厚木 相模観音霊場27番札所だった「聖眼寺」

 寺院の由来と歴史

 聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
 江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。

 『新編相模国風土記稿』の古文書によると、開山は円珍(えんちん)といわれる智証大師(814~891)で、観音堂には千手観音長二尺智証作を置くと記されています。円珍は14歳で比叡山に登って修行。天台教学・密教を学び、第五世天台座主となり、法門の発展に尽くした高僧です。

暑さ対策、どうしようか!

 暑さ対策は「エアコン」ですね。ただ心配なのは、汗腺の数がどうなっているのか?
 人間の体表には200万個から500万個もの汗腺があると言われています。汗腺の数の差が2.5倍も差があります。これは暑さに対する適応力の差なのでしょうか?
 もしそうだとすると、赤ちゃんのときからエアコンの部屋で育っていると、汗腺の数が少なくなり、暑さに対する対応力が小さくなってしまうのでしょうか?

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。
 寺宝の「官人使馬之図」(市重文)の額は、当地橋本氏の祖次郎右衛門が海上で難風に遭ったとき、この寺の聖観音に祈願して海難をのがれたので報恩のために異国からこの絵を持ち帰って本納したと伝えられている。

これからの時代、注目すべきは「エコ」と「環境型」の産業!

 環境問題は、これから世界全体の最重要テーマ。
 だが、アメリカは自らを「石油中毒」と認めていたが、大腸量が変わると石油中毒を続けてしまう国になってしまう。
 当面の利益を優先した方が、民衆に指示されるのでしょうか?
 アメリカには、温暖化に対する「現場感」はないのでしょうか?
 「移民国家」というのは、歴史の積み上げがそれほどないため、発想が単純になってしまう野でしょうか?

鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」

 鎌倉時代の執権北条時頼(ほうじょうときより)の夫人が建てたと伝えられています。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)で、浄土宗の高僧の一人です。公開されていませんが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、本堂の正面にまつられ、右側に観音像(かんのんぞう)や阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、左側に地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。こここにまつられている地蔵像は「身代(みがわ)り地蔵」といい、時頼夫人が日頃信仰していたと伝えられる仏様です。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

外交では、「柔軟さ」や「寛容」を失ってはいけない!

 外交で大事なことは「柔軟さ」「寛容さ」だそうですが、野党の人はもちろん、多くの政治家からは感じることはありませんね。
 「主張」が中心になると、柔軟さや寛容はなくなってしまいます。
 これはヨーロッパ文化なのでしょうか?
 日本語データベースでの単語検索では、同じ単語で検索しても多彩場面で使われていることが分かります。
 日本語には「柔軟さ」「寛容」があることを感じます。
 政治家も、日本では「柔軟さ」「寛容さ」を大事にしてほしいですね。現在の選挙では不利なのでしょうが。民主主義にも弱点はありますから!

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 創建700年の歴史ある臨済宗の禅寺です。本山は鎌倉の建長寺で、山号は本鏡山(ほんきょうざん)です。学問の神様として知られる菅原道真に縁のある菅原長員(ながかず)が、祖父菅原長貞の菩提を弔うために建立し、本覚了堂禅師により開山されました。御本尊は釈迦如来です。江戸時代には寺子屋(主に、読み・書き・算盤(そろばん)の初歩学習を行なった。)、後に「新戸学校」が開かれました。現在も寺子屋として、「写経」「茶道」の文化講座に繋がっています。

富士山の噴火に備えた防災!

 富士山の噴火に備える準備がされ始まっていますが、万全の対策は無理なのでしょうね。
 溶岩流は時速10km位なのでなんとかなるのでしょうが、火砕流はときに時速300kmにも達するとのこと、噴火が始まってからでは対策は無理ですね。
 昔と違って電子機器が増え、その動力は電気、発電設備の災害と当時に、雨が降るとショートして壊れてしまいます。
 昔の生活スタイルは、現代人も経験しておく必要があります。
 洗濯板を使って、洗濯をしたことはありますか? でも、洗濯板を持っている人はほとんどいませんね!

尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」

 未来心(みらいしん)の丘。

 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

日本人の「人間観」、欧米流の影響を受けているように見えるが?

 日本人の人間観は、「哀しい存在」だという根本認識があるそうです。
 確かに、プーチンさんやトランプさんを見ていると、どこかに哀しさを感じます。
 これは国民全員に「好かれたい」という意識があるように感じてしまいます。
 戦国武将の毛利元就は、「100人中100人に褒められるような人間に、ろくな奴はいない」と、言っています。
 日本人の人間観どこかに、悲しさ、侘しさ、どうしようもない何か、を感じているのでしょうね!

鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」

 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

「利き腕・足」に頼らないことも重要!

 「利き腕」というものがありますね。ふと縄文土器の模様を見ていたとき、これを作った人は「右利き」・「左利き」と思ってしまいました。
 展示物には、「右利き」・「左利き」の人が作ったとの表示は見たことがありません。これは時代が変わっても見ませんね!

「利き腕・足」に頼らないことも重要!

 「利き腕」というものがありますね。

 ふと縄文土器の模様を見ていたとき、これを作った人は「右利き」・「左利き」と思ってしまいました。

 展示物には、「右利き」・「左利き」の人が作ったとの表示は見たことがありません。

 これは時代が変わっても見ませんね!

座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

 駿州(静岡県)久能山に仮埋葬された徳川家康の遺骸は、家康の遺言により一年後、野州(栃木県)日光に移送されることとなった。
 遺骸移送につきそう行列は千人近くに達し、荘厳の中にも悲しみを秘めて、1617年3月18日に出発した。途中、小休止する場所、宿泊する場所は、家康ゆかりの地が選定されていた。
 家康の遺骸移送の行列は、座間宿に入り宗仲寺で小休止をした。座間宿に到着した一行は、遺骸を寺の境内に建てられた御殿に安置して、地頭内藤若狭守等の心づくしの接待を受け、昼も近かったので弁当の馳走にあずかり緊張感しばし解きほぐしたことであろう。
 その間座間宿村では、町田の木曽村までの役夫として人足三人、馬一頭を整え、一行の出発を見送ったと「宗仲寺史」に記されている。

「お笑い」というオブラートで包む!

 許せない人が三人以上いる場合は、小さいときから我慢をしてきた人だそうです。
 大阪の文化である「お笑い」は、他
人を許す文化なのでしょうか?
 お笑いをまじえての批判は、受け取る側は“軽い”批判として受け取れます。
 言った人に対し、憎悪感はほとんど生まれません。
 日本文化の根底に、「お笑い」が生き残っていきたいですね!

尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」

 石造の神亀(しんき)

 神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
瑞祥の動物として神聖視されたカメ

 古来、カメは瑞祥(ずいしょう:めでたいしるし)を告げる動物として崇められました。たとえば715年に元正天皇が即位したとき、松尾大社の御手洗谷に霊亀が現われたことを瑞祥とし、元号が「霊亀」と改められた。聖武天皇の時代の729年には背中に「天王貴平和百年」という文字が浮かび上がった霊亀が献上されたため、「天平」と改元されています。また、770年、肥後国より白い亀が献上されたことから「宝亀」と改められるなど、カメと改元が結びつけられた例は多く残る。カメを神聖な動物として信仰していた様子がうかがえます。

「昔はよかった」と、過去というのは都合よく現れる!

 年齢を重ねたとき、「昔はよかった」という生き方は、できればさけたい。
 「昔はよかった」には、自分の個人的な問題もあれば、技術的な変化による問題もある。
 技術的な問題は、その解決の方向性を探ることで対応が可能ですが、個人的な問題は、過去の自分の生き方の問題なので、やっかいですね。
 よく思えるように、都合よく粉飾するしかないのでしょうか?
 または、都合の悪い過去は、忘れるしかないのでそうか?
 どちらにせよ、過去を考えるより、今後の未来に時間をかけていく方法がよいのでしょうね!

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
 その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
 その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

作物は、一度に熟すほうが収穫しやすい!

 野生の植物は、生き残る確率を高くするため、一度に熟さず、ばらつきがあった。
 人間が食べる保存がきかない野菜や果物類は、冷蔵庫が無かったため、ばらついて熟成する性質を利用した。
 しかし、保存が利く穀物類は、ばらついて熟成すると、効率が悪いため、一斉に熟成するものを選んでいった。
 そのため、半農半漁のように兼業する働く方法が可能となった。
 米は、田植えの時期と収穫の時期以外は、あるていど時間がある。そのため、農機具の整備や近隣の草取りなどをやっているのでしょう。
 いろいろな仕事はあるのでしょうが、専門家を養成したり、その専門家の仕事をロボット化するなどして、合理化する方法はないのでしょうか?
 いまでも半農半漁ではなく、半農半サラリーマンの人もいるのでしょうね!