厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。
 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。
 多くの古い石仏があり、その状態も比較的良好(畑に埋まっていたため)のため、洞窟などがあればそこに並べて展示するとすばらしいのですが、残念!

なんでもOKと許容範囲も広い!

 本当に実力がある人は、関係する人には向き合わず、対象となっている「事柄」に向き合っていますね。
 実力があると見せたい人は、事柄より関係する人に向き合っています。
 自然に事柄に向き合える人は、どことなくやさしく、思い遣りがあるようです!

鎌倉 山門を潜ると石仏が並ぶ参道「光触寺」

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に進み、滑川の流れに沿って朝比奈峠方面へ。明石橋を過ぎて間もなく、十二所バス停から徒歩3分ほどのところにあるのが光触寺である。弘安2年(1279)に一遍上人によって開山されたお寺で、本尊は運慶作といわれる阿弥陀如来三尊象。国の重要文化財にも指定されている。この阿弥陀如来三尊象は頬が黒いの頬焼阿弥陀とも呼ばれている。その由来の描かれている『頬焼阿弥陀縁起絵巻』が光触寺の寺宝として残されている。
 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だった。しかし遊行中の一遍上人が弘安5年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したと言われている。それ以降、今日まで念仏道場としてその名をとどめている。

 (「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)

雪崩、角度が35~45度の崖が最も危険!

 屋根の傾斜は30度を超える物は少ないため、雪の重さが家にかかってきます。
 雪が積もるの地域の家は、そうでない地域に較べ頑丈に出来ていますが、大雪では弓降ろしがたいへんです。
 地下水があるところでは、それを屋根に流している家もあるのでしょうか?

尾道 こんなところが「日比崎 石仏群 竜王山」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

自然の秩序や社会と不調和を起こしている人!

 日本は、一神教の国(キリスト教やイスラム教}の社会と違って、「日本社会」というものが、社会の調和を保っているようです。
 しかし、日本の社会や風土が、社会の調和を保つ力が弱くなってきたようです。
 情報社会や外国語教育の普及で、いろいろな外国の社会に触れることが出来、むかしのような日本の社会規範が弱くなってきたようです。
 良い方向に進むのか、悪い方向に向かうのか、どちらなのでしょうか?

座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
 この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
 戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
 江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。

(「座間むかしむかし 第二十六集」 座間市教育委員会 2004/3/30 発行 より)

反抗期は、二度で輪なく、三度あるのでは!

 大人になってから、第3の反抗期がある、とのこと。
 確かに大人になって社会に出てから、社会に溶け込めない人が増えているようです。
 それも最近のかってはないような異常な犯罪の、原因になったいるのでしょうか?
 もっと社会に出てからの反抗期に目を向け、解決策を見つけていく必要があるようです!

悩む・苦むのは、人間としては必然なのではないか?

 精神疾患は、専門家でも病気かどうか見分けるのが大変なようです。
 子どもが悩んでいることは分かったとしても、それが病気なのかどうか、分からないですね。
 最近のNET社会になると、子どもが悩んでいることですら、なかなか分からなくなってきていますね!

グリーンランドは、ほとんどが雪と氷に覆われている!

 入植者を集めるため「緑の島=グリーンランド」としたのですが、いまでは鉱物資源の島としたほうが移民が増える島になってしまったようです。
 ということは、もしアメリカがグリーンランドを手に入れた場合、島の名前を変えてしまうのでしょうか?
 トランプ氏ならやりかねないですね!

尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」

 尾道を代表する景勝地。

 山頂から広がる千光寺山公園は、「日本さくら名所100選」に選ばれています。(ソメイヨシノ、しだれ桜)
 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。

遅れるなら、メールか電話の一本も入れてくれよ!

 どんな時でも、「早さ」は求められています。特に仕事では、「早さ」は非常に大事です。
 おそらく、古代エジプトではじまった伝書鳩での通信から、電話、無線通信、メールと進化してきました。伝書鳩では時速50km~100kmでしたが、今は、数秒もかからない早さです。
 ただ早くなると、吟味した情報から、適当な情報になりやすく、また、偽情報も入るようになりました。
 早さと質の高い情報が両立するために、AIが役立つのでしょうが、どのようになるのでしょうか?

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

口ぐせは、パーソナリティさえ容易に推察できるもの!

 育った地域の風土により、方言だけでなく、口癖も身についてしまいます。もちろん個々人で違いがあるのですが、地域外の人から見ると、同じグループに見えてしまうようです。
 NETの普及で、地域の風土もだんだん薄くなっていくようですが、その土地の風土は出来れば大事にしていきたいですね。
 関税がどんどん上がると、昔の鎖国時代のようになってしまうと、地産地消が中心になり、体質も育った地域にあった体質となり、それに合った風土も、大事さを取り戻すのでしょうか?

鎌倉 かつては七堂伽藍を有した「浄妙寺」

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。

 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。

 東京堂出版発行「鎌倉事典」 白井永二編 より

高齢者の三人に一人は、仕事でときめいているか?

 生涯現役になると、健康や体力維持に注意します。すると、頭の健康にもなります。結果的に、健康保険の節約になります。
 金銭は別にして、「人のためになる」ことにつながれば、本当の意味で生涯現役になるのでしょう。
 体力を必要とするボランティアは難しさもあるのでしょうが、精神的なボランティアは生涯現役はそれほど難しさはないのでしょう。
 昔のと年寄りは、そのような生涯現役をやっていたのでしょうね!

尾道 天保大飢聾に本堂建替で人を救った「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。
 入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。
 竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)

小正月に、小豆粥を食べると邪気を追い払う!

 正月には「おせち料理」を食べることは定着していますが、小正月(1月15日)に小豆粥を食べることはあまりないようです。
 そのためか、「小正月」という言葉はあまり聞くことがありません。
 「恵方巻き」は一部の地域から全国に広まりましたが、小正月の「小豆粥(あずきがゆ)」は、ビジネスの上では、それほどの効果が期待できないからでしょうね!

座間 崖下に湧く清水、悪疫を止めた「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。

温暖化は、激しい気象現象を引き起こします!

 温暖化ですが、冬が寒いですね。温暖化の原因とされる二酸化炭素が増えると、「激しい気候変動が起きる」と考えなければならないですね。
 どこまで人間が耐えることが出来るか分かりませんが、知恵をめぐらし対応するしかないですね。ただ心配なのは、その対策が電気などのエネルギーを使い、負の連鎖が起きてしまうことです。
 産業革命が始まる以前の生活スタイルは、あまり知られていないですね!