鶴岡八幡宮   祭神:比売大神、応神天皇、神功皇后
雪ノ下2丁目1−31 標高 10.1m ~ 23.7m
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 1063年 源頼義(よりよし)が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、1180年鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉にはしかるべき大工がいないので、1181年 武蔵国浅草から大工(戦争時の宮大工ら)を呼び、八幡宮の造営が開始されました。

 もとは鶴岡八幡宮寺であり、神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割をになうものでした。

 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。

 その後も、たびたび火災や地震、津波で被害を受けてきたが、そのたびに再建の努力がされてきました。

 東西約260m、南北約35mの社域。鎌倉市の中では極めて広大な敷地です。

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。
 鶴岡八幡宮は参道の若宮大路(国史跡)と共に、政権都市・鎌倉の中心となりました。若宮大路にある大鳥居(ーの鳥居)も国重文です。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
赤橋(あかはし)

 一般には神社の前などにある赤い反り橋をいう。『増鏡』十一に「あかはしといふ所に、将軍御車をとどめて降りたまふ」とあるのはその一例。ここにいう赤橋は鶴岡八幡宮の池(俗称源平池)に架けられた朱塗りの板橋をさす。『鎌倉志』には「本社へ行反橋ナリ、五間二三間アリ、昔ヨリ是レヲ赤橋トイフ」とある。橋は寿永元年(1182)五月十五目に初めて架けられた。宝治元年(1247)六月五目、三浦泰琴村一族が亡んだ宝治合戦のさい、安達泰盛らが若宮大路中の下馬橋から鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、
三浦勢を攻めたとあり、建長五年(1252)八月十五日条および正嘉元年(1257)二月二日条には、鶴岡放生会があったとき、将軍家が赤橋辺で御一車をおりたとある。のち、文禄元年(1592)豊臣秀吉が鶴岡八幡宮を修造したさい、赤橋も改修されている。
(三浦)
〔文献]『大日本地名辞書』(冨山房)、『市史』社寺編




 2014年夏 浚渫中でした。
 源氏池。

 島が3つ、三=産む…子孫繁栄の願いが込められていた。
 1182年までは水田だった。浚渫中でした。




 旗上弁財天社

 池の中には三(産、つまり繁栄を意味して、三)ツの島があり、旗人弁財天が祀られている。
 弁才天(べんざいてん)…「財富神で、「弁財天」という俗称が一般化しています。弁舌、学問、音楽に対して功徳があります。すがたは貴婦人の衣裳を着た美女で、宝冠をかぶり胸飾(むなかざり)をつけています。
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