「もったいない」という気持、自分の生きていることを大切と思いはじめることから生れると思うと、自分の時間や健康を大切にするようになるのでしょうね。
そうすると、他人を大切にする気持ちが強くなっていくのでしょうか。
自分の時間を大切にし、自分の経験や知識が、人のためになるようにしないと「もったいない」ですね!
厚木 古い石仏が数多く掘り出された「金剛寺」
飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。この忠州が、曹洞宗金剛寺の開祖となります。
人々は忠州を慕い、三月二十一日のお祭りのときは、忠州作のご詠歌も行われ、賑わいました。
【出典】『厚木の伝承と地名』『厚木の社寺縁起・地蔵めぐり』
朝からくたびれているのは、それだけで罪!
鎌倉 円覚寺、石段を上がると国宝の梵鐘「鐘楼弁天堂」
河童の原型は太古から、明確なイメージが誕生したのは近世!
福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」
お年寄りになっても心身ともに活動的!

野菜を多く食べているのは日本人。果物を多く食べているのはヨーロッパ人だそうです。
ヨーロッパでは果物はそのまま盛られた売っています。日本は丁寧に扱われ売られています。そのためかヨーロッパでは果物の価格が安い。
気候風土もヨーロッパは果物作りに適しているようです。
やはり気候風土が食生活に影響しているのですね。
この食生活が、健康寿命にどのように影響しているのでしょうか?
野菜の食べ過ぎは、健康寿命に影響するのでしょうか、少なくとも早死には防げるように思うのですが!
尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」
一日のメインの食事は夕食だ?
江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」
明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。
かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。
騎馬遊牧民が最初にあらわれたのは、紀元前1000年頃!
鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」
北条高時らの帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)によって開かれ、鎌倉公方の菩提寺ともなりました。発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
開山は夢窓国師(むそうこくし)(疎石(そせき))で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊(どううん)がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏(あしかがもとうじ)は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬(ほうむ)られました。
以後鎌倉公方代々の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、関東十刹(じゅっさつ)に名をつらねました。
関東十刹とは、室町時代に定められた、幕府が関東地方で保護する臨済宗のお寺の格のことで、五山の次に位置づけられたものです。塔頭(たっちゅう)も十余を数え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)のような高僧も住職となり、また訪れる高僧も多く、五山文学の中心の一つともなりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
「やり方が悪いのかもしれないから工夫してみよう」と!
尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」
近代国家がかくも悪くなったのは、集団と競争のせい?
厚木 奈良時代後期のころ創建「七沢観音寺」
七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
本尊に動物霊から守ってくれる馬頭観音菩薩を安置したのは、上杉定正の愛馬日影を祭ったことによると伝えられています。いずれにしても山村ゆえ諸運搬のため多くの馬を飼っていた先人達が、馬の安全とその供養を兼ねたものであり、像は頭上に馬頭を載くところから畜生道の尊と云い、3月18日には盛んな仏事を挙行しました。古くは境内で草競馬が開催されたこともあるほか、堂内に絵馬数点が奉納され、馬頭観音碑も建立されています。また堂内には数少ない宇賀神の石像(蛇形)も祭ってあります。
「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より
日常的に心がけることとしては、食事が大切!
福山 鞆 法華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。
福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。
承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。
妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。