相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
  1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。 <br>
   その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。

8歳~9歳の時代、「徒党を組み出し」ます!

 子供のとき、自然の中で遊んでいると、{なぜ?」「なぜ?」だらけです。そして小学校に上がると、学ぶことで「そうなのか」とわかってきます。
 「感覚からの情報が先」、「知識からの情報は後」、これが普通になってくると、1つの考え方にとらわれなくなり、曖昧さの中で暮らすことが普通になります。
 この曖昧さの受け入れは、多様な人を受け入れることにつながり、いじめもなくなっていくのでしょうね!

福山 鞆 きつい坂や階段を上って行くと「医王寺」

 きつい坂や階段を上って行くと、後山中腹に真言宗の医王寺があります。医王寺は平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺。
 坂の途中に、「平賀源内生祠」があります。

 眼下に広がる瀬戸内海や鞆港を一望できます。

穀物は、貧富の格差、そして戦争を生んだ!

 農業で穀物ができるようになり、しかも、農業従事者1人で約2人分の食料を生産できるようになると、穀物の貯蔵ができるようになった。
 そして、その貯蔵をたくさんできる人が出てきた。その結果、富が生まれ、権力を持つ人が出てきた、
 日本は、平安末期頃から念仏宗教が庶民に広まり、庶民は団結することで、権力者に対抗できることを知った。
 800年ほど前に、庶民も力を持つことができるようになった。この歴史が、他国に比べ、日本の平和が比較的永く保つことができた原因なのでしょうか!

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

思い切り高い値段の商品を開発して売る!

 日本で長く売れている商品の中には、何かしらの物語と関連させているものがある。例えば、「きびだんご」と「桃太郎」。
 また、観光地にも伝説と結びついた場所が多くある。場所の魅力はともかくとして、物語と場所が結びつくと、その場所が長く記憶に残る。
 商品の魅力だけでは、飽きが来たときは、その商品の魅力が消えてしまうので、物語と結びつくと、長く愛用される商品になりやすいようです!

尾道 千光寺 から 市立美術館へ

「鼓岩(つづみ岩)=ぽんぽん岩」
 尾道の、海や町を見降ろす千光寺山の中腹に、ぽんぽん岩と呼ばれる大岩がある。小石を握ってその岩の真ん中を破くとぽんぽんと音がするので、そう呼ばれるのである。それはきっと、岩の内部が空洞になっている故なのだが、ぼくにはそれがまるで岩の声のように聞こえる。
 面白くて、楽しくて、そして恐ろしい。
 だから、こどもの頃から、ぼくはこのぽんぽん岩が大好きだった。面白くて楽しいだけでは駄目。こどもは恐ろしいものに心ひかれるのである。
(映画監督:大林宣彦)

これからの時代に必要な能力!

 日本の学習のやり方は、国際的には通用しないのでは? と、いわれています。
 ただ、ただ、テストでの正解の答えを記憶する、これでは変化の時代にも対応できません。テストでの正解は、過去の知識です。変化は、これからの時代です。過去の知識だけでは対応できません。現状の変化を洩れなく把握し、過去の知識を参考にし、自分の感覚をベースに判断しなくてはなりません。
 変化の時代に生きぬくのは、過去の知識だけに頼ってはいけないのです!

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

ミトコンドリアは暑さ・寒さに弱い!

 熱中症は、細胞の中にあるミトコンドリアが、温度の「高・低」に弱いためだそうです。人類は高温対策として、まず「毛を捨て」、「汗をかく」ことで対応してきました。寒さには、「毛皮や服を着る」、「火を焚く」ことで対応してきました。
 最近はエアコンの使用で対応しています。しかし、これは温暖化にもつながっているため、もっと新しい方法を見つけなければならないですね。そういえば、日本では「打ち水」をしていましたね!
 

厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

社会環境が変化のとき、これを謙虚に受け止める!

 新コロナの感染症の拡大、気候の温暖化、社会の状況が今までにない大きな変化を起こし始めています。
 日本には千年を超える歴史を持った会社が六社あるそうです。これらの会社は、同じものを造っていたわけではありません。同じ技術は使っていたとしても、社会の変化に応じた製品や商品を作っていったのです。
 社会の変化に対応して行くには、知識はあまり役に立ちません。知識というものの基本は「過去の知識」なのです。未来の知識ではありません。
 現在の状況を、洩れなく把握(現状把握)した上で、自分達が持っている技術、これから持つことができそうな技術を基本として、社会の変化に対応して来たのでしょう!

福山 鞆 江戸時代の石造では全国最大級「常夜灯」

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんです。
 航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。

化石燃料はいずれ枯渇する!

 地球の温暖化が止まらないですね。産業革命は、数十年後には、人類にとって最も大きな間違いと評価されるかも知れないですね。
 いま温暖化対策で考えていることは、新しい技術を開発して乗り切ろう、と考えています。
 ここでもう一度、伝統的な暮らし方を、一部でもいいので、復活させることを考えないといけないですね。伝統的な暮らし方を体験している人が、どんどん少なくなっているので、いまが引き継げる最後の時期ですね!

鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

社会全体が息苦しくなるのは!

 釈迦、孔子や老子は多くの人に対し、いろいろな立派な教えを説いています。
 そのような立派な人を生み出す国は、無意識に立派な国と思っていました。
 しかし、よく考えてみると、立派な言葉には到底該当しない国だがらこそ、立派な言葉が生まれるのですね。あるいは、立派な国にしようと努力しても、それが定着しない風土だから、立派な言葉が生まれるのでしょうね!

尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」

 林芙美子は尾道で13歳(第二尾道尋常小学校・現土堂小学校)から19歳(尾道高等女学校・現尾道東高校)まで住んでいました。
 芙美子にとって尾道の生活は生まれて初めてとも言えるような平和な日々でした。
 何回も引っ越ししながら、住んでいたようです。
 また、東京に出た後も、お金が乏しくなると尾道に戻り、知人の家に泊まっていたようです。
 作家目指して苦難の日が続きますが1929年「放浪記」がベストセラーとなり、作家として大成しました。
 文学の町にちなんで像が設けられました。

男性よりも女性のほうがカンが鋭い!

 ヒトの脳は、歳とともに神経細胞の数が少なくなるのでしょうか? 他の動物などに比べ脳が大きいため、生物としての余分な部分が、不必要となり、そのためか、細胞の数が少なくなるのでしょうね。
 人生が80年を超えると考えると、年齢を重ねても、いろいろな方面に興味を持ち、左脳だけでなく、感性も磨いて右脳も活用しなければならないですね。多様な脳の使い方に励み、細胞に老廃物を貯めることなく、脳の機能を維持していかなければならないですね!

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

【日蓮と白猿の話】
 1260年(文応元年) 8月のある日、日蓮は草庵で静かに読経をしていました。夜もふけたころ、机に寄りかかってとろとろ眠っていると、白い猿が3匹現われ、上人の衣にすがり、袖を引いて表の方へ引き出そうとします。上人は引かれるままに表へ出ると、ふもとの庵の方で割れるような大声とともに、たい松の火が20や30くらいちらついて見えました。何事かと思う間もなく、草庵に火をつけたらしく、火の手はたちまち燃え上がり、人々の叫び声が手にとるように聞えてきました。洞窟の前に立ってこのありさまを見ていた日蓮は、猿の手をとって洞窟の奥深く入りました。

からだの熱の逃がし方は二種類!

 むかしより夏と冬が長く、春と秋が短くなってきています。夏は汗をかいて、からだの熱を逃がすのですが、この機能はエアコンを多用していると弱くなっていくのでしょうか? また、生まれたときからエアコンを多用する環境で育つと、汗をかく機能はきちんと成長するのでしょうか?
 ヒトはからだの毛を無くし、からだを冷やす機能を充実させたことで、長時間の移動が可能となり、他の生物と比べると優位になってきました。エアコンは、進化の過程で手に入れた、からだを冷やす機能の劣化に影響しないのでしょうか? むかしより夏と冬が長く、春と秋が短くなってきています。夏は汗をかいて、からだの熱を逃がすのですが、この機能はエアコンを多用していると弱くなっていくのでしょうか? また、生まれたときからエアコンを多用する環境で育つと、汗をかく機能はきちんと成長するのでしょうか?
 ヒトはからだの毛を無くし、からだを冷やす機能を充実させたことで、長時間の移動が可能となり、他の生物と比べると優位になってきました。エアコンは、進化の過程で手に入れた、からだを冷やす機能の劣化に影響しないのでしょうか?