亀谷山 寿福寺(寿福金剛禅寺)(臨済宗)
鎌倉市扇ガ谷一丁目 標高:14.1m~29.7m
1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物---茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。
栄西が、ある時多額のお布施を貰ったが、それをそっくり朝廷に献納しました。その後、栄西は大師号を宣下してくれと申請しました。大師号は名僧が遷化してからの二階級特進であり、生きている人が賜った前例がなく、僧正で我慢しておくれということになりました。これは栄西が、禅宗ビジネスの発展を目論んだものでしょうか。
源頼朝が鎌倉に武家政権を開く理由ともなった源義朝館跡に、北条政子が源頼家と、南宋(今の中国)から日本に禅宗と茶を伝えた明庵栄西(みょうなんようさい)を招いて建立し、禅や茶を武家が取り入れるきっかけとなりました。
このあたりは源義朝の屋敷のあった所といわれています。源頼朝(みなもとのよりとも)は鎌倉に入ると、父義朝ゆかりのこの地に屋敷や幕府を造ろうとしたのですが、狭いことと、すでに義朝の家来の岡崎義実(よしざね)が義朝をとむらうためのお堂を建てていたので、大倉(蔵)というところに、幕府や屋敷を構えました。
頼朝が亡くなった後、夫人の政子(まさこ)は頼朝の遺志を継ぎ、1200年(正治2年)、栄西(えいさい)を開山に招き、2代将軍頼家(よりいえ)を開基として、ここに亀谷(きこく)という山号の寺を建てました。3代将実朝(さねとも)もしばしば訪れ、やがて七堂伽藍というお堂をもつ立派な寺になり、塔頭も14を数えたといわれ、鎌倉五山の第三位となりました。1323年(元亨3年)の北条貞時(さだとき)十三回忌に、260人もの僧衆が参加する大寺院でした。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
写真左端は「庚申塔」寛文八年銘(1668年)
寿福寺の門の前に庚申塔があります。中には「寛文八年」(1668年)の年号のあるものや「川上 藤沢宿」「川下 八幡」と道しるべになっているのもあります。その横に小さい川が流れていますが、道幅を広げるため、川の一部をおおったつくりになっています。昔はもう少し大きい川で、ここに鎌倉十はし(じっきょう)の一つの「勝ノ橋」がかけられていました。
山門前には高い樹木があり、ふと石に腰をおろし、一息つきたいような雰囲気があります。
臨済宗建長寺派に属し、正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称するこの寺院が建つ扇(おうぎ)ガ谷(やつ)ー带は、源頼朝の父である源義朝の屋敷跡だと伝えられており、はじめて鎌倉入りした頼朝が幕府の中心を置こうとしたのも、この地であった。
しかし、この場所が屋敷を建てる用地としては狭すぎることや、すでに亡き父の御堂があったことなどから、頼朝はそのことを断念したと伝えられている。
山門(外門)
石碑に「壽福金剛禅寺」と刻まれています。
源氏山を後ろにしたこの寺は、朱塗りの総門をくぐると、木立に囲まれた石だたみの参道がまっすぐに続き、山門のむこうに大きなビャクシン(ヒノキ科の針葉樹)が枝を広げ、禅寺(ぜんでら)の雰囲気をただよわせています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
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この参道の景色は、趣があります。
中門。
残念ながら、境内には入れません。左から裏に登っていくと墓地に行けます。
境内を囲むようにして茂る樹木で日影になっているせいか、少しヒンヤリとした空気に包まれている。石畳の参道を歩いて奥の山門をくぐると、古びた寿福寺の仏殿にたどり着く。