寂光山 龍口寺
藤沢市片瀬三丁目  標高:18.3m
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霊跡本山 寂光山 龍ロ寺縁起 -案内板より-

 鎌倉時代、日本は内乱や大震災.叡僅疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
 しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪ロの咎」に当たると解釈し、文永八年(1271)九月十二日、鎌倉松葉ケ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノロの刑場に連行した。
 日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノロの刑場へ処刑中止の使者を送った。
 その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、十三日の子丑の刻(午前二時頃)、日蓮大聖人を土牢から引き出し、敷皮石に座らせ、斬首の準備を整えた。
 その瞬間、江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来たり、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止となった。
 その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ三年間流罪となったが、この大法難によって日蓮大聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、その後、数々の重要な法門を著述された。
 この霊場は、延元二年(1337)、直一弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作の祖師像を安置したのが始まりであり、大聖人自ら『龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか』と獅子吼された随一の霊場である。
 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
 当地は江ノ島弁天に恋した五頭龍が鎮座し、その口の部分に当たる為、龍の口という。
 蛇とお金といえば、「蛇のぬけがらを財布に入れておくと金が溜まる」「蛇革の財布を持つと金が溜まる」というのがあり、どちらもよく知られています。
 蛇は長い体を持っており、脱皮しながら再生する。それにわりと長生きします。そこから永続、繁栄、お金などのイメージが生じたのでしょう。
 このお寺には、龍が沢山住んでいるようです。
    村岡久作氏作の仁王像が
 龍の身体は蛇を巨大にしたもの。蛇の夢は吉で、蛇の夢を見ると、「お金が儲かる」「銭を拾う」「金運に恵まれる」などといわれており、「蛇を飼えば金持ちになる」「蛇が縁の下にいると金が家から出ない」「蛇が懐に入ると金持ちになる」という俗信もあります。






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