鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。
寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。
長谷寺は山号を海光山(かいこうざん)といいます。その由来は、流れ着いた観音像が海中で光を放っていたからともいいますが、海が見える所にある寺なのでそういったのかもしれません。長谷寺の始まりは、奈良時代の736年(天平8年)であろうと伝えられていますが、はっきりとはわかりません。ただ、長谷寺に伝わっている大きな梵鐘(ぼんしょう)にT文永元年」(1264年)の年号があることから、鎌倉時代には栄えていたといえまず。さらに、足利氏(あしかがし)や徳川家康(とくがわいえやす)らの信仰も伝えられ、江戸時代には関東の三十三か所の観音霊場の一つとして観音さまを巡ってお札を納めて歩く人が、江戸や近くの町から訪れてにぎわいました。今は観音堂をはじめりっぱな建物が次々と建てられ、大仏とならんで鎌倉の代表的な名所として、国内外の人々が訪れています。
毎年、8月10日の四万六千日参りをはじめ多くの年中行事が行われ、12月18日には鎌倉でただ一つ残っている「歳の市(としのいち)」が参道で開かれ、年の瀬の風物詩となっています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」
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屋根の上にサギが舞い降りてきました。
【長谷学校跡】
1874年(明治7年)、長谷谷寺境内の池のほとりにあった客殿を教室に、長谷学校が開かれました。長谷学校は、後に桑楊(そうよう)学校と合併して移転し由比ヶ浜(ゆいがはま)小学校となりました。由井浜小学
校は、後に今の第一小学校の場所に移され、鎌倉小学校と名称を改めました。
下の境内から上の境内へ上がる石段の途中には地蔵堂(じぞうどう)があります。まわりには千体地蔵(せんたいじぞう)と呼ばれる小さなお地蔵さまが並んでおり、子どもの健やかな成長を願い、また不幸にも幼く
して亡くなった子どもの冥福(めいふく)を祈ってまつられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」