かくやいかにの記 一冊。江戸末期の随筆。金座の役人長谷川元寛の作。
文政四年(1821)正月17日の午後雪ノ下に住む藤兵衛の家から出火、折からの強風で八幡宮に延焼し、大火となった状況が精細に記述されている。八幡宮の消防に鎌倉十三か村が持場を定めて当り、その活動や宝物などの搬出、さらに御谷の十二院ら裏山に燃え、今泉不動を経て北の山々燃えひろがり、十八日の午後鎮火したとある。
東京都立日比谷図書館(加賀文庫)写本がある。『未刊随筆百種』八所収。(白井)
義時の代役を務めて凶刀に倒れた源仲章こそ不運としか言いようがない。もし公暁が実朝と義時の二人を倒していれば、歴史の歯車はどうもあったのだろうか。凶刃を逃れた義時は運が良かっただけなのだろうか。政敵を次々に屠ってきた老獪な義時である。公曉と通じていたとは考えられないが、公曉の計画を察知していて、実朝暗殺を利用したのだろうか。事実実朝の死により、北条氏中心の武家政権の基礎が築かれることになるのだから。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
正面の石段の左横に大イチョウがあったが、2010年3月倒れた。
源実朝暗殺のため、源頼家の子の公暁が潜んでいたという。
頼家や兄の一幡、さらには後見人だった比企能員を死に追いやったのは北条義時だったはずである。実朝は、北条氏に祭り上げられた将軍だっただけである。命を狙うのであれば、実朝よりも義時ではなかったのか。
公暁は、実朝と義時の二人を
暗殺するつもりだったのかもしれない。義時が拝賀式をキャンセルしたため、討ちもらしただけなのか。義時の代役を務めて凶刀に倒れた源仲章こそ不運としか言いようがない。もし公暁が実朝と義時の二人を倒していれば、義時が拝賀式をキャンセルしたため、討ちもらしただけなのか。