太陽神の不在は、世界に災いを引き起こす!

 古代エジプトでは、太陽神を崇拝していました。それは、また「太陽が昇る」ことから、再生を願う文化か生まれたのでしょうか。
 それが中国に見られる「不老不死」の文化につながったのでしょうか?
 中国の唐の時代には、水銀が不老不死の薬として利用されていたようです。
 一方、月を崇拝する文化もありました。シルクローでは昼間歩くとかなり暑いようです。そのため、月が見える時間に歩いていたのでしょうか?
 また、海洋民族も月を崇拝していたのでしょうか? 海の潮の満ち引きは、月の動きによって決まります。瀬戸内海の中央部では、満潮と干潮の嵯峨3m以上あり、潮の流れも違ってきます。
 そういえば、日本で一番古い物語として「竹取物語」がありますが、かぐや姫が月に帰るとき、不老不死の薬を帝に渡したところ、帝はその薬を富士山に捨てたとか!

鎌倉 開基の北条時宗の廟所「円覚寺仏日庵開基廟」

 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北条時宗公・貞時公・高時公を祀っています。 時宗公が亡くなられた後に建立されたようです。
 山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。
 現在の開基廟は、江戸時代1811年に改築されたものとされている。 その折、鎌倉仏師の三橋家によって三体の尊像が修理されています。

その時代その時代に解決すべき課題は違う!

 教育という物は、視野を狭くする。手先などを複雑にう機会が少ないんので、脳の機能を使う範囲が狭くなる。
 ゲームは、ある一定のパターンだけしか使わないため、農を使う範囲がよりせままくなる。
 ネットで情報を手に入れるだけでは、やはり脳を使う範囲が狭い。
 できるだけ脳を広範囲に使う方法は、なかなかないようです。
 できれば、脳が広範囲な情報を手に入れ、今の時代に合った思考ができればよいのですが!

尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室」

 2020年3月 閉館されてしまいました。

 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されていました。
 1912年~1928年かけて増改築されこの写真のの形となりました。
 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。

これからは、手に職を持っている人!

 AIやロボットが進化している。この進化で食を奪われる人も、これから増えてくる。
 失われていく仕事の多くは、産業革命で増えた仕事のようです。
 産業革命以前からある仕事、いわゆる「職人の仕事」は、残っていくようです。
 これからは手に職を付ける職人仕事を目指した方が良いようです。でも、汎用品はロボットが作ってしまうのでしょうね。個性が大事ですね。
 大学を維持していくのは大変になっていくのでしょうね!

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。
 有鹿神社付近一帯が遺跡で、発掘調査で弥生時代から中世の遺物や遺構が確認されています。
 出土した平安時代の土師器圷に特殊な文字が墨書されていたことから祭祀が行われていたのではないかと考えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

一年中イライラしているわけではありません!

 何かに裏切られると、イライラが続くものです。これを鎮めるのは大変ですね。
 今はなにもなくても、ときどき思い出して、なかなかイライラは消えません。何かに集中しているときは思い出さないのですが。
 良かったことより、悪かったことを思い出すのは名座なのでしょうか?
 人間が生き残るために身につけた技なのでしょうか?

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

 この神社は昔、熊野十二所権現社といって1278年(弘安元年)には光触寺の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱、地神五柱の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。
 社殿に向かって右手に小さい社が三つ、山の神社・ほうそう神社・宇佐八幡社(うさはちまんしゃ)と並んでいます。鳥居の右に百貫石といわれる石が置かれ、その右奥に神楽(かぐら)殿があります。百貫石は、実際には28貫(約112kg)あり、以前は、祭のときにこれを持ち上げたり、かついだりして自慢した人もいたそうですが、今はためす人もいません。また、左側には地主(じぬし)神をまつる社もあります。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

人体最大の器官は、体重の40%前後を占める筋肉!

 ウォーキングは大事なようです。でも「歩き方」はいろいろあるようですね。
 車が使えない坂道の多い町では、腰の筋肉を使い足を前に出している人が多いですね。
 また、膝のクッションを多く使う人、足の不備先をうまく使う人など、舗装されている道で生活しているか、未舗装の道を多く歩いているかで違うようです。
 昔の人は未舗装の峠路を歩き、また、歩く距離も30kmなど平気だったようです。
 鎌倉時代の「十六夜日記」では、京都から鎌倉まで、未舗装の峠路などを、お母さんが16日で歩いているのでしょうか!

尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」

 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
 祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。
 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。

寄席で笑いを堪能、キラーT細胞が増えていた!

 O157の対策研究が各国で行われた結果、数日で新しいウイルスを作ることができるようになったようです。
 ということは、病原菌を兵器として使う技術が出来上がったということですね。
 15世紀にヨーロッパがアメリカ大陸を征服したときもペスト菌が使われたようですが怖いですね。
 太平洋戦争の時、日本は細瑾をアメリカにばら撒こうとして「風船爆弾」が開発されましたが、途中で細菌ばらまきの禁止令が出、爆弾に変更されましたが、ウイルスのばらまきが起きてしまうと…………!

厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」

 睦合地区妻田の北端に、楠を交えた森があります。小字を白根(しらね)といい、ここに薬師堂が建てられています。この薬師堂は、遍照院東光寺の境内にあり、古くから目の病に効く薬師堂として、妻田地区など近郊の人たちの信仰を集め、今でも秋祭りを始め、年の暮れや正月には、大勢の参拝客でにぎわっています。この薬師堂がいつ頃建立されたのかはっきりしませんが、一説によると奈良時代ではないかと言われています。江戸時代に書かれた「妻田薬師縁起」によりますと、伝説と史実を織り交ぜる面白い話が数多く残っています。

事業は、才覚と商才さえあればうまくいく?

 「専門性」が重要視されています。しかし、今のアメリカを見ていると、専門性だけでは破滅する危険性もあるようです。
 才覚と商才だけに身をまかせてしまうと、人々とのつながりが薄くなり、社会性もなくなり、哀れな結果にたどりつく可能性が大きくなっていくようですね!

鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。
 もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
 なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあったというが、いまはない。
[文献]『市史』社寺編

日本中で神さまが誕生する大祭の日!

 夏になると、神社のお祭りが多くなってきます。最近は温暖化のため、日程を変えるところも出ているようです。
 お祭りの場所は、できればクルマが通らないところがよいのですが、そうもいきませんね。
 しかし、商店街などでクルマが通らない道があると、お祭りが盛んですね。
 商店街と並行する道があり、普段から歩行者専用の時間帯があると、にぎやかな祭になりますね。
 ところで、昔の人に比べ現代人は体力が落ちています。今の体力に合わせていかないと、けが人など事故が起きやすいので、今の体力に合うように、祭りも変化していく必要があるのでしょうね!

尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」

 未来心(みらいしん)の丘。
  
 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

自然の循環を乱すことは人間の破滅につながる!

 縄文時代の人々の住んでいた地域はいろいろな説があります。
 最近、縄文時代は「日本の歴史」という視点ではなく、「人類の歴史」との視点で考えるべき、という意見もあります。
 温暖化が始まり災害が身近になると、人類の危機という視点で考えるようになりました。
 すると、縄文人の暮らし方に興味が湧いてきます。縄文人は自然に適応し、わずかなエネルギーで平和に暮らしていた、と思われています。
 しかし、地球史上最大の火山爆発や寒冷化・温暖化などによる自然災害があっても、適応してきました!

相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。

専門家が不足しているもの、「社会的能力」だと!

 人類の未来など、はるかに広い社会のことを思い考えてはじめて知性になる。
 「知性は必ずしも社会に貢献するものではない」と、原爆の開発に関係した人は言っています。
 スペシャリティー(専門性)は、一歩踏み留まって、破壊に貢献するかどうか考える必要があります。
 AIはどうなのでしょうか? 最近は戦争にも使われ出したいますね。
 産業革命、ダイナマイトの発明、原始爆弾、コロナウイルスなどと同じようにスペシャリスト達が開発したのでしょうが、人類の掃滅につながる要因にならないとよいのですが!

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 朝鮮通信使は、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたといいいます。