鎌倉 四季花が絶えない美しい庭もある「光則寺」

 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

[文化財]海棠(かいどう)の巨木が本堂前にある。本堂内に祀るのは、万治四年(1661)銘の木造日蓮坐像、寛文十二年(1673)伝日朗入牢七人衆像、天保十五年(1844)彩色修補の大梅院尼像など。   (「鎌倉事典」より)

忙しい中で時間をつくり出す!

 「時間がない」と思うことはありますね。NETが簡単いつ帰ると、よけいに時間がなくなります。
 時間の使い方、これは、何をやるかの優先順位のつけ方ですね。優先順位を付けないまま、つい、時間と使ってしまいます。
 特に、NETでの検索では、検索者の傾向にあった情報を提供してくれます。そんため、つい時間を使ってしまいます。
 改めて、自分の思い込みを捨て(先入観を捨て、身につけた知識を捨て)、事実をありのまま観察し、対応できれば、優先順位にそった時間の使い方ができるのでしょうね!

福山 鞆 石山合戦に参加した「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。

 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。 「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。

 石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。

黒点が増えると地球は暖かくなる!

 太陽に見える「黒点」は11年秋季で増減しているそうです。黒点が出来ると周囲と2000度も温度が低くなるそうです。
 地球にも産業革命による温暖化以外にも、気温の変動があるようですが、かなり長期間で起きているようです。
 縄文時代は数メートルに及ぶ海面の上下があったそうです。そのためか西日本に縄文遺跡がないのは、暑くて暮らしにくかったのでしょうか?
 また、寒冷化で中国の黄河流域の人達が揚子江側に南下し、揚子江側の人たちと争いになり、負けた揚子江側の人達が日本に来たのでしょうか、それで稲作が日本に伝わったのでしょうね!

尾道 尾道随一の名水“延命水”の「正念寺」

 天井絵は、民衆からの奉納も多く、豪商との差別もなく、江戸時代に尾道は、比較的平等な社会を築いていたのでしょう。
 武士は人口の1%位しかいなく、主に商人が町を治めていたようです。

 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。

 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。

縄文時代の日本人の平均寿命は15歳ほど?

 「寿命」というものを、どのように捉えるか、なんとなく長ければ良いと思っていました。
 歴史上は、やはり「長寿」を目指していました。現在もそうですね。
 長寿は、病気も増えてきます。もともと人類は長寿になるような設計になっていないのでしょうか?
 現在は、設計変更で長寿を目指す技術開発を目指しているようです。それが正解なのでしょうか?

鎌倉 足利尊氏が後醍醐天皇への挙兵決意「浄光明寺」

 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。

なぜ同じ店で!? 「本屋+カフェ」「家具屋+洋服店」……!

 「意外な組み合わせ」、いわゆる異業種の組み合わせでビジネスをすることが、活力を生む時代が定着するのでしょか。
 以前は、専門技術を深めることを追求してきました。異業種への進出と行っても、その専門技術を使ったものでした。
 まったく関係がない業種に進出することは、考えられませんでした。
 しかし、消費者目線で見ると、現在の消費者は、移動距離をできるだけ少なくして買い物をしたい、という状況になっています。
 ガソリン高騰でより移動距離を少なくしたいのです。
 異業種の組み合わせも、変わるのでしょうね!

厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

自然の循環と再生産の流れの中で生きていた縄文人!

 人間を生物として考えた場合、「身の丈に合った暮らし方」は、どんな暮らし方なのでしょうか?
 そのような視点に立つと、現在の社会の動きに疑問が湧いてきます。
 AIに疑問が湧く現在、というより、便利さを求めてきた社会、特に産業革命以降の人間社会、疑問が湧いてきます。
 昔は、歩くこと(1日20~30km)はそれほどのことではなかったのですが、今は、その10分の1位になってしまいました。
 AIも頭の働きを10分の1位にしてしまうのでしょうか?
 人間か「進歩」として考えてきたことは、人類の滅亡を促すことにならないのでしょうか?

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。

 土居咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。
 勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
 帰朝後、父が病死し家業をつぐため尾道に帰ったが、芸州藩では幸作を士籍に列し、アメリカ仕込みの新知識としてこれを厚遇した。
 その後、軍艦買入密航事件のため一時禁固刑に処せられたが、これは表面だけのことで、久しからず刑を解かれ、このあと感ずるところがあり「土居咲吾」(土に居して吾を咲う)と改名、明治元年三原藩が今の糸崎町に開設した三原洋学所の取締方となり、また長江一丁目、正授院にも英語塾を開いて後進を導いた。

この世でもっとも恐ろしいものは「人間」!

 いつの世でも戦争がありますね。しかも技術の発展と共に深刻化しています。
 現代は、「人間が楽になるため」の技術発展です。
 縄文時代は自然適応のための技術発展だったのでしょう。そのために、からだを使っていました。
 でも、からだを動かさないことを目的(しかもAIは頭も使わないための技術)になっています。
 人類の生存に良いのでしょうか?
 技術発展は、人類飲滅亡のための技術なのでしょうか?

鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」

 「長谷観音」とか、ただ「観音堂」の名で親しまれてきた長谷寺。「アジサイ寺」として知られています。正式には海光山慈照院(かいこうざんじしょういん)長谷寺と号し、浄土宗系の単立寺院です。
 長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。長谷寺の始まりは、奈良時代の736年(天平8年)であろうと伝えられていますが、はっきりとはわかりません。ただ、長谷寺に伝わっている大きな梵鐘(ぼんしょう)にT文永元年」(1264年)の年号があることから、鎌倉時代には栄えていたといえまず。

ほめられることは最大の癒しだ!

 批判しがちになることは、なかなか抜け出せないようですね。
 ネットなど(国会でも)批判が溢れています。
 でも、ほめることの重要性はそれほど意識されていない場合が多いようです。
 秘本後は、ある意味「曖昧」を許容する言葉です。解釈の幅が広く、たとえ批判であっても、少しは穏やかにしてくれるようです。
 しかし、批判するよりは、ほめるほうがいいですね!

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
 暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・
 大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。
 天正三(1Z75)年、京を追われた15軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
 古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。

長期間、抗生物質の服用を続けていると!

 薬の乱用は、病気でもないのに、薬のある効果のために始まっています。
 麻薬が原因なのでしょうが、麻薬が手に入りにくく高価のためなのでしょうが。
 そういえばヒロポンという薬物が、太平洋戦争の時に、疲労回復や眠気防止による「戦力増強剤(除倦覚醒剤)」として、軍需工場の労働者や特攻隊員を含む兵士に国策として広く投与・配布されまていましたね。
 戦後も、隠れて利用していた方がいましたね!

尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。

 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

諺に「西風と夫婦喧嘩は夜になると止む」と!

 ストレスはどこから生まれるのでしょうか?
 やはり優劣の評価が原因なのでしょうか?
 確かに食事でも、「うまい」とか「まずい」と評価しがちですね。
 でも「これはこうゆう味がするのか」と、優劣をつけない方法もあります。
 事実は事実として把握し、優劣をつけないほうがストレスが少なくなるようです。
 家庭内で、これは「悪い」とか「良い」とか評価が始まると、ストレスが増えてくるのでしょうね!

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。

体を温める、腸をゆっくり動かす食べ物を日常的に!

 歳を取ってくると健康寿命や認知症が心配になってきます。
 健康寿命には、体を温めることが良いようです。毎日湯船につかる、重要なようです。
 温泉ブームが始まる以前は、無料や100円以下で入れる温泉が多くありました。Ⅰヶ月に1回程度、車で温泉巡りをし、宿泊場所を別にして、1日で3回程度温泉巡りをしたいました。からだに良かったのでしょうね。
 また、食べ物も大事なようです。健康志向の人は、食べ物に気をつけている人が多いですね!