鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

“ 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。
 本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。”

鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

 1334年(建武元年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼(しげかね)が建てたという説もあります。開山は、仏乗禅師(ぶつじょうぜんし)ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏(もちうじ)の子義久(よしひさ)が永享(えいきょう)の乱で自殺したのはこの寺です。
 
【伝説】
 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

“ 荏柄天神社は日本三天神の一つ。他は太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)です。菅原道真が祀られています。
 右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
 このとき、ちょうど天神(雷神)信仰が芽吹きはじめていたこともあって、道真は天神さまと呼ばれるようになったのです。
 こうした、強烈な恨みを抱えながら亡くなり、たたりをなすようになった人びとの霊を「御霊」といいます。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めまています。”

鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」

 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈願してのことでした。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となり、建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されました。初期の伽藍は火災によって失われましたが、文長三年(1354)には足利尊氏の援助で仏殿が復興されました。尊氏のこの寺に対すなみなみならぬ力の入れ方がよくわかります。

鎌倉 後醍醐天皇の側近「日野俊基朝臣の墓」

「葛原岡神社、日野俊基朝臣の墓が建てられた背景」

 室町時代から天皇家は北朝の流れが続き、南朝の天皇の手から政権を収奪したまま、幕末まで至ります。そして明治維新が起こるのですが、この維新も幕府を倒して実現した王政復古です。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。
 長きにわたり北朝が帝位についているのは、大名が日本の政府を聾断(ろうだん)したからであり、理念からは正統な「南朝」に政権をお戻しすることこそ国の基を正す道である、と考えました。
 これほどの深く、かつ生々しい思想・理念の大闘争が、明治維新の本質なのです。

鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」

 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。<br>
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
  1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。
 赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

鎌倉 由比若宮、由比八幡宮ともいう「元鶴岡八幡宮」

 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。
 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」

 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 臨済宗建長寺派に属し、正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称するこの寺院が建つ扇(おうぎ)ガ谷(やつ)ー带は、源頼朝の父である源義朝の屋敷跡だと伝えられており、はじめて鎌倉入りした頼朝が幕府の中心を置こうとしたのも、この地であった。
 しかし、この場所が屋敷を建てる用地としては狭すぎることや、すでに亡き父の御堂があったことなどから、頼朝はそのことを断念したと伝えられています。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 正和年間(1312~16)に退居寮として開創。
 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。
 江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺です。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 本堂は龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれ、関東大震災で倒壊した後、1925年(大正14年)に再建されました。
 本堂には、中央に開山である心昭空外坐像その前にタイから伝わったといわれる銅造釈迦如来(しゃかにょらい)像、右の方に厨子(ずし)に入った十一面観音菩薩(かんのんぼさつ)立像(りゅうぞう)などがまつられ、堂内の襖(ふすま)には竜や牡丹(ぼたん)とか唐獅子(からじし)などが描かれています。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
 もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 祭神は、宇迦御魂神(うがのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
 お稲荷さんのご祭神は須佐之男神と神大市姫(かむおおいちひめ)の子供の女神・宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)で、食糧を司り、とくに稲の豊穣を護るのである。だから、古来より米を生産する農家だけでなく、米を主食とする日本人の尊崇を集めてきた。

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 小動神社は、明治以前は八王子宮と呼ばれていて、明治の神仏分離政策によって、「建御名方命」を奉ることになり、以来、地元の氏神として町民たちに親しまれている。境内の奥には展望台と、かたわらには海防のため、幕末に砲台が構えられた跡があり、腰越砲台として知られる。
 小動神社の例祭は、かつて江ノ島から小動神社まで神輿をかついだまま海の中を渡るというものであったとか。

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 岩船地蔵堂(海蔵寺)の地蔵尊。奥に石造地蔵尊を安置している。頼朝・政子の娘・大姫の守本尊と伝えられています。
 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が伝わると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのです。

鎌倉 神の霊水が岩の間から湧き出ている「銭洗弁天」

 源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。

鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。

 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。
 その後も、たびたび火災や地震、津波で被害を受けてきたが、そのたびに再建の努力がされてきました。