厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」

 鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られていますが、実は弁天様は仏教に属する仏様であり、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことですが、一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょう。
 大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
 そして、毎年4月の初巳を祭日としていたとのことです。

(「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より)

「言霊(ことだま)」というパワー!

 言葉の「力」は強大です。ついつい相手の言葉に左右されることは多いですね。
 特に日本語はそれぞれの単語の意味が広く、しかも似ているようで異なった使い方もあります。
 たとえば「人気がない」、「人気」の読み方は「にんき」と「ひとけ」があります。「人気(にんき)がない」のか、「人気(ひとけ)がない」のかは、その言葉が言われた状況や背景を考慮しないと決まりません。
 この例は漢字ですが、同じ発音でも異なる意味のものもあります。
 言葉で左右される人の心、やっかいですね!

尾道 技芸が上達を願う「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田庄の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
 庫裡の裏庭山麓に広がる大盤石は花崗岩の多い尾道地方でもめずらしい巨岩である。

いつも時間に追い立てられて「テンパっている」

 NETの普及で、時間の追い立てられ寝不足になりやすい時、コマギレ時間もなくなってしまいました。
 旅行に行っても、写真がすぐ撮れる時代、じっくりとその場所の雰囲気を楽しむことも少なくなりつつあります。
 このような時代こそ、本を読むなど、時間を作り出す工夫が必要ですね。
 仕事など、物事の処理スピードを上げ、できた時間をのんびりと過ごす時間にあてられると良いのですが…………!

鎌倉 風もないのにゆれる松があった「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

従順になることで自分を守ろうとする!

 親の「子供への期待」をどのようにするか、家庭によって異なるようです。
 昔は、祖母や祖父が子育てにも何かしら関係していたので、家系の育て方が引き継がれていたようです。
 今は幼稚園や保育所での子育てが、かなりの時間を占めているので、家系の育て方は消えてしまったのでしょうね。
 家系図が消えてしまったのは、やはり子育てのやり方とも関係しているのでしょうね!

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

阿伏兎 名勝 鞆公園内 大正一四年十月八日指定

 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人びとの信仰を多く集めてきた。
 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が、このあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基と伝える。
後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。
 磐台寺観音堂と客殿は、室町時代の建築様式で知られている。
本尊の十一面観音は、子授け・安産.航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。
朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、観音堂の眼下に広がる燧灘の展望もすばらしい。
  平成五年二月 沼隈町教育委員会 (案内板より)

両親のことを活き活きと、嬉しそうに話してくれる子ども!

 50代から子供まで犯罪にて手を染める人が目立ちます。
 昔は、犯罪をする人の理由がある程度推測できましたが、今は???ですね。
 その理由はわかりませんが、子供時代に、大人の人達と触れる人数が、少なくなっていることが関係しているのでしょうか?
 幼稚園と、昔の祖母祖父なども含めた育児の関係者の人数は違いますね。
 祖母祖父が育児に関係していたことは、祖母祖父の関係者も、子供に接する機会がありました。
 こんな環境が、変な犯罪の増加と関係しているのでしょうか?

尾道 絶景の山頂「浄土寺山」

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。
 クルマで頂上の近くまで行くことができますが、道が狭く、ちょっとわかりにくいですね。

自らに「動機善なりや、私心なかりしか」と問う!

 新しいことに取り組むこと、これを肯定する人は多いのでしょうね。
 でも、米国大統領のトランプさんや、その取巻く連中をみていると、肯定することを躊躇する場合も出てきそうです。
 やはり、新しいことに取り組む理由を知った上で、その理由に共感できる場合しか肯定できない気分になってしまいます。
 最近の日本でも、詐欺的な経営者や企業体質のニュースを見ます。やっかいな時代になりましたね!

鎌倉 五山のうちの一つ、幽谷の山寺だった「浄智寺」

 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼(ときより)の三男宗政(むれまさ)とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。
 1323年(元亨3年)の北条貞時(ほうじょうさだとき)十三回忌のときに参加した僧の数が、224人と建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)・寿福寺(じゅふくじ)についで第4位となっており、僧侶以外も含めると浄智寺の総人数は、500人に達したと思われます。

「話し方」は、経験が下手になる人も!

 「話術」は意識すると難しいですね。意識しないで適当に話していると、そのまま通り過ぎてしまうのですが。
 日本語は、同じ発音の言葉が数多くあり、また、話す環境や場所、雰囲気でその意味も微妙に変わります。
 漢字やひらがな、カタカナなどを使う書き言葉では、それほど意味に迷うことはないのですが、話し言葉は微妙な面があっります。
 それだけに、話術は、話す側も、聞く側も難しいのでしょうね!

厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」

 慶応4年(明治元年)3月に布告した「神仏判然令」。この法令に基づいて初めに全国の神社に対して命じたのは、神社に所属している別当や社僧を還俗させることで、それらの者が僧籍から抜けることを指示したのでした。次に出したのは仏像を神体としていることの廃止で、神社内にあるすべての仏像を取り払うことを命じ、また同時に社前に備えてある仏具なども除かせたのでした。
 しかし、これがもとで起こった「廃仏毀釈」は、国学の平田派など一部の過激な国学者や神道家、そして地方の神官などが一般の民衆を扇動しにため起きたもので、その破壊行為は全国的な規模で(地域による違いはありますが)行われたのでした。神社内に祀られていた仏像は寺院などに移して破壊の難を逃れたのですが、境内や路房に置かれていた石仏などの多くが割られたり削られたりしました。石仏は日常的な信仰の対象として最も身近な存在でしたのに、無残な破壊行為に及んだことの真相は分からないのですが、国家権力を後ろ盾とした民衆扇動の恐ろしさを見る思いがします。
(「厚木の歴史的石造物を巡って」 制作:澤田五十二より)

ゆっくり負荷をかけて動くのが、からだの毒を出しやすい!

 健康には、激しい運動より、すこしゆるやかな運動が良いようです。
 もちろん歳を取ると激しい運動は、体の負担が大きく無理になってきますが。
ヨーガでゆっくりとからだを動かすグループがあります。このグループ活動が続いているのは、やはりからだに良いと感じている人が多いのでしょうね!

江の島 閻魔大王が鎮座する石窟「延命寺」

 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。
 最初の七日目は三途の川を渡り、冥府でまず秦広王の裁きを受ける。次の七日目(十四日目)には、初江王のもとで裁かれる。次々とさらに七人の王のもとで裁かれて、最後に閻魔大王に引導を渡されることになりまする。さらに、その後、百か日、一年、三年と、合計十回裁きがあり、それぞれ、そのときの十人の王が裁きが行なわれます。

最近は、「独り」になれない時代!

 最近「いじめ」が取り上げることが多くなりました。「いじめ」は人との関係で起こるものです。
 むかしの「いじめ」は殴る・蹴るといった直接的な暴力でしたが、現在は精神的なものが中心になっているようです。
 核家族で人との接触が少なくなってきたのですが、人との関係が重要だと、どこかで思っているのでしょうか?
 昔の大家族時代、近所の人達を含めて、大勢の人達と関係していたので、かえって「孤独」に強くなっていたのでしょうか、「いじめ」はそれほど問題になっていませんでした。
 村八分(むらはちぶ)は有りましたが!

尾道向島 古代信仰の足跡か「岩屋山山頂」

 岩屋山は補陀山(ほださん)西提寺の寺領で、現在は尾道大橋としまなみ海道によって、寺と岩屋山と分断されたかたちに見えますが、岩屋山と一体となる寺でした。
 山号の「補陀山」は、観音普薩の住む所を意味します。だから尾道三山の三古刹(浄土寺、西国寺、千光寺) がすべて観音信仰で、それぞれの観音普確が岩屋山を見つめるように設計されたと考えることも可能です。
 また、西提寺も岩屋山を向けて造営されており、尾道に古くからあったとされる浄土寺、西國寺、千光寺、そしてこの向島・西提寺をふくめた四つの古い寺がこの岩屋山を向けて造営されています。
 四方から特定の山に向けて仏教寺院が造られた例が他にあるのでしょうか。何かが隠されている自然信仰の景観上に企てた陰陽思想と仏教信仰な気配がします。
 (「隠された神話」 稲田全示著より)

おやつにドライフルーツを食べるのは貧血対策になる!

 今は健康志向の時代、もっとも今だけでなく、むかしから健康志向だったのでしょうが。
 むかしと今が違うのは、情報の量の違いですね。健康に関する情報が、どんどん増えています。
 その情報発信のもとである研究情報は、ある一面だけを研究した情報も多くあります。
 ということは、ある面では正しいが、別の面から見ると、「?」といった情報もあります。やっかいですね!

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

 本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
 温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。

江戸は運河だらけの水の都、主な輸送手段であった!

 山城お後に行くと、つい「井戸はどこどだろう」と探してしまいます。
 人間が生きて行くにはどうしても「水」が必要です。遺跡などに行っても、「水はどこで、なんで運んでいたのだろう」と考えてしまいます。
 むかし、都会は住みにくいところだったようです。上水道や下水道が発達し、そおおかがで住みやすいところに変わったようです。
 いまでも災害の時、上下水道が使えなくなったとき、やはり都会は住みにくいところになってしまいますね!