「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。
この他、貞享5年(1688)に修理された記録が残る木造地蔵菩薩半珈像があり、作風から江戸初期に造立されたと考えられています。
弘口牛大徳が開山、藤原広政が開基となって天平勝宝6年(754)に創建されたと伝えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)
虚空蔵菩薩は密教で発達した仏です。果てしなく大きな智慧と福徳があるとされ、その智慧を頼って「虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)」という修法(しゅほう)が生まれました。この菩薩の陀羅尼(だらに)を百万遍唱えると、人並み外れた記憶力が授かるといいます。空海もこれを成し遂げ、利益を得たそうです。
不動明王は平安時代初期、空海により密教とともに日本に伝えられました。鎮護国家の祈橋の対象となった一方で、山岳信仰と結びついた※修験道(しゅげんどう)でも重視されていました。また、屈強な容姿から軍神として武士の信者も増やします。大衆へも広まって、功徳も多様化しました。
毘沙門天は四天王の一尊で多聞天の別名がです。ヒンドゥー教ではクベーラと呼ばれ、北方を護り、財宝や福徳を授ける神とされてきました。日本では平安時代の初期に信仰がはじまります。御所の守護のため、平安京の北に位置する鞍馬寺(くらまでら)に祀られていました。また、武将の間では、戦いの神として篤く支持されます。
(イラストでわかる「日本の仏さま」 日本の仏研究会著より)