尾道向島 古代信仰の足跡か「岩屋山山頂」

 岩屋山は補陀山(ほださん)西提寺の寺領で、現在は尾道大橋としまなみ海道によって、寺と岩屋山と分断されたかたちに見えますが、岩屋山と一体となる寺でした。
 山号の「補陀山」は、観音普薩の住む所を意味します。だから尾道三山の三古刹(浄土寺、西国寺、千光寺) がすべて観音信仰で、それぞれの観音普確が岩屋山を見つめるように設計されたと考えることも可能です。
 また、西提寺も岩屋山を向けて造営されており、尾道に古くからあったとされる浄土寺、西國寺、千光寺、そしてこの向島・西提寺をふくめた四つの古い寺がこの岩屋山を向けて造営されています。
 四方から特定の山に向けて仏教寺院が造られた例が他にあるのでしょうか。何かが隠されている自然信仰の景観上に企てた陰陽思想と仏教信仰な気配がします。
 (「隠された神話」 稲田全示著より)

おやつにドライフルーツを食べるのは貧血対策になる!

 今は健康志向の時代、もっとも今だけでなく、むかしから健康志向だったのでしょうが。
 むかしと今が違うのは、情報の量の違いですね。健康に関する情報が、どんどん増えています。
 その情報発信のもとである研究情報は、ある一面だけを研究した情報も多くあります。
 ということは、ある面では正しいが、別の面から見ると、「?」といった情報もあります。やっかいですね!

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

 本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
 温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。

江戸は運河だらけの水の都、主な輸送手段であった!

 山城お後に行くと、つい「井戸はどこどだろう」と探してしまいます。
 人間が生きて行くにはどうしても「水」が必要です。遺跡などに行っても、「水はどこで、なんで運んでいたのだろう」と考えてしまいます。
 むかし、都会は住みにくいところだったようです。上水道や下水道が発達し、そおおかがで住みやすいところに変わったようです。
 いまでも災害の時、上下水道が使えなくなったとき、やはり都会は住みにくいところになってしまいますね!

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

“電磁波漬け”のままでいれば!

 パソコンやスマホの利用時間が増えてくると、やはり目の負担が増えてくるようです。
 子供時代から、タブレットを使い始め、ある一定の距離だけに視点を合わせていると、視力にとんな影響が出るのでしょうか?
 あと数十年たたないと、なかなかその影響はわかりませんが、やはり人類の生存の歴史から考えると、何らかの影響はあるのでしょうね!

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。

 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。

 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

「日ぐすり」という言葉があるんですよ!

 日本語には、「漢字」「かな」「カタカナ」があります。他の国にはこんな言葉はないようです。
 また、聞いていると、同じに聞こえるのですが、状況によって言葉の意味が違います。
 また人によって解釈が微妙に違うこともあります。
 ある意味、非常に発達した言葉とも受け取れます。
 言葉は、「意味の明確さ」を求めて発達したのでしょうが、日本では、自然環境(災害を含めて)が多彩なため、単純な意味の言葉だけでは、難しかったのでしょうか?

厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」

コノシロを食べない村(南毛利地区)

 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。
 温水村の枝郷の一つに浅間山(せんげんやま)がありますが、この部落の鎮守は浅間(せんげん)神社で、富士浅間神社の分社ですが、この部落では、コノシロという魚を食べることを禁じています。それは、昔この部落の先祖が戦に敗れ、守城を取られたことに由来しているようです。
 戦後、疎開児童の家から謝礼にコノシロを送られたときも、その家では捨ててしまったそうです。

「漢字を10個のテスト、3つできた」なんて言うか?

 子供の評価で、テストでの点数による評価が長く続いています。それに加えて統計的な評価で、5段階評価も1939年頃までには取り入れていました。
 当時はコンピュータによる管理がなく、手計算で平均点を計算していたようです。
 その頃、満点は100点なのですが、103点とか105点を付ける先生が一人いました。筆記による解答が3/4占めていたのですが、教科書以外に調べたことが書き加えてあると、100点以上の点がついたようです。
 現在はPCによる管理なので、上限は100点になっているようです!

鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」

 山門の裏側には左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる竜の彫り物があり、山門の正面に本堂があります。江戸時代後期の熊本の大名細川家(ほそかわけ)が造ったといわれる本堂の軒の表欄間(おもてらんま)や前の柱との梁(はり)などに、すばらしい竜の彫り物があります。
 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。
 本尊は三宝本尊(さんぽうほんぞう)(祖師(そし))で、本堂内正面には日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左手に開山の日範上人像や鬼子母神像(きしぼじんぞう)、亀に乗った水天像などが安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

“痩せ信仰”が、日本人のなかに根付いている?

 写真やNetの普及なのか? 痩せ信仰が昔に比べ広まっているようです。
 人としての向上は、どこかに行ってしまったのでしょうか?
 見た目の評価は、時代によって違っていますが、浮世絵などを見ても、普通の人が多く、太った人はあまりいないようですね。
 これは国によって違いがあるのでしょうか?

尾道 のんびりとした境内「宝土寺」

 本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。

 このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
 かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札(藩で発行する、金や銀の引換券)が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。

 年に何回か、ここで趣味で製作したものを販売しているようです。

大半の腰痛は骨の異常ではなく「固くなった筋肉」!

 40代や50代になると、腰痛などの症状が出てきます。
 やはり、人間の進化の過程で、移動するに当たって、4足での移動からから、2足中心の移動に移行したことが、まだ関係しているのでしょうか?
 2026年の4月から、ラジオ体操が1日で3回放送されるようになっています。
 やはり、ラジを体操でからだを動かすと、今まで動かしていなかった所に気がつきます。
 人のからだは、やはりあちこちを動かす必要があるのでしょうね!

相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

植物性のアブラより、動物性のアブラのほうがからだに悪い……

 健康についての研究をもとに、いろいろな情報が流れています。しかし、研究という物は、ある一部分を切り取って分析するという方法なので、その切り取り方が正しかったのかどうか、問題になることがあります。
 研究の具体的な方法までは、なかなか一般の人達には情報が流れないので、信じるしかないのでしょうね。
 間違いもあることを前提に、健康対策を行うしかないのでしょうね!

鎌倉 頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺「満福寺」

 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

 石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

ほんとうに未来を考える姿勢!

 ついつい「今の問題を早く片付けたい」と思ってしまいます。とくに災害対策はそうなってしまいます。
 しかし何年か経って「それで良かったのだろうか?」と、疑問もわいてきます。
 でも、疑問がわいてくれば、「改善の方法がないか」と考えるのですが、考えない人も多くいるようです。
 専門家は、いろいろ考えるようですが、その考えを、次の災害対策に、自動的に反映される「しくみ」づくりに取り組める環境を、整備する必要がありますね!

尾道 山門は「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 尾道の人はこの門を方言で「ええ門」という、いい門という意味です。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもん(いいもの)こうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたのです。
 この門の中でも木造の龍の立体彫刻はみごとです。
 その門にほどこされている透かし彫りの唐獅子(からじし)、鶴、象などさまざまな見事な装飾木彫をこの門で見ることができます。

年齢を重ねることを肯定的にとらえると寿命が長くなる!

 「年を取っても元気でいたい」と思い、50年代くらいから運動に励んでいる人もいます、
 仲には、一度病気などで足を悪くした人でも、杖を持ちながら歩いている人もおられます。
 からだの元気を保つことが大事なのですが、ポジティブな心を持ち、積極的に“何か”に取り組むことも大事です。
 むかし医療がそれほど発達していない状況で、老人が「老人は生きる字引」とされて、地域の困りごとの相談にのっていました。
 そのような人は、年を取っても元気だったのでしょう!