福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
 暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・
 大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。
 天正三(1Z75)年、京を追われた15軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
 古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。

長期間、抗生物質の服用を続けていると!

 薬の乱用は、病気でもないのに、薬のある効果のために始まっています。
 麻薬が原因なのでしょうが、麻薬が手に入りにくく高価のためなのでしょうが。
 そういえばヒロポンという薬物が、太平洋戦争の時に、疲労回復や眠気防止による「戦力増強剤(除倦覚醒剤)」として、軍需工場の労働者や特攻隊員を含む兵士に国策として広く投与・配布されまていましたね。
 戦後も、隠れて利用していた方がいましたね!

尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。

 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

諺に「西風と夫婦喧嘩は夜になると止む」と!

 ストレスはどこから生まれるのでしょうか?
 やはり優劣の評価が原因なのでしょうか?
 確かに食事でも、「うまい」とか「まずい」と評価しがちですね。
 でも「これはこうゆう味がするのか」と、優劣をつけない方法もあります。
 事実は事実として把握し、優劣をつけないほうがストレスが少なくなるようです。
 家庭内で、これは「悪い」とか「良い」とか評価が始まると、ストレスが増えてくるのでしょうね!

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。

体を温める、腸をゆっくり動かす食べ物を日常的に!

 歳を取ってくると健康寿命や認知症が心配になってきます。
 健康寿命には、体を温めることが良いようです。毎日湯船につかる、重要なようです。
 温泉ブームが始まる以前は、無料や100円以下で入れる温泉が多くありました。Ⅰヶ月に1回程度、車で温泉巡りをし、宿泊場所を別にして、1日で3回程度温泉巡りをしたいました。からだに良かったのでしょうね。
 また、食べ物も大事なようです。健康志向の人は、食べ物に気をつけている人が多いですね!

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。
 この法界寺は、明治期の県央教育界に大きな足跡を残している。1872年に「学制」が発布され、それまで県央地区に存在した41の寺子屋と4つの郷学校が廃止され、「尋常小学校」が開設された。 この廃止された学校に替わり法界寺では住職・曽我明随により私塾が開設されている。

やたらに人間の寿命を長くするというのも!

 千年以上前の中国では、水銀に摩訶不思議な霊力があると思われていた。
 盛期を過ぎた唐皇帝の多くが、短命に終わったのは、道士の作る長生薬金丹を服用したためであり、何時の時代であっても征服者、権力者が陥おちいる、未み来永劫らいえいごう絶対的権力を持ち続けたいと願う欲望に、取り憑かれた結果だった。
 今は、「水銀は毒」と知られるようになりましたが、不老不死の研究は行われています。
 人間、いつの時代でも、権力者などは不老不死を望むのですね!

福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
 仏教の世界では、東の方には薬師さんの仏国土があり、西の方には阿弥陀さんの仏国土があるといいます。

「自分が完全であること」、他人にとってどれほどの価値?

 「人として完全である」ことを求めている人がどの程度いるか、むかしとは違っているのでしょうね。
 社会が、個人主義駅な傾向が強くなり、まわりをそれほど気にしなくなっているのでしょうか?
 それとも、不登校の人が増えているので、まわりを気にする人が増えているのでしょうか?
 欧米のシステムや情報が増え、交流も増えているので、社会は変化しているのでしょうが、どのようになるのでしょうか?

尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

「普通のビジネスマン」と「悪いビジネスマン」!

 子供時代、自然の中で育ち、親からも、危ないこと以外は注意されず、自由に育つ子供は、どの程度居るのでしょうか?
 自由に育った子供は、大きくなっても周りの環境が、良いとか悪いとかの判断や評価をせず、事実をありのまま受入、対応することができます。
 学校で、テスト点数で評価され、一方向からの評価だけが行われている現在、なにかしら生きにくくなってはなっていないでしょうか?

鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。

「イヤだ」「うっとうしい」と思っているだけでは!

 イヤなこと、うっとうしいこと、やはりどこかしらにありますね。
 人の場合、物事の場合、ほかにもいろいろあります。
 しかし、これらからなかなか抜け出せないものです。夢にまで出てくることもありますね。
 「大声で叫ぶ」とか、「メモに書いて、それを焼く」でなんとか抜け出せるのでしょうか?

厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」

 鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られていますが、実は弁天様は仏教に属する仏様であり、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことですが、一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょう。
 大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
 そして、毎年4月の初巳を祭日としていたとのことです。

(「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より)

「言霊(ことだま)」というパワー!

 言葉の「力」は強大です。ついつい相手の言葉に左右されることは多いですね。
 特に日本語はそれぞれの単語の意味が広く、しかも似ているようで異なった使い方もあります。
 たとえば「人気がない」、「人気」の読み方は「にんき」と「ひとけ」があります。「人気(にんき)がない」のか、「人気(ひとけ)がない」のかは、その言葉が言われた状況や背景を考慮しないと決まりません。
 この例は漢字ですが、同じ発音でも異なる意味のものもあります。
 言葉で左右される人の心、やっかいですね!

尾道 技芸が上達を願う「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田庄の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
 庫裡の裏庭山麓に広がる大盤石は花崗岩の多い尾道地方でもめずらしい巨岩である。

いつも時間に追い立てられて「テンパっている」

 NETの普及で、時間の追い立てられ寝不足になりやすい時、コマギレ時間もなくなってしまいました。
 旅行に行っても、写真がすぐ撮れる時代、じっくりとその場所の雰囲気を楽しむことも少なくなりつつあります。
 このような時代こそ、本を読むなど、時間を作り出す工夫が必要ですね。
 仕事など、物事の処理スピードを上げ、できた時間をのんびりと過ごす時間にあてられると良いのですが…………!

鎌倉 風もないのにゆれる松があった「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

従順になることで自分を守ろうとする!

 親の「子供への期待」をどのようにするか、家庭によって異なるようです。
 昔は、祖母や祖父が子育てにも何かしら関係していたので、家系の育て方が引き継がれていたようです。
 今は幼稚園や保育所での子育てが、かなりの時間を占めているので、家系の育て方は消えてしまったのでしょうね。
 家系図が消えてしまったのは、やはり子育てのやり方とも関係しているのでしょうね!