この銭洗弁天には、次のような話が伝えられています。
平安時代の終わりのころから世の中がたいへん乱れ、その上ききんが続いて、人々の苦しみはひどく、目もあてられないありさまでした。
源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。
夢からさめた頼朝がすぐ家来をやってその場所を探らせると、谷間に小さな川があり、その川をさかのぼると、岩の間からきれいな水が湧き出て、夢で知らされたとおりでした。
頼朝は洞くつを掘らせ、神社を建てて、夢に現われた宇賀福神をおまつりしました。そして、毎日その水を運んで供えたので、天下はしだいに治まり、盗賊(とうぞく)達もたちまち滅んで、人々は安楽な日々を送るようになったということです。
その後、1257年(正嘉元年)、
自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、
今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。
北条時頼(ときより)は、頼朝の心を継いで、この福の神を信仰し、「辛巳(み)なる金」の日を選んで人々に参拝させました。そして、時頼は、「天下の通宝(つうほう)である銭をこの水で洗い清めればきれいな福銭となり、その銭は必ず一粒百倍のカを現わして、一家は栄え、
子孫は長く安らかになるであろう。」といって、自ら持っていた銭を洗って祈りました。時頼の徳を慕って尊敬している人達は、競って時頼にならい、金銀財宝や、証書や衣類まで持ってきて、この水で洗い清めるようになりました。不思議にも、一度この水で洗い清めた金銭は、
どんな場合にもなくなることなく、お金の貸し借りなどの証文なども無事に済んで、貸借(たいしゃく)ともに、めでたく幸福利益を得るようになったといいます。
それからいっともなく、「銭洗いの水」と呼ぶようになり、