尾道にゆかりの深い作家林芙美子。1916年に尾道に移り住み、尾道高等女学校(現・東高等学校)を卒業後上京し、作家目指して苦難の日が続きますが1929年「放浪記」がベストセラーとなり、作家として大成しました。文学の町にちなんで像が設けられました。
幼少時代尾道で過ごした林芙美子は、生涯この町を愛しました。
現在でも芙美子の命日にはこの像の前であじさいの献花や詩の朗読が行われます。 尾道の待ち合わせスポットとしても人気。
林芙美子は尾道で13歳(第二尾道尋常小学校・現土堂小学校)から19歳(尾道高等女学校・現尾道東高校)まで住んでいました。芙美子にとって尾道の生活は生まれて初めてとも言えるような平和な日々でした。
何回も引っ越ししながら、住んでいたようです。また、東京に出た後も、お金が乏しくなると尾道に戻り、知人の家に泊まっていたようです。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」と書きながらも、最後は必ず強く生きますと、書いた芙美子。この感性を育てたのは、ほかならぬ詩情にみちみちた尾道の風景、風土と人々の人情、明るさにあった。苦しい時悲しい時嬉しい時も、人生という旅のふる里として恋い慕い、愛したのが「尾道」です。
多感な少女時代を尾道で過ごし、その文学的な才能を開花させた林芙美子が、作家となって「旅のふるさと」尾道へ帰って来たときの姿をイメージしたこの像は、すっかり尾道のシンボルに。向島町に住む若手彫刻家高橋秀幸さん制作。
芙美子は明治三十七年十二月下関市に生れ、貧しい両親と放浪の旅を続け、大正五年尾道市に移り住んだ。そして十三才にして十幾回目の小学校尾道第二尋常小学校(今の土堂小)五年生に編入。大正十一年に尾道高女(今の尾道東)を卒業、ただちに東京に出て女工、露天商、派出婦、女給など辛酸をなめながらも文学に心をよせ、昭和三年に詩集「蒼馬を見たり」を発表、同四年尾道が舞台となっている出世作「放浪記」を改造社から出版した。
どこを見つめているのでしょうか?
多感な少女時代を尾道で過ごし、その文学的な才能を開花させた林芙美子が、作家となって「旅のふるさと」尾道へ帰って来たときの姿をイメージしたこの像は、すっかり尾道のシンボルに。向島町に住む若手彫刻家高橋秀幸さん制作。
「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子の第二の故郷尾道には彼女ゆかりの碑があちこちに点在している。
放浪記の一節
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、慎煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、
左の放浪記の一節を見たとき、上の写真の光景が浮かんできます。
山は爽やかな若葉だ。……