左
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道路を渡り、左へ。
鉄の井(くろがねのい)の前を通ります。
新清水寺が焼け落ちたとき、鉄観音像のお姿はあったが、お首がなくなっていた。その数年後の井戸替えの時、井戸の底からお首が見つかった。
昔、この井戸の水は氷のように冷たく、甘い味のするよい水で、どんなひでりのときでもかれることがないといわれていました。鎌倉に水道がひかれる前は、近所の人達や通りがかりの人達も、この水を飲んでいたそうです。鉄ノ井という名がついたのには、次のような話が伝わっています。
昔、この井戸から鉄の観音像の首が掘り出されました。1285年(正嘉2年)正月17日の真夜中、秋田(安達)城芥泰盛(じょうのすけやすもり)の住む長谷(はせ)ともいわれる甘縄(あまなわ)のあたりから火が出ました。これが南風にあおられて山を越え、扇ガ谷(おおぎがやつ)の寿福寺(じゅふくじ)から窟小路(いわやこ
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明治の「神仏分離令」のとき、「八幡宮寺」が「八幡宮」になり、八幡宮などから出された仏像や経典、仏具、堂、塔、鐘などが、このあたりに放置されていたようです。
ここを右に入ります。
道なりに真っ直ぐ。
うじ)にそって新清水寺(しんきよみずでら)・窟堂(いわやどう)・八幡宮の若宮や別当坊などを焼いてしまいました。そのとき、新清水寺にあったこの鉄の観音像も焼かれ、土のなかに埋まりました。掘り出された観音像は小さなお堂にまつられていましたが、明治時代に、東京都中央区の人形にある大観音寺に移されそ
この本尊となっています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より