鞆の港 常夜灯
福山市鞆町鞆  標高:2.6m
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 江戸時代の石造りとしては全国最大級

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんですよ。航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。

 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。
 「本能寺の変」の原因がここにあったのだろうか?

 室町幕府最後の将軍、足利義昭は毛利輝元を頼って、1576年に鞆に移りました。長期滞在となり鞆幕府とも呼ばれました。足利義昭がまだ鞆に滞在中である1582年6月2日に、明智光秀による本能寺の変で、織田信長忠が討たれました。

 その2年前には、織田信長を裏切った武将の荒木村重は、隣の港町尾道に滞在しており(1578年10月、突如、信長に対して反旗を翻し籠城したが、その後脱出し、1580年には尾道に滞在)、また、尾道の西国寺には、長宗我部が織田信長を呪った祈祷文と思われる文書が残っているとか。鞆の港は瀬戸内海の中央にあり、瀬戸内海に面した中国、四国、北九州の情報も多かったのでしょう。
 また、尾道の浄土寺には、伝書鳩を使った通信の技術もあったようです。

 そういえば、江戸時代に大阪の米相場の情報を、伝書鳩を使って入手していた尾道の浄土寺の言い伝えでは、「源氏は伝書鳩を使うことができたが、平家は出来なかった」とか。戦争ではローマ時代から使われていた(中国でも使われていた)伝書鳩という通信手段が、日本の歴史の中に出てこないことは不思議ですね!
 南端に立つのは安政6年(1859)に造られた巨大な常夜燈で、鞆港のシンボルとなっています。
 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「當所砥園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額を掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進灯籠という形式を取っているんですよ。
航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。






いろは丸展示館:
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