日本中で神さまが誕生する大祭の日!

 夏になると、神社のお祭りが多くなってきます。最近は温暖化のため、日程を変えるところも出ているようです。
 お祭りの場所は、できればクルマが通らないところがよいのですが、そうもいきませんね。
 しかし、商店街などでクルマが通らない道があると、お祭りが盛んですね。
 商店街と並行する道があり、普段から歩行者専用の時間帯があると、にぎやかな祭になりますね。
 ところで、昔の人に比べ現代人は体力が落ちています。今の体力に合わせていかないと、けが人など事故が起きやすいので、今の体力に合うように、祭りも変化していく必要があるのでしょうね!

尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」

 未来心(みらいしん)の丘。
  
 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

自然の循環を乱すことは人間の破滅につながる!

 縄文時代の人々の住んでいた地域はいろいろな説があります。
 最近、縄文時代は「日本の歴史」という視点ではなく、「人類の歴史」との視点で考えるべき、という意見もあります。
 温暖化が始まり災害が身近になると、人類の危機という視点で考えるようになりました。
 すると、縄文人の暮らし方に興味が湧いてきます。縄文人は自然に適応し、わずかなエネルギーで平和に暮らしていた、と思われています。
 しかし、地球史上最大の火山爆発や寒冷化・温暖化などによる自然災害があっても、適応してきました!

相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

専門家が不足しているもの、「社会的能力」だと!

 人類の未来など、はるかに広い社会のことを思い考えてはじめて知性になる。
 「知性は必ずしも社会に貢献するものではない」と、原爆の開発に関係した人は言っています。
 スペシャリティー(専門性)は、一歩踏み留まって、破壊に貢献するかどうか考える必要があります。
 AIはどうなのでしょうか? 最近は戦争にも使われ出したいますね。
 産業革命、ダイナマイトの発明、原始爆弾、コロナウイルスなどと同じようにスペシャリスト達が開発したのでしょうが、人類の掃滅につながる要因にならないとよいのですが!

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 朝鮮通信使は、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたといいいます。

腹式呼吸が自然にできると、精神的にも落ち着く!

 畳の上に座ることが少なくなってきました。畳の上に座ると、姿勢を気にするので健康に良いのでしょうか?
 畳に座る場合の正しい座り方は、背筋を伸ばした姿が綺麗ですね。
 体重をふくらはぎにかけてしまうとしびれてしまうので、両方の足の親指だけを重ね、くるぶしの横の部分にお尻をのせて座る座り方が正しいようですね!

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。

夢は、ひとたび文字にして記されると!

 パソコンやスマホが普及し、手書きをする機会が少なくなりました。
 だからこそ、自分の夢などを手書きすると、何かしらその意味を深く感じるようです。
 本気で何かに取り組むときは、目標や期日などを手書きすると、より本気で取り組むようになるのでしょうね!

完全に“私心”を取りさることはむずかしい!

 釈迦は「知識にとらわれない」というようなことを言っているようです。「大乗仏教は釈迦の教えではない」と言われているようです。
 私心は、自分が採用した知識にとらわれ、それ以外の考え方を認めないことのようですが、やはり、社会的な正義といったものは、大事にしたいですね。
 異常な犯罪が増えていますから!

厚木 旧名妙見宮(天之御中主神)を祀った「鐘鋳神社」

 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)

 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。

 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

 天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。

尊い人を描くときは必ず光が描かれる!

 抽象画を見ることが増えています。
 なぜでしょうか?
 事実(現実)を見ていない人(見たくない人)が増えているのでしょうか?
 AIはそのような現実から生まれてきたのでしょうか?
 日本では「鳥獣戯画(12~13世紀)」のように、古くから書かれていました。
 平安末期から鎌倉時代初期ですので、世の中が荒れ、現実から逃避したくなる時代だったのでしょうね!

鎌倉 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

一人の時間を味わい深く過ごす力!

 一人旅を受入る宿泊施設が増えているようです。
 今は情報が増え過ぎ、自分の五感で情報を集める機会が少なくなっているようです。
 都会から離れ、身本の目、耳、鼻、現地の食べ物や肌感覚など、新しい情報に触れることが出来ます。
 Netからは得られない情報を、五感で得ることが題字にされる時代になってきているようですね!

2026年8月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : risetu

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。

 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

 小津安二郎監督の代表作「東京物語」のロケ地、港の守護神とされる神社。

段取りこそ、自分と人との関係をスムーズに運んでゆく!

 一方向の情報しか受け入れない人生、そのような人が社会で尊敬されるようです。
 いわゆる専門家です。
 選挙でも専門的に詳しい人が選ばれるようです。
 福岡県や横浜市で選ばれた人達が問題を起こしています。
 アメリカ、ロシアでもそうですね。
 少なくとも江戸時代のように、権力・才力・名誉は、1人に集中しないように分散する必要がありますね。
 分散すれば、自然災害を除けば、平和な時代が永く続く時代に近づくようですね!

愛川 八菅山修験の第五番目の行所「塩川の滝」

 塩竈の滝は、八菅山修験の第五番目の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属したことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性をみとめ、滝が御神体であり、本尊であり本地仏であった。この社は、大日孁尊(おおひるめのみこと)となっているが、系列を同じうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(おおなむじのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))とし、本地仏に千手観音を祀っており、神仏習合のすがたを整えていた。そして「滝篭り」による厳重な修行が行われていた。(案内板より:愛川町商工観光課)

生きることに絶望する人が戦争を起こしている!

 古代エジプトに見られる太陽信仰、これは「日はまた昇る」ため、一旦死んでも再生できると考え、不老不死の信仰になったのでしょう。
 その信仰が、戦争で命を失っても再生できると思わせ、だんだん激しい戦争になって行ったのでしょうか?
 そういえば、太陽族と月族がおり、太陽信仰だけでなく、月を信仰していた民族もいるようです。
 竹取物語では、かぐや姫が月に帰るとき、皇子に不老不死の薬を置いて行ったのですが、皇子はその薬を富士山に捨てたようです。月族信仰を物語っているのでしょうか?

鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」

 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。

 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。

 日蓮上人の鎌倉草庵の地。

 日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。

 裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。