海老名 高野山真言宗の寺院「総持院」

「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
 また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

海老名 神仏分離までは有鹿神社の別当寺「総持院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。
 虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
 不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。

海老名 大型の一間社流造「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。

海老名 江戸時代初期に創建「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

海老名 江戸時代初期に創建か「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

海老名 有鹿神社の別当寺であった「総持院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
 本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。

海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」

 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。

海老名 この辺の伝説[彦六ダブ]の「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

海老名 有鹿姫の伝説がある「有鹿神社」

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 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
 大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
 如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
 豪快な筆法と精緻な構図で描かれており、見るものを圧倒する迫力があります。

海老名 有鹿姫伝説の「有鹿神社」

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 海老名市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。


海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

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この辺りの伝説[彦六ダブ]
 昔、下今泉の鶴松に彦六という働き者で親孝行の若者が住んでいました。年の暮れのある日、彦六は正月用の門松を切りに、鳩川沿いの松林へ出かけました
 その日は、買ったばかりの新しいナタを持って行き、手ごろで形のいい松を探して歩きました。なかなか適当なものが見つかりません。ふと、ふりかえると、さっき見たはずのあたりに素晴らしく形のいい松が立っているではありませんか。


海老名 ショウガ市が立っていた「豊受大神」

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豊受大神縁起
 豊受皇大神は古来相模牧遠馬名神の霊跡でしたが推古天皇の六年豊受皇太神騎馬の御姿にてご降臨されてより皇太神ご東行きの処 として此地をその鎮の宮と定められた。これより後聖武天皇の神亀二年勧請遠馬名神豊受大神と称し相模国の名神大社に列せられ のち遠馬二郎時国のとき遠馬十二ヶ村の総氏神として崇められた。
 江戸時代幕府の社寺改めによって恩馬四ヶ村の総鎮守豊受皇太神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令に従い社号を豊受大神と 改称した。御祭神は豊受毘売命またの名を登由宇気大神と申し本宮は伊勢国山田原に鎮座される。


海老名 有鹿姫の伝説「有鹿神社」

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 市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両倶1」面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
 建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。