運転中などに、突然、強引に追い越しをかけられると!

 ドライブ中に、突然、強引に追い越しをかけられると、いい気はしません。
 ときどきバックミラーを見ていると、後ろの運転の仕方がわかります。バイクを乗っている人は、運転の仕方を見分けるのが慣れているようです。また、対応の仕方も分かるようです。
 バイクでドライブ中に疲れると、いつの間にか安全運転の車の後ろについて、のんびりとドライブします。
 そのような体験から、他車の運転の見分けができるようになるのでしょうか?

座間 芹沢公園は太平洋戦争時、海軍の飛行機工場あった!

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の時、海軍の飛行機工場ありました。そこで多くの台湾少年工が働いていました。
 また、水のみなもと芹沢公園でもありました。
 おいしい座間の水。この水のみなもとが芹沢公園近くに水源井(せい)として、掘られています。公園の西側には芹沢川が流れ、東側には水源涵養(かんよう)林があって広場・川・林とのコントラストが、見事です。起伏もあり散策コースとして、いろいろと楽しむことが出来ます。(座間市)
 座間市の水道は、以前は100%地下水でした。しかし人口の急増で1978年頃から一部(通常は15%ほど)を神奈川県企業庁から入水することになりました。
 地下水を供給する芹沢地域の水道(水源)施設
  第一水源井(計画取水量二万トン)
  第二水源井(計画取水量四千トン)
  栗原水源井(廃止。
 現在は見学施設)の三か所の水源井があり、第一水源と第二水源からの取水量は市営水道の一日給水量の約半分をまかなっており文字どおり市民の大きな水瓶地域となっています。

ダイエットのため、カロリーの摂取が減ると!

 食べるものを減らしても、体重があまり下がらない。また、元に戻すと急に体重が増えてしまう、こんな経験はありませんか?
 食べ物を減らすと、からだが栄養の節約態勢にはいるようです。また、食べるものを元に戻すと、節約態勢に入っているからだですので、栄養のオーバーになってしまうようです。
 ダイエットは、やはり運動しかないのでしょうね!

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依(きえ)し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵(しょうあん)を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺(はいじ)になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

相手に「意識の矢印」を向けて聴く!

 人の話を聞くとき、聞くだけでなく、つい自分が知っていることを話してしまうことがあります。
 相手に「意識の矢印」を向けるのではなく、自分に矢印を向けているのでしょうか。
 相手の気持ちや知識に「意識の矢印」を向けておきたいですね!

尾道 こんなところが「日比崎 竜王山石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)

 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。

 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

自分の価値観だけで他人を判断するのは?

 情報化社会になればなるほど、個々人の「個性がいろいろあって良い」という思いが必要ですね。
 社会に出、出来るだけ多くの人達と接する場を経験すると、多様な価値観をに接することができます。
 しかし、社会で接する人が少ないと、価値観が狭くなってしまうようです。その結果、一方的な価値観が養成され、その視点で情報発信をしてしまいます。
 情報をネットで受け取る側も、現在ネットの情報提供側も、ユーザーの視点に沿って情報提供になっており、どんどんユーザーの視点を狭くしてしまうようですね!

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 祭神:赤城大明神(あかぎだいみょうじん)

 縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。
 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。
 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。

一つの知識に縛られず、別の選択肢を考える知恵!

 「知識」に縛られると、間違うこともあります。五感で得た情報で判断すると、間違いが少なくなると思います、しかし、学校教育は知識偏重ですから、難しいですね。
 AI情報も同じような答えを出すのでしょうか?
 AIは、その場しのぎには貢献しそうなので、うまく使うと便利なのでしょうね!

鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」

 宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
 開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
 江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
 村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。

自分にしか関心のないエゴイスト!

 他人の利益をまったく考えようとしない人、自分のカラのなかに閉じこもってしまう人、これだと「人を動かす」には大変です。 その対策として、「報酬を与える」という方法が生まれたのでしょうか?
 報酬を一部の人に与えると、争いのもとが生まれてきます。そして、その争いを抑えるため武力が生まれたのでしょうか?
 多くの人達の利益を優先するため、民主主義が生まれたのでしょうか?

尾道 本来の本堂がない「宝土寺」

 開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

「倭冠」は日本人の海賊集団?

 「海賊」という意味は、①襲って財貨を強奪する盗賊、②水軍(水上の軍隊)の異称、と辞書にあります。
 倭寇は襲って財貨を強奪する盗賊のようですね。
 一方、中世の村上水軍などは、普段は水先案内(村上水軍のいた今の「しまなみ海道」あたりは、瀬戸内海の中央で、干満の差が3m以上あり、干潮や満潮の時間帯を除くと、潮の流れが速く、海底の岩が船底に当たるか、また、どこが本州なのか島なのか、分からないので、水先案内が必要でした。
 ただ、戦になると傭兵として利益を得る集団でした。いわゆる比叡山などの僧兵と同じような立場だったのでしょう!

厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」

 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。この頃、陣屋が駿河国駿東郡松永(現静岡県沼津市)に置かれたようです。2代教端(のりまさ)の時、弟に3千石を分けて、大久保家は1万3千石となり、明治維新に至ることになります。
 天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋を松永からこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。
 その後、教翅から教義に至る三代、80余年間に渡って存在したこの陣屋は、慶応3年(1867)12月、幕末の騒乱の中で討幕派の浪士たちの襲撃によって一夜にして焼失してしまいました。この事件は、やがて京都の鳥羽・伏見の戦いの一つの原因になりました。

今夜から「夜型」から「朝型」にシフトチェンジ!

 昔の人は、早起きだったのですね。照明を日常的に庶民が使えるようになったのは、比較的最近のこと。
 太平洋戦争後でも、電気をつけるのは一部屋だけ、というじょうたいでした。
 そのためか。早寝・早起きでした。
 人類の歴史を考えると、照明がそれほどない時代が長く、進化してきたことを思うと、朝に思考力や観察力が効率よく働き、その情報をもとに、行動していたのでしょうね。
 今でも、早起きして午前中に考えごとをし、それから行動に移すが、正解なのでしょうね!

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。
 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

「お月見」一年に二回する習慣があるのは日本だけ!

 冬になると、見通しの良い時期が続くので、「星見」に移っていくのでしょうか?
 見通しの良い夜に、空を眺めていると、心の雑念も晴れてきますね。
 春の種まき・夏の手入れ・秋の収穫までは、仕事がいそがしいので、秋が終わり頃になると、やっと心に余裕ができ、また、雑念もでき、心を晴れやかにする必要があったのでしょうか。
 春が来るまでは、夜空を楽しむことが出来ますね!

「お月見」一年に二回する習慣があるのは日本だけ!

 冬になると、見通しの良い時期が続くので、「星見」に移っていくのでしょうか?
 見通しの良い夜に、空を眺めていると、心の雑念も晴れてきますね。
 春の種まき・夏の手入れ・秋の収穫までは、仕事がいそがしいので、秋が終わり頃になると、やっと心に余裕ができ、また、雑念もでき、心を晴れやかにする必要があったのでしょうか。
 春が来るまでは、夜空を楽しむことが出来ますね!

尾道 瀬戸田 1936年に建立が始められた「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。

福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。