豊受大神縁起
豊受皇大神は古来相模牧遠馬名神の霊跡でしたが推古天皇の六年豊受皇太神騎馬の御姿にてご降臨されてより皇太神ご東行きの処 として此地をその鎮の宮と定められた。これより後聖武天皇の神亀二年勧請遠馬名神豊受大神と称し相模国の名神大社に列せられ
のち遠馬二郎時国のとき遠馬十二ヶ村の総氏神として崇められた。
江戸時代幕府の社寺改めによって恩馬四ヶ村の総鎮守豊受皇太神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令に従い社号を豊受大神と 改称した。御祭神は豊受毘売命またの名を登由宇気大神と申し本宮は伊勢国山田原に鎮座される。大神は天祖伊弉諾尊の御孫和久 産巣日神の媛神で始めは丹波国真井原に鎮座されたが雄略天皇のとき伊勢国に遷座されて豊受宮度会宮と尊称した。のち豊受皇太 神と称され五穀を司る大神として伊勢神宮の外宮に祀られ御饌津神として永く尊崇された。
推古天皇の代にこの地は豊受皇太神の御鎮座によって五穀豊穣し丘稜は国華の牧肥馬の地として弥栄えて世に朱金千両黄金千両 と謡われた。また仁明天皇の承和八年後稜より天照皇太神を御遷座した。奉幣は重陽九月九日内宮は九月十日と定められた
当時の 御神域は後稜の伊勢山及び御神林御廟地をあわせて五万六千余坪といわれた 御神殿は始め後稜を御神と崇め拝殿のみでしたがのち上宮寺義玄僧正のときこれを改めて内殿の創建が行われた。治承四年七月
渋谷重国と遠馬三郎時国公によって神門社殿其の他が新しく造営され別当上宮寺の七堂も再建された。しかし正平応仁の乱を経て幾多の 兵乱に類焼し再建を重ねてきた。上宮寺もまた義玄僧正、日○上人法印養祐によって法燈がかかげられ永録六年に袖主恩馬内記は本宮
奉持の功によって正六位を叙せられた。
豊受大神は恩馬郷総鎮護の神として古来より衣食住等人間生活の根源を開発された親神であり悠久幾千年五穀の豊穣、家内安全、 安産縁結びの神学問の神と、その霊威あらたかなりと信ぜられ崇敬されている
。
[豊受神社のショウガ市]
杉久保の豊受神社では、昭和二十年代後半まで、毎年十月の例祭になると「ショウガ市」が立ち、人々はこのショウガを必ず買い求めた。
ここのショウガを食べると目が良くなると言われて
いた。かつては同神社の参道・境内に三十軒余りの屋台ができ、戸板の上に束ねた生ショウガを三角形に積んで売ったと言う。
さて、このショウガ市がいつ、なぜ始まったか、詳細は不明だが、それを物語る話が杉久保地区で語り伝えられている。
いつのころか分からないが、昔、杉久保村の豊受神社の境内に釣り鐘が置かれていた時代があった。ある時、ある人がこの鐘を何気なく撞いたところ、後ろに人が立っていて、その人は揺れた撞木(鐘を撞く棒)にぶつかり、片方の目がつぶれてしまった。
この事件があってから、この鐘は神社にとってはあまり用のないものの上、不吉なものと忌み嫌われるようになり、当時、豊受神社の南方にあった長安寺の弁天池という広さ三~四坪の池に村人たちはこの鐘を沈めてしまった。
ところで、この弁天池は、かんばつの際、村人
その直後から村内に疫病が流行するようになり、人々は、「あの鐘を引き上げようとしたりするからだ」とますます鐘の不吉さを意識するようになった。
豊受神社では、こんなことがあってから、例祭にショウガ市が立つようになったが、ショウガは漢方では胃腸病などに効能がある薬草として扱われていたと言うから、同神社にあった鐘が原因と思われた疫病の退散やその鐘によって目をつぶされた人の話に端を発して逆に目が良くなるとの人々の願いや厄払いの意味が込められていたのではなかろうか。
また、弁天池に沈めら
がここの清冽な水を汲んで来て雨ごいの儀式を行ったと言われている。鐘が沈められてから長い歳月を経たある年の夏、かんばつに見舞われた村では雨ごいの儀式を催すことになった。
例によって村人たちが弁天池へ水を汲みに来たが、ある者が「ここには昔、豊受神社にあった鐘が沈め
られている。今度引き上げて確かめてみないか」と言い、他の者も賛成して後日を期した。
そして、その当日、何人もの村人が参加して鐘を引き上げる作業を始めたが、鐘を釣るための一番上の竜頭部分までは水面から上がったが、それ以上はどうしても引き上げられず、あきらめてしまった。