鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。
この話は、神社ビジネスの宣伝文として作られた可能性もあるとのこと。江戸時代初期の古絵図には銭洗弁天の文字はないとのこと。明治の終わり頃は、この辺りは子供の遊び場、乞食(ホームレス)の住処だったとか、第一次大戦後、神社ビジネス(信仰ブーム)に成功し、人々がたくさん来るようになったそうです。
今はどうか知らないが、大量の銭を洗ったため、水が濁り白茶がかったようになる日もあったとか、欲を実現するのも神様の仕事なのですから、仕方のないことなのでしょう。
朝八時頃に行ったところ、5~6人の人たちが隅々まで掃除をしておられました。100万人を越える参拝者がみえるという。
宇賀神は正体がよく分からない神ですが、仏教の福神の宇賀神(うがじん)、あるいは日本古来の食物神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)のようで、もともとは稲霊(いなだま)(稲の精霊)であるともいわれている。宇賀神は「うかがみ」ともいい、食べものを意味する古語の「うけ」に通じることから、食べものを司る神ともされた。そして、この神様は弁財天と結びつき、同一神とされた。
では、泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。
だが幕府の執権たる者が、銭を洗って福銭にするなどといったことを行なうであろうか。そんなことをするとはとても思えないので、伝えられている話は作り話に違いないと見る人もいる。近所の誰かが銭を洗ってみた。案外それが銭洗いの始まりであるのかもしれない。
由来はともかく、銭を洗うと銭が増えるという。洗えばなぜ増えるのか。人から人へと渡るうちに、銭には汚れがついてしまう。その汚れを水で洗い落とし、銭を清める。そして銭の力を再生させれば、増えていくということなのだろう。
(「日本人の「縁起」と「ジンクス」」 北嶋廣敏著より)
「銭を洗う」という発想は、神社で「手を洗う」風習と同様に、疫病対策だったのでしょうか?
石の鳥居の奥の岩をくりぬいたトンネルをくぐり抜けると、たくさんの奉納された木の鳥居が並んでいる「銭洗弁財 宇賀福神社」の境内に出ます。
境内は、昔、「かくれ里」といわれたところで、立ち並ぶ木の鳥居の奥の右手に社務所と宇賀福神社の本殿があり、その左脇の洞くつの仲に弁財天がまつってあります。
これが有名な銭洗弁天で、お参りして前の小さな池で銭やお札を洗っていく人が少なくありません。この池が鎌倉五名水の一つで、「銭洗水」と呼ばれていました。
境内には、七福神をまつった神社や上の水神社・下の水神社など大小の社殿が、がけの中腹まで建っていて巡回して参拝できるようになっています。また参拝者のための茶店もあり、巳の日(巳の日が弁天様の縁日とされている)は特に賑(にぎ)わいます。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より