、適正な回答になるのですが、思考はどんどん多様性を失っていくのでしょうね!

尾道 生口島 1936年から建立が始まった「耕三寺」

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

「成績がよければ何をしてもOK」はダメ!

 子どもに対して、大半の大人は「学力」だけを期待するようになっているようです。
 でも、NHKの「子ども科学電話相談」では、子供達の自然の観察力に驚かされます。
 自然が周りにある子供達は、五感の育ちが違うようですね。
 学校教育は、まだ記憶が中心のようです。NETからの情報も知識だけです。どちらかというと知識だけで判断するようになっているようです。
 感覚による判断も、大事にしたいですね!

座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。<
   一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
 飯綱権現は、江戸時代には防火の神として信仰されていて(本来は伊勢の豊受大神と同じ食物の神様)、長野県の飯綱権現社が本社でした。座間神社と改めたのは、明治九年で日本武尊が野火で攻撃された時、剱で草を刈って防いで勝ったという神話にもとづき、後世防火の神様ともされていたので、明治時代になって村社とされるとき、同じくご利益のある日本武尊に祭神が改められました。

健康的な飲みものにも!

 食べ物も、健康志向になりましたね。戦後の食糧難の時代から70~80年、体質はそれほど変わっていないと思うので、お年寄りは体が要求しているのでしょうか?
 ただ、自動車や鉄道が発達し、若い人は運動量が少なくなりました。先祖から引き継いだ体質は、簡単には変わっていないと思うのですが、お年寄りに比べれば健康志向は少し弱いようです。
 そういえば、痩せた人はあまり見掛けなくなりましたね!

福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

「祈雨・止雨の祈願」

 古代、日本では馬を神の乗り物として神聖視してきた。そのため神に願いを届ける際には、生きた馬を捧げるという習わしがあった。
 とくに降雨を願う際に神馬が献上された。降雨を願うときには「雨雲」を象徴する黒馬、止雨を願うときには「太陽」を象徴する白馬を奉納するのが常だった。
 平安時代、天皇はしばしば勅使を派遣して馬を奉納し、祈雨・止雨の祈願を行った。

「絵馬の発祥」

 古代、雨乞い止・止雨を願う際は、生き馬が献上されたが、平安時代中期になると、土や木でできた馬型の像が代わりに用いられた。やがてそれらが簡略化され、神馬の姿を額に描いた絵馬が奉納されるようになった。

ぶらぶら歩いていても明らかに身体にいい!

 ウオーキングは体に良いと聞きます。ウオーキングの途中に、五感を働かせ、移動中の自然の移り変わりにも注意を向けてほしいですね。
 ただし、都会では公園にしか自然が残っていないのですが。
 子供時代、自然の中で遊び回り、可能ならむかしのガキ大将のような子がいると、危険なことを避ける方法など、多くのことが学べます。
 できればゴム草履など履き、足の裏からの感覚が育つと、より安全に自然の中で遊べるようになるのでしょうね!