尾道 魔除けの神猿さんが「山脇神社」

 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。

 祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。現存する最古の記録は、棟札に見える「享保十三年」(1728年)の墨痕があります。

神道の“自他一如の法則”という教え!

 智慧は、学問的知識や頭の良さの発揮と思われがちですが、そうではないようです。辞書によると「人生経験や人格の完成を俟(ま)って初めて得られる,人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。叡智(えいち)。」とのこと。
 具体的には、「誰にも親切にする」と思った方が合っているようです。相手の立場で考え、相手のメリットになりそうなことが出来ることが「智慧」と、思った方がよいようです!

鎌倉 熊のような猫が住みついたという「報国寺」

通称:「竹の寺」
 1334年創建。開基は、足利尊氏の祖父、足利家時で、開山は天岸慧広(てんがんえこう)。
 1438年の永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃(10歳または14歳)している。

【伝説】
 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。

「自分」とは「自然の一部分」なのである!

 昨今は「いただきます」という言葉を、感覚で理解している人が少なくなっているようです。言葉での説明で、分かったつもりになっているようです。
 自然の中で生活していれば、少しの説明で「いただきます」の意味を感覚的に理解できます。
 自然の中で暮らし、食事のたびに「いただきます」と繰り返していると、自然に感謝する生活が根づいてきます。そして、周りの人たちへの気づかいもできるようになっていくのでしょう。
 この環境が壊れた結果が、異常な犯罪に結びついてしまうのでしょうか?

福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
 元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
 なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

ものごとを理解するときには頭と体の二つを使う!

 むかしは、「仕事は、見て盗め」が原則でした。見ながら、やってみて、自分で悪いところを見つけ、改善し、それを繰り返していました。
 しかし、能率優先になり、マニュアル化し、あるいは、自動化してきました。その結果、経験が少なくても、安定した品質を保つことができるようになりました。
 これは、社会としては進化をしたのでしょうが、ヒトとして、個々人の進化を手に入れることが出来たのででしょうか。
 この流れは、ヒトの定められた進路なのでしょうから、どううまく乗って行くかを考えるしかないのでしょうね!

鎌倉 頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺「満福寺」

 開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。(案内板より)
 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

弱い存在がゆえに身につけたものがある!

 人はなぜ、強い者が生き残ると、考えてしまうのでしょうか?
 「自分は弱い」という意識が持続していれば、どんな状態であれ、いろいろと工夫を続けて、自分の弱みを少しでも改善しようと、がんばり続けます。
 しかし、「自分は強くなった」と思ったとたん、じわじわと弱みをが出始めます。 傲慢とは、「思い上がり=弱み」がはっきりと出始めた状態。この先は………。ロシアのプーチン大統領は、どうなるのでしょうか?

尾道 自然の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。

 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

なぜ、未来はわれわれを必要としないのか!

 どうも、そろそろ人間の知恵が、惠(めぐみ)をもたらすことに限界が近づいてきたのでしょうか?
 便利さが、人間の機能を劣化(熱中症、もしかすると認知症も?)させ、そのうちロボットに養ってもらう時代が来るのかも知れません。
 もしかすると、無意識に、便利さを失うのなら、人間は滅亡してもよいのでは、と感じているのでしょうか?

厚木 樹齢八百年以上の楠木「子安神社」

 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。
 境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。

 火の中で無事出産したことから木花之佐久夜毘売が火をコントロールする神として富士山の神とされ、家庭円満、安産、子安、水徳の神としてのご利益へと結びつき、さらに、三皇子の誕生を祝って酒造りが行われたことで酒造の神ともされています。

「足るを知る」の思想で考える!

 人類自身が、「人類の滅亡の原因が、人類自身にあるのでは?」と気づき始めました。そして、人類の滅亡は、人類自身では防ぐことが出来ないであろう、と感じ始める時期が来そうです。
 「足(たる)を知る」ということができれば、人類の滅亡を防ぐことが出来そうですが、脳の設計上、どうも無理なようです。
 そういえば、人類が発明した技術の多くは、AIも含めて「無生物」を使うものです。無生物が、生物である人類を制御する時代がどんどん進化していますね!

鎌倉 1283年、正式な僧が100人いた「円覚寺仏殿」

【伝説】
 寺名・寺地は、はじめ北条時宗と蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。白鷺池・国師来朝の際、八幡の神霊が白鷺に化身、国師を導いてこの池に降りたったのを記念して名づけられたという。

50代、新しい一歩を踏み出す年齢だ!

 子ども時代から、100点を目指すように取り組んでいると、大人になり、働くようになっても、やはり100点を目指すようになってしまいます。
 そのままそれを40~50年も続けていると、そこから外れたときも、その影響が強く残ってしまいます。しかし、退職すると、その力を発揮するところがなくなってしまいます。
 早いうちから、趣味や習い事に取り組み、対策をしておくと、その後の20~30年、愉しく生きることにつながります!

尾道 浄土寺山の八合目あたりの巨岩に「不動岩」

 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。
 真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。

 この不動明王の彫りはみごと。花闘岩を彫ったとは思えないくらいレリーフのやわらかさが際立)つ芸術作品です。
 ここにも尾道の石工の技が存分に発揮された文化が残っています。尾道で最大の磨崖仏です。

これからは江戸時代以来のおけいこごとのブームが!

 「教育は投資」という状況が、少しづつ緩和されてくるようです。しかし、それが充実した人生づくりに、どの程度役立つのかは不明です。
 生成AIが進化・普及すると、知識を持っているだけでは、仕事上の優位とは言い切れない場面も増えてくるのでしょう。
 しかし、お稽古ごとは、人生を豊かにするものです。自分自身を豊かにするだけでなく、いろいろな人とのつながりも増えててきます。
 長寿社会を考えたとき、充実した人生を長く手に入れるためにも、「お稽古ごと」は大切ですね!

福山 鞆 日蓮宗への改宗を拒否、浄土真宗「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。

 ここは室町末期の石山合戦(1570~1580年)で、住職が毛利軍と共に織田信長と戦ったといわれるお寺。福山藩との結びつきも強く、下部が袴(はかま)型の正式な鐘楼には藩から寄進された梵鐘も残っている。

自分一人、間違いないと決め込むと!

 ほんのひとにぎりの人ですが、「自分だけが正しい」と思い込んでいる人がいます。これは、おそらく動物の中で、ヒト属だけの特徴なのでしょう。というより、4~5千年以降の人類からなのでしょうか。
 これは農業が広く普及しはじめたことと関係があるのでしょうか? 
 みんなで分け与え生き延びる作戦から、農業が広まり、生き延びることが比較的可能になった結果、より豊かな生活を望む機能が発達した人が出てきて、その結果、芸術家も出てきたのでしょうが、独裁者も出てきたのでしょうね!

鎌倉 花散歩、心おだやかに「長谷寺」

寺の花だよりには、
 春の桜・藤・躑躅(つつじ)・牡丹・山吹・海棠(かいどう)。
 夏の紫陽花(あじさい)・花菖蒲・百日紅(さるすべり)・凌霄花(のうぜんかずら)・木槿(むくげ)。
 秋の萩・桔梗・彼岸花・石蕗(つわぶき)・秋明菊・紅葉。
 冬の臘梅(ろうばい)・水仙・万作・椿・木瓜(ぼけ)・福寿草・梅。
 など、数々列記されています。

話すことは書くよりも難しい技術!

 話す技術は、書く技術より、はるかに難しい、と言われる。書く技術は、自分が一方的に構成し、自分流の話の盛り上げをすれば、それで済む。
 しかし、話す場合は、必ず相手がおり、相手は何かしらの反応を、その都度行う。その反応に対応しながら、話を構成しなくてはならない。そのため難しい。
 ネットの普及は、この話すことの難しさから逃れることが出来る。ネットへの掲載は、自分流で一方的に書き、掲載すれば済む。このページもそうですが、そのため続けていけるのでしょうね!