円覚寺 仏殿(臨済宗)
鎌倉市山ノ内 標高:34.4m
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 円覚寺の規模は、1283年(弘安6年)には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工(にんぐ)が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。

 1323年(元亨3年)、法堂が完成し、1334年~1335年(廷武年間)に描かれたとみられる「円覚寺境内絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。

 1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石(むそうそせき)が、後醍醐(ごだいご)天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代1こは、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。

 1590年(天正18年)、関東に入った徳川家康(とくがわいえやす)は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。当時の鎌倉では、領地から。取れる米などの年貢をお金に換算(かんさん)し、その納める金銭の量で土地の面積を表しました。これを「貫高」といい、「貫」「文」を単位としていました。その後、江戸時代もあまり変わりはありませんでした。
 幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。

 1893年(明治26年)には、シカゴの万国宗教大会で、円覚寺の管長の洪嶽宗演(こうがくそうえん)(釈(しゃく)宗演)が講演を行い、国際的に禅が知られるようになりました。
 その後、関東大震災で建物のほとんどが倒れましたが、昭和に入って再興(さいこう)されました。

  「かまくら子ども風土記(13版)」より
 山門。
 現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再建されたもの。
 階上には十一面観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。
 山門は、1783年(天明3年)ごろに再建された 銅葺(どうぶき)の立派な二重門で、伏見上皇の筆跡にもとづく「円覚興聖禅寺(えんがくこうしょうぜんじ)」の額が掲げられています。

 円覚寺は、鎌倉でも寺宝の多い寺で、開山の
無学祖元や開基の北条時宗に関係するものをはじめ、行事に使われる仏画類・仏像・工芸など多数あります。
 特に、中世の古文書(こもんじょ)は「円覚寺文書」(国重文)として知られています。また、彫刻の仏光国師坐像や絵画の五百羅漢(らかん)像、工芸の




青磁(せいじ)袴腰(はかまごし)香炉(こうろ)、書蹟の北条時宗書状など国の重要文化財となっているものが多くあります。
 円覚寺の寺宝は、ふだんは公開されませんが一部は鎌倉国宝館に展示されることがあります。また、11月3日ころの3日間行われる「宝物(ほうもつ)風入れ」のときに大部分が公開されます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 中国から日本へ渡来した無学祖元(むがくそげん)は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。

 「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」

 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めたのだ。
 元軍20万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきた、と。
 仏殿。
 
 1964年、鉄筋コンクリート造りで再建された。




 仏殿の扁額「大光明宝殿」は、後光厳天皇の勅筆と伝えられるもの(1378年)。
 仏殿の天井画(写真には一部しか写っていません)は、前田青邨監修、守屋多々志揮毫の「白龍の図」。
 前田と守屋はともに岐阜県出身の日本画家。前田の弟子には平山郁夫もいる。
宝冠釈迦如来像。  高さ:260cm
 丈六の釈迦如来像は、廬舎那仏ともいわれ、頭の部分だけが鎌倉時代に作られたもの。 脇侍は梵天と帝釈天といわれている。
 仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょ
うでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠(ほうかん)釈迦如来(しゃかにょらい)像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨(まえだせいそん)の
指導で守屋多々志が(もりやただし)描いた「白竜の図」があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より




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