御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祀ったもの。
風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」
としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
天之御中主神(あめのみなかぬし)は、『古事記』の一番最初のくだりに「天地(あめつち)初めて起こりし時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神」とあります。天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきたときの最初の神。天の中心という意味の名を持つ神様ということです。
鋳物師と小坊主(荻野地区)
荻野には、鉄や銅を使って鋳物を作る鋳物師(いものし)(「いもじ」ともいう)がたくさん住んでいました。もとは飯山に住んでいたものが、移り住んできたようです。難波氏、木村氏、毛利氏などが鋳物師として活圖しました。荻野で鋳物が盛んになったのは、荻野川から原料の砂鉄が手に入りやすかった上に、砂鉄を溶かすための木材も手に入りやすかったからでしょう。
鋳物師の木村氏は後に仕事をやめますが、それには次のような言い伝えがあるのです。
荻野の宿(しゅく)原(はら)にあった仕事場に、いつのころからか一人の小坊主が現れ隅雨の日も風の日も仕事の様子を見ていました。しかし、ふと気がつくと姿が消えています。不思議に思った職人の一人が、これはきつと妖怪にちがいないと思って、とうとうこの小坊主を殺してしまいました。
その後、木村家にはよくないことが続いたので、鋳物師の仕事をやめてしまったということです.木村家では、この小坊主を供養するために、はなぶさ稲荷を建てて、その霊をとむらったといいます。
【出典】『厚木の伝説・厚木地名考』『あつぎ子ども風土記』
厚木地方で、最初に鋳物が始まったのは飯山郷といわれています。飯山郷は平安時代の中期以降は毛利庄の一部で、鎌倉初期の頃には幕府の中枢にいた大江広元が毛利庄全域を所領としていました。
飯山郷は毛利庄の中であり、幕府と広元の関係から鋳物を作る物部氏の一門が飯山に来て、鋳物作りを始めたと説明しています。
日本神話で「天の中心の至高神」とされている天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)。
天と地の始まりのとき、天の高天原に神々が自然と現れて出てきた。最初の神さまで、妙見とは北極星・北斗七星のことで、それを神格化して最高神として崇拝するのが妙見信仰が生まれました。最高神は
仏教では妙見菩薩、神道では天之御中主神とされています。
天之御中主神は天の中心にあって天地を主宰する全知全能の神とされています。
千葉氏一族は、千葉氏の守護神の妙見を勧請して祀ることが多いです。
安土桃山時代の末期、豊臣秀頼の発願による京都方広寺の大仏殿再建に際して巨大な梵鐘を鋳ることになり、諸国から17名の卓越した鋳物師が選ばれました。その中に相模国から木村五郎右衛門が加わり、高さ壱丈四尺(4.2m)の大梵鐘の鋳造が行われました。
方広寺の梵鐘の銘文の中に「国家安康」と「君臣豊楽」の文字があり、これが「徳川家康の家と原を分断し、豊臣家を君主とする意味を持つ」ということを家康に讒言した者がこれがきっかけとなり慶長19年(1614)に大阪冬の陣、翌元和元年に夏の陣が起こったのです。