海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。
夏の満月の夜、このあたりに来てみるのも一興かも。
もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
底脱ノ井
右の写真は「底脱(そこぬけ)の井」
水を汲もうとしたとき、水桶の底がすっぽり抜け、悟りを開いた尼の伝説がある。
また一説には、鎌倉時代中ごろの武将の安達泰盛(あだちやすもり)の娘千代能(ちよの)の話とされて、千代能が
いただく桶の
底脱けて
水たまらねば
月もやどらじ
と歌ったことによるともいわれています。千代能は、北条氏一族の金沢顕時(あきとき)の夫人で尼となり、無著禅尼(むちゃくぜんに)といわれ、円覚寺(えんがくじ)を開いた無学祖元(むがくそげん)に参禅(さんぜん)しました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
海蔵寺(かいぞうじ)の入口の右手に、鎌倉十井(じっせい)の一つ「底脱ノ井(そこぬけのい)」がありますが、この井戸には、次のような話が伝わっています。
室町時代のころ、上杉氏の娘が尼になって修行(しゅぎょう)していた時のことです。
夕飯の仕度に水を汲むと桶(おけ)の底がすっぽり
抜けてしまいました。そのとき心の中のもやもやがすっと解け、悟りが開けたといいいます。
その尼の賤(しず)の女(め)が
いただく桶の 底脱けて
ひた身にかかる 有明の月
と歌ったと伝えられています。