東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人(にちれんしょうにん)像と釈迦如来(しゃかにょらい)像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
日蓮は鎌時代前期の貞応1年(1222)に安房国に生まれ、12歳の時に天台宗清澄寺に入って16歳で出家しました。その後に京に上り、比叡山延暦寺をはじめ京畿の天台宗の一者寺で修業した後に、故郷の清澄寺に戻りました。
しかし、日蓮は修行中に法華経に帰依するようになり、帰郷後はその信仰を強く主張し始めために、清澄寺の僧たちとの間に対立が生れ、それが次第に深刻なものになっていきました。そのため翌年に寺を去り、法華経の信仰を広めるべく鎌倉に向かいました。日蓮が32歳の時のことでした。
無視しました。
また、日蓮は立正安国論の中で浄土宗を激しく非難したため、浄土教徒の攻撃をうけて草庵を焼かれたりもしました。
さらに鎌中の浄土宗寺院が幕府に訴えて出たため、日蓮は捕えられ、一時は伊豆に流されたのでした。
鎌倉に入った日蓮は、はじめは庵を持たすに“辻説法”と呼ばれた独特の市教活動を行い、大衆に法華経を説きました。
その頃の鎌倉は大地震や洪水などの天災が続き、また疫病流行するなど深刻な社会不安に陥っていました。日蓮はこのような社会の状態を仏教的に解釈し、
法華経の功徳が人々を救うとして文応1年(1262)に「立正安国論」を著して、幕府の第5代執権の北条時頼に差し出しました。
日蓮は、その中で国内に内乱と外寇が起こることを予言し、それらに対処するためには法華経に頼ることしかないことを説きましたが、時頼は相手にせず
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立正安国論を著してから4年後の文永5年(1268)に、元(蒙古)の国書が鎌倉に届き、元の襲来が現実のものとなった。日蓮は「元寇」の予言が的中したとして、再び幇府の要人に立正安国論を呈上し、また諸方の有力者にその趣旨を書いて送り、日蓮の持論による国難の回避を主張した。
文永8年には北条時宗が第8代の執権となったが、時宗はこのような日蓮の言動は世を惑わすものとして日蓮を捕え、龍の口の刑場で斬罪に処すことにした。その年の8月12日、日蓮は刑場に引かれて斬られることになったが、刑吏の武士が刀を振りかさした時、江の島の方角から満月のように光り輝くものが
刑場に近づいた。刑吏は目が眩んで地に伏し警備の武士たちも恐れて逃げ散ったという。
後に日蓮の弟子や法華経に帰依した者たちは、この出来事を"龍ノロの法難・龍ノ口の奇瑞"と称した。