海老名 神仏分離までは有鹿神社の別当寺「総持院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
 また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。

遺伝子も時折ミスコピーされる!

 人間はガン細胞や認知症、うつ病など、自分の体でつくり出しているもので、自分の命を落としたり、機能が低下しています。
 しかし、勝手に変化する細胞が、もしかしてら、自然環境の変化に対応でき、人類の生き残りに貢献したのでしょうか?
 石器時代から縄文時代と、自然環境は大きく変化を繰り返しています。この変化にホモサピエンスが対応できたのは、遺伝子などの体の変化が、生き残りに貢献したのでしょうか?

鎌倉 百観音がある「円覚寺 大方丈」

 菊の紋章が入った唐門(からもん)(勅使門(ちょくしもん))が見えます。石段を上ると右に庫裏があり、唐門の脇を入ると左側に百観音の石碑があり、正面には釈迦如来像をまつる方丈があります。方丈の脇の木戸口を出て右に進むと、右側には方丈の庭が、左側に妙香池(みょうこうち)(国名勝)があり、池の向こうに「虎頭岩(ことうがん)」があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

人間は、耕せば実り豊かな畑になる荒れ地!

 人間、努力が大事なようです。それも高齢になっても努力を続ける必要があるようです。
 努力をしないでいると、視野が狭くなりガンコになっtり、認知症になったりするようです。
 頭の中も、荒れ地になり、草がボウボウと生えてしまうのでしょうね!

尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆。

  「見てご猿」
  「言うてご猿
  「聞いてご猿」

 で、世の中の正しいことを「よく見よう」、「よく言おう」、「よく聞こう」という願い

。現在のNET社会では、「見ざる、言わざる、聞かざる」は通用しません。

強者の「共生論」はかなりいかがわしい!

 未開の地に行く冒険家が「未開の地や争うがある地域に入るとき、“笑顔”が自分の安全のため大事」という言葉を聞いたことがあります。
 敵意を和らげるため、笑顔や笑いは大切なようです。
 日本では比較的顔つきがやわらかですが、最近パワハラやカスハラが問題になっています。歳とともに視野を広げていきたいですね!

厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
 明治以後7月14日から16日まで祭礼が行われ、「厚木の天王様」を楽しみに近郷近在の人があつまり、町中に各町内会の山車と神輿が繰り出し、祭りばやしが響きにぎわいました。その後、交通事情の悪化により山車と神輿は中止されましたが、昭和49年より、又、復活しました。
 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)

世の中には絶滅する動物と生き残っている動物がいる!

 「進化」について、何となく「能力がアップする」と思っていました。しかし、よく考えると、自然の変化に対応出来るかどうか、変化に対応出来た生物が、進化したということのようです。
 人間は、火を使いことや着る物を工夫すること、移動し住むところを変えるで、進化してきたのでしょう。
 石器時代・縄文時代の激しい温度変化に適応できたことで、その時代以降も生き残れたのでしょう。
 石油を大量に使うことの弊害に、これかたの人間は対応して行くことができればいいですね

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。

1日約2%の細胞が死に、新しい細胞と入れ替わる!

 細菌、血管年齢を無料で計る活動をあちこりでやっていますね。そのためか血管年齢に興味を持つ人が増えているようです。
 人間のからだの細胞はいろいろな機能があるようですが、犯罪を起こす脳の機能の研究はどの程度進んでいるのでしょうか?
 「うつ病」の研究で、脳の研究が進んでいるようですが、犯罪を起こす脳の機能の研究も進んでほしいものです。かっては異常な反正とされたものが増えているのですから!

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。

 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。

江戸時代には「恩送り」という言葉があった!

 今年(2026年)は水害の被害が多いですね。
 日本では、水は大事にしている部分もありますが、そうでもない部分もあります。
 瀬戸内のように夏場、水に困る地域では断水もあり、水を大事にしている地域ですが、断水の経験がない人達は、平気で高層住宅に住むようになっています。
 水道水をそのまま飲むことができる国は、今でも十数ヵ国しかないようです。そのためか縄文時代のように、長く平和に暮らす風土ができたのでしょうか。
 縄文のような時代が続くと、助け合いの社会が長く、広く続くのでしょうね!

尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

少なくとも江戸時代からいるハトたち。

 江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使い、大阪の米相場の情報を入手していました。このお寺の言い伝えに「平家は伝書鳩を使うことが出来なかったが、源氏は伝書鳩を使うことができた」と伝えられています。そのためか源氏はピンポイントで平家の大将を攻撃できたのでしょうか?

また、こんな話もあります。【伝説 ハトの道案内】
 南北朝のむかし、京での戦に敗れた足利尊氏が、兵力を立て直すために九州へ下る準備を進めていたときのことです。どこからともなくまっ白いハトが飛んできて、尊氏の御座船の上を何度もゆっくりと旋回し、帆柱に止まりました。
 「おお、あれを見よ。源氏の流れをくむわれらの船出を白バトが祝ってくれてお…………白バトの水先案内で尊氏の大船団は、途中敵もなく瀬戸内海を西へ西へと進みました。数日の後、島に囲まれた景色の美しい港に船が着きました。
 「これはまたにぎやかな町じゃが、どういうところじや」
「はい、尾道というところです」「はい、十一面観世音菩薩を御本尊にいだく浄土寺と申す寺でございます」…………石段を上っていくと大勢の僧侶たちが尊氏一行を「美しいところじやのう。今宵はここに船を泊めることにいたそう」………

鎌倉幕府の成立年を1185年と唱える歴史研究者が登場!

 歴史は時代により、その解釈で変化する物です。その理由の多くは、書籍や文章により歴史学者は考えるようです。
 しかし、多くの文章は、新しい政権により廃棄されるか、書き換えられます。
 また、庶民など文字を知らない人達の歴史は残りません。
 その一例ですが私の故郷(尾道)で、ご主人が朝早くから漁に行って捕ってきた魚を、午後に妻が木製の乳母車のようなもので、商店街に行き、魚を売っていました。
 保健所から「これは法律で禁止されています」と注意されたところ、そのお母さんは「これは豊臣秀吉から、許可をもらっています」と答えたそうです。
 秀吉の歴史では、武家の歴史はあっても、庶民に歴史はほとんど出てきませんね!

相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」

 昭和8年(1933)に造られた鳩川分水路(現、鳩川隧道分水路)は段丘上からの放流の勢いを緩衝するための段差が三段あることから「三段の滝」と呼ばれ、その後、昭和63年(1988)には、その上流に「新三段の滝」が完成しました。この付近は「相模川散策路」の一部として整備され、展望台から見る相模川を望む眺めは風光明媚なスポットとなっています。
 また、この新三段の滝辺りから相模川散策路を歩いてみますと、西側に相模川、その奥に大山、丹沢連峰の雄大な絶景が目に入ります。四季を通じて、季節の様々な移り変わりの表情を見せてくれる、とても良いところです。

低酸素の状態にあるとき、がん細胞は活性化する!

 ガン細胞は、もともとは自分の細胞。なぜ自分を殺してしまうのでしょうか? ガン細胞も死んでしまうのに。
 ガン細胞は生き残るため、体内の中のしくみをうまく利用しているようです。悪い菌を殺すしくみから逃れるため、「わたし(ガン細胞)は悪いものではない」というしくみを利用し、増産を繰り返しているようです。
 脳で悪いことを考え出すように、ガン細胞も工夫しているのですね!

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 鎌倉にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

 (鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土

七福神のなかで唯一の女性、弁天(弁財天、弁才天)!

 ヒチ副神の中で唯一の女性の神様「弁財天」。そういえば、縄文時代は女性がボス的な存在だったという話もあります。
 一神教では男性が神様のようです。
 日本では、戦国時代の前までは、かなり女性が強かったようです。
 子孫を残すため重要な立場であった女性。重要視されるのは平和の時代では当たり前なのですが、日本だけなのでしょうか?

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

「潮汐現象は」、月の引力によって起きている!

 むかしは、太陽を信仰する文化と、月を信仰する文化があったそうです。
 伊勢神宮は、その位置から太陽を信仰をする文化なのでしょう。
 でも、日本には月を信仰する文化もありました。日本で一番古いとされる民話「竹取物語」は津区ですね。
 瀬戸内海の潮流は、月の影響が潮の流れや水位に影響しています。月の位置を観測する文化が定着していたのでしょう。
 神社も、山側にある神社や海の近くにある神社がありますね!