夢は、ひとたび文字にして記されると!

 パソコンやスマホが普及し、手書きをする機会が少なくなりました。
 だからこそ、自分の夢などを手書きすると、何かしらその意味を深く感じるようです。
 本気で何かに取り組むときは、目標や期日などを手書きすると、より本気で取り組むようになるのでしょうね!

完全に“私心”を取りさることはむずかしい!

 釈迦は「知識にとらわれない」というようなことを言っているようです。「大乗仏教は釈迦の教えではない」と言われているようです。
 私心は、自分が採用した知識にとらわれ、それ以外の考え方を認めないことのようですが、やはり、社会的な正義といったものは、大事にしたいですね。
 異常な犯罪が増えていますから!

厚木 旧名妙見宮(天之御中主神)を祀った「鐘鋳神社」

 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)

 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。

 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

 天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。

尊い人を描くときは必ず光が描かれる!

 抽象画を見ることが増えています。
 なぜでしょうか?
 事実(現実)を見ていない人(見たくない人)が増えているのでしょうか?
 AIはそのような現実から生まれてきたのでしょうか?
 日本では「鳥獣戯画(12~13世紀)」のように、古くから書かれていました。
 平安末期から鎌倉時代初期ですので、世の中が荒れ、現実から逃避したくなる時代だったのでしょうね!

鎌倉 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

一人の時間を味わい深く過ごす力!

 一人旅を受入る宿泊施設が増えているようです。
 今は情報が増え過ぎ、自分の五感で情報を集める機会が少なくなっているようです。
 都会から離れ、身本の目、耳、鼻、現地の食べ物や肌感覚など、新しい情報に触れることが出来ます。
 Netからは得られない情報を、五感で得ることが題字にされる時代になってきているようですね!

2026年8月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : risetu

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。

 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

 小津安二郎監督の代表作「東京物語」のロケ地、港の守護神とされる神社。

段取りこそ、自分と人との関係をスムーズに運んでゆく!

 一方向の情報しか受け入れない人生、そのような人が社会で尊敬されるようです。
 いわゆる専門家です。
 選挙でも専門的に詳しい人が選ばれるようです。
 福岡県や横浜市で選ばれた人達が問題を起こしています。
 アメリカ、ロシアでもそうですね。
 少なくとも江戸時代のように、権力・才力・名誉は、1人に集中しないように分散する必要がありますね。
 分散すれば、自然災害を除けば、平和な時代が永く続く時代に近づくようですね!

愛川 八菅山修験の第五番目の行所「塩川の滝」

 塩竈の滝は、八菅山修験の第五番目の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属したことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性をみとめ、滝が御神体であり、本尊であり本地仏であった。この社は、大日孁尊(おおひるめのみこと)となっているが、系列を同じうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(おおなむじのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))とし、本地仏に千手観音を祀っており、神仏習合のすがたを整えていた。そして「滝篭り」による厳重な修行が行われていた。(案内板より:愛川町商工観光課)

生きることに絶望する人が戦争を起こしている!

 古代エジプトに見られる太陽信仰、これは「日はまた昇る」ため、一旦死んでも再生できると考え、不老不死の信仰になったのでしょう。
 その信仰が、戦争で命を失っても再生できると思わせ、だんだん激しい戦争になって行ったのでしょうか?
 そういえば、太陽族と月族がおり、太陽信仰だけでなく、月を信仰していた民族もいるようです。
 竹取物語では、かぐや姫が月に帰るとき、皇子に不老不死の薬を置いて行ったのですが、皇子はその薬を富士山に捨てたようです。月族信仰を物語っているのでしょうか?

鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」

 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。

 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。

 日蓮上人の鎌倉草庵の地。

 日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。

 裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。

苦手なエアコンと上手に付き合う!

 むかし勤めていた会社でタイから来た人達、昼食の時、食堂の七味唐辛子がアッという間に無くなっていました。
 暑い国ではトウガラシをたくさん貯めることを知りました。
 トウガラシに含まれる成分が、暑さ対策に効果がある、とのこと、熊本の暑さ対策に効果があるのでしょうか?
 現在からみ成分が強いものが日本の食堂でも発売されています。
 でも、暑さ対策としてはどうなのでしょうか?

2026年8月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : risetu

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。

 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

厚木 飯山の観音さん「長谷寺」

 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。

性格は、人生のいろいろな段階で変わっていく!

 意欲が無いといつの間にか悲観的になっていることが多いですね。
 希望を持つには、前向きに考えることが大事ですね。希望をあがあれば悲観的になることはありません。
 失敗しても前向きに考えていれば、新たな希望が見つかります。
 前向きに考えることに、ボランティアかと同派役に立つのでしょう!

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

嫌われているなと思っている人には挨拶をしておく!

 自然に話せる人がいたり、気お使いながら話す人がいますね。
 相手が、自分の知識にこだわる人は、話しにくいですね。
 知識というものの多くは、ある条件の中で正しいものが多いのですが、そのことを意識しないで、どの場面でも正しいと思っているようです。
 それに気づいたのは小学校の家庭科の時間です。
「新鮮な魚の見分け方」で教科書には
 ①目の色の澄んでいるもの
 ②えらの色が鮮やかなもの
 などが書いてありました。
 しかし、私の育った町では、魚に触って動くかどうかでした。タコとかイカでは、吸盤にさわって吸いつくかどうかでした。
 テストに体験をもとに答えを書くと「×」なのでしょうが、教えられる知識に疑問を持ちました!

鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開 創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

 天気が良ければ、ここから富士山が見えます。

物質的な富を誇っても、その人自身の価値ではない!

 自然にそって生きていくのが生物の基本。
 その本の中で、状況に応じて協力しながら生きてきた人間。
 しかし、文明が出来、産業革命を行い、いつの間にか自然は制御できると、思ってしまいました。
 でも、自然はそう簡単には、人間の思うとおりにはなりませんね!