福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

「祈雨・止雨の祈願」

 古代、日本では馬を神の乗り物として神聖視してきた。そのため神に願いを届ける際には、生きた馬を捧げるという習わしがあった。
 とくに降雨を願う際に神馬が献上された。降雨を願うときには「雨雲」を象徴する黒馬、止雨を願うときには「太陽」を象徴する白馬を奉納するのが常だった。
 平安時代、天皇はしばしば勅使を派遣して馬を奉納し、祈雨・止雨の祈願を行った。

「絵馬の発祥」

 古代、雨乞い止・止雨を願う際は、生き馬が献上されたが、平安時代中期になると、土や木でできた馬型の像が代わりに用いられた。やがてそれらが簡略化され、神馬の姿を額に描いた絵馬が奉納されるようになった。

ぶらぶら歩いていても明らかに身体にいい!

 ウオーキングは体に良いと聞きます。ウオーキングの途中に、五感を働かせ、移動中の自然の移り変わりにも注意を向けてほしいですね。
 ただし、都会では公園にしか自然が残っていないのですが。
 子供時代、自然の中で遊び回り、可能ならむかしのガキ大将のような子がいると、危険なことを避ける方法など、多くのことが学べます。
 できればゴム草履など履き、足の裏からの感覚が育つと、より安全に自然の中で遊べるようになるのでしょうね!

座間 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀「鈴鹿明神社」

 欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。

 雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
 最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。

和食は「ヘルシーな料理」?

 つい、和食はヘルシーと思ってしまいます。でも、塩分が多い地域もあります。
 むかしは、運搬の方法があまりなく、地産地消でした。味噌や醤油なども、小さな工場が、それぞれの地域にありました。
 工場用のロボットもAI化してくると、運搬費用削減のため、運転手不足の解消のため、小さな工場があちこちに出来てくるのでしょうか?
 地産地消が復活すると、和食の多様性も復活するのですが!

鎌倉 由比ヶ浜辺の八幡宮をここに遷した「鶴岡八幡宮」

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。
 鶴岡八幡宮は参道の若宮大路(国史跡)と共に、政権都市・鎌倉の中心となりました。若宮大路にある大鳥居(ーの鳥居)も国重文です。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

 本宮(上宮)の楼門の額の「八」の字は、「ハト」が向かい合って書かれています。尾道の古寺浄土寺で聞いた話しですが「平家は伝書鳩が使えなかった。源氏は伝書鳩を使うことができた……」とお聞きしました。伝書鳩は時速60~100kmで飛ぶことができるそうです。伝書鳩は通信手段として、古代エジプト時代から使われていたとのことです!

早起きでプラスの気を吸収!

 正月に「初日の出」を見に行くのは、「””朝日””の出会いの糧」を期待して生まれた言葉なのでしょうか?
 日本語は面白いですね、思ってもいないところで言葉がつながってきます。それが、発想を豊かにするのでしょう。
 ところで、昔から、季節のポイントの日に日の出や日の入りの位置に合わせ、岩のすき間や鳥居、山門などの位置を決めたものが多くあります。
 なにかしらのエネルギーを期待したのでしょうね!

尾道 応神天皇休息の地「亀山(久保)八幡神社」

 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。
 神社としての創建は貞観年間(859年~877年)と伝わる。当地は京都から宇佐八幡に勅使を派遣する際のご参詣及び宿泊の地となり、当地を亀山八幡宮として祀ったという。
 境内には一対の灯篭「軍配灯篭」や手水の水盤の牡丹の彫刻が見事とされている。

西欧は"罪の文化"、日本は"恥の文化"だと!

 日本は「恥の文化」と言われていたのですが、現在の犯罪を見ていると、「恥」はどこかに行ってしまいました。
 「恥の文化」は消えてしまったようですね。
 以前は、映画やテレビで時代劇が多く、そこから「恥の文化」を学んでいたのでしょうか?
 海外ではサムライブームが始まっているようですが、日本では時代劇は増えてきませんね!

鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」

 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

AIは人類の進化にプラスになるのでしょうか!

『新しいタイプのビジネスマン』
 情報収集、加工、発信という情報操作に長けていること。
 そのための道具となるコンピュータ端末やOA機器が扱えること。
 また、その時代を読む感性、すなわち情報感性とその情報の読み、情報をつくり出す力、そしてその道具を使いこなす力は、いまのビジネスマンに必須の学習項目なのですが、それにAIが加わると、いっそう良くなるのでしょうか、それとも、楽をして学習しなくなるのでしょうか?

厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。
 が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
 なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。

「何か食べたい」と思ったとき!

 人類の歴史は、空腹の歴史という。現在の日本は、当時に比べれば「飽食の時代」ですね。
 そのためか、飽食が健康被害になるのですね。また、日本では肉食に縁がないため、現在の肉食が増えてくると、やはり健康被害につながるのでしょうか。
 「ひもじい(腹がひどくすいている)」という言葉もあまり聞かなくなりましたね。でも、食品の物価高は健康にどんな影響を与えるのでしょうか?

尾道 行基菩薩創建と伝えられる「西国寺」

 金堂  重要文化財(国指定)

 度々の火災により焼失し、現在の堂は南北朝期、備後の守護山名一族によって再建。
 和様を基調とした折衷様式で来迎壁は再建当時の壁面と思われます。

 堂内に金色の仏像を安置し、装飾も金色に光り輝いていたために名づけられたもの。一説に、仏を金人というため、本尊仏を安置した堂をこう名づけたともいう。 伽藍の中心で、一寺の本尊を安置した堂。平安中期頃までは、本尊を安置する堂を一般に「金堂」と称していたが、以後は「本堂」と呼ばれるようになった。

大政奉還に驚いたのは、実は「朝廷」!

 歴史では、朝廷の金銭問題はそれほど取り上げられないですね。
 朝廷の財政状態の推移や、お寺や神社の財政問題、かなり苦しい時代もあったのでしょうね。
 苦しい時代を乗り切るための、ビジネス感覚が重要だったのでしょうね。しかし、それらはほとんど語られないですね。
 「墓じまい」が高額になっているのも、そのような事情があるのでしょうね!

江戸時代には山伏の修験が行われた!

祭神:応神天皇 ( おうじんてんのう )

 磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されています。
  神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られています。
 この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)がありました。
 江戸時代には当社では山伏の修験が行われ、沢山の家業繁昌厄除の護摩が焚かれた。また、この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑わったと伝へられています。当時は対岸の依知山際等からも参拝があり、特に火渡りの護摩が有名でした。
 明治始めの神仏混淆の禁止令により別当職が解かれ八幡大神となった。

肥満には遺伝的な要素も関わっています!

 テレビで「大食い」の人の放送がされます。
 大食いの人は、基礎代謝で使われるエネルギー量に差があるのでしょう。
 基礎代謝で大量のエネルギーが必要な人は、大食いをせざるをえないのでしょう。
 これは生まれたときから、そのような遺伝子があるのでしょう。
 ということは、先祖から食料に困らない生活をしていたのでしょうね!

鎌倉 護良親王の遺子日叡が父の霊を弔うため「妙法寺」

 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂(ほっけどう)が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(いし)日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
 妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
 この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭(たっちゅう)が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

何を望んでいるかをしっかり見つめ直して!

 情報化社会になり、自分ではそれほど深く考えないで、ネットで関連情報を検索したり、AIで回答を求めたり、便利になりました。
 が、回答が洗練されてしまい、自分らしさが失われていきます。
 「自分らしさ」が失われた社会、これをとするか、???やっかいですね。
 社会が安定した状況になれば良いのですが。戦争がなくなったり、原爆が禁止になったり、どうなるのでしょうか!

尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

 ヨットやボートの停泊設備です。
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

生体には自然治癒力が備わっています!

 悩みがあると、自然治癒力が弱ってしまうそうです。
 前向きに生きるには、前向きに考え、その考えを元に生活する、ということが、健康の原点。
 前向きに生きるには、自分で考え、その考えの方向で、ものごとに取り組むことが必要なのですが、AIが「考え」まで踏み込んでくる時代、悩みは少なくなるのでしょうが、それがプラスに働くか、マイナスに働くか、どうなるのでしょうか?